キャンドルサーヴィス(2013年12月24日)での、小海基牧師による説教の要旨を公開します。

説教者:小海基牧師
日時:2013年12月24日
於:荻窪教会

羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。…羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(ルカによる福音書第2章15,20節)

 2013年も三日連続でクリスマスをお祝いしました。第一日目のクリスマス礼拝では天使の大軍が「グロリア イン エクセルシス デオ(いと高きところには神に栄光)」と歌ったところを読みました。昨日はバッハのクリスマス・オラトリオの後半Ⅳ~Ⅵ部が演奏されました。今日読むのは、天使たちが去った後羊飼いたちがどうしたのかということです。
 今この説教をする前にも天使たちが歌ったそのままのギリシア語で私たちは歌いました。2000年前から歌い継いでいるのです。考えてみればこれはすごいことではありませんか?日本はキリスト教より仏教だという人もいると思います。この夜のキャンドルサーヴィスに集まっている皆さんの半分近くの人は、必ずしもキリスト者ではないでしょう。でもたとえ「私は筋金入りの仏教徒だ」という人がこの中にいたとしても、サンスクリット語でお経をそらんじているなんていう人はまずいないのではありませんか。ところが皆さんはたった今、天使が歌ったそのままのギリシア語で「グロリア イン エクセルシス デオ」とそらで歌ったのですよ。
 最初に天使たちが歌った大合唱はさぞかし見事な歌声であったことでしょう。でもそれがどんなに見事であっても天上に留まっている限り、救いの知らせは行き渡らなかっただろうと思います。その晩その歌声を耳にしたのは、夜遠し羊の群れの番をしていた羊飼いだけだったからです。もし、その羊飼いたちが天使の歌声の見事さに聴きほれてしまって、「私たちは羊を飼うことにはプロであるかもしれないが、歌は苦手で…」などとひるんでしまっても、天使の歌は今日まで伝わらなかったでしょう。あの晩の羊飼いたちの偉いのは、ただ受け身で耳を澄ましていただけでなく、天使と一緒になって歌い出したことです。本当に素晴らしい歌を聴いた人は、聴くだけで満足することはできないということでしょう。自分も歌わずにいられなくなってしまう。
 同じことが2000年のキリスト教の歴史の中でも起こりました。よく知られていることですが、2000年の内の最初の1500年間は、ただただ信者たちを歌うことから締め出すことに教会当局は力を注いだのです。同じ聖書的宗教であるユダヤ教でも回教でもそんなことはしませんでしたのに、キリスト教だけは教会の中で歌えるのは男性のプロの聖職者だけで、一般信者はそれに耳を傾け聞き惚れるだけということになってしまいました。
 なるほどその1500年間、古今東西の大作曲家たちが競って「グロリア」に名曲を付けていきました。最初の天使たちの歌声に近づけようと競ったのです。おかげで「グロリア」は名曲ぞろいで、フルオーケストラにトランペットも付けて…と、どんどん大がかりになっていきます。聴衆も圧倒され、なんてすごい「グロリア」だと感嘆する名曲ばかりです。
 しかし、最初の天使たちの「グロリア」が天使たちの歌だけに留まらず羊飼いたちも加わらずにいられなかったように、1500年間続いた男性聖歌隊の「グロリア」も一般信者も歌い継ぐようになります。1517年マルティン・ルターの宗教改革が起こったのです。私たちはあと4年で500周年の年を迎えようとしています。
 私たちのこの荻窪教会もルターと同じ「プロテスタント」に属するわけですが、一般信徒が歌い継ぎ始めたとたんに、カトリックの人たちも、教会の壁を乗り超えてもっと多くの人たちさえも「グロリア」の歌声に加わり始めているというのが今日の姿ではないでしょうか。この聖書の世界から見たら遠い東の果ての日本に至っては、「グロリア イン エクセルシス デオ.エト イン テラ パックス ボーネ ボーヌス ターティス.」(いと高きところには栄光、神にあれ。地の上には平和、み心にかなうひとにあれ)と、有名なミサ曲のメロディーに合わせて原文のギリシア語でそらんじて歌える人の割合は、1%のキリスト教人口の割合の10倍以上いるのではないでしょうか。「門前の小僧習わぬ経を読み」ではありませんけれど、されが天使伝来の賛美と知らずに歌い継いでいる人たちが日本人の何割もいるのです。最近ではお寺でさえ、サンタクロースが来たり、クリスマス会が持たれたり、「グロリア」が歌われる始末です。
 さらに聖書は羊飼いたちが決して、自分たちも天使と歌声を合わせることができたということで満足したと結ばれないのです。羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と、自分たちに与えられた救い主を探し出す旅、「求道」の旅に出発するのです。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」、つまり羊飼いたちの歌声は、「求道」の旅の果てに、自分の目と耳で救い主の赤ちゃんの存在を確認したうえでさらに大きくなったというのです。さらに大きくなった歌声は、その喜びを独り占めにせず、分かち合い、歌い継がれ、今夜このキャンドルサーヴィスを守るこの場所にまで届いているというわけです。
 さあ私たちもこの喜びを歌い継いでいきましょう。

<2013年秋の伝道礼拝>第3回(10月27日)説教要旨を掲載いたします。

歴史を導く神<2013年秋の伝道礼拝>第3回(10月27日)説教要旨

荻窪教会牧師
小海基

歴代誌下36:21~23
コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:58

<メッセージ>

 聖書の信仰は歴史を土台に生まれています。神様は私たちを意味あるものとして創造し、私たちが滅びないように私たちの歴史のただ中に出来事を介入し、救いの出来事を成就させたと聖書は語ります。神様のひとり子は神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられ、人間の姿で現れてくださって、十字架についてくださったのです。それを私たちは「受肉」(じゅにく)と呼びますが、その救いの出来事は2000年前の、日本から遠く離れた中東イスラエルの出来事というのではなく、私たちそれぞれの歴史のただ中でも具体的に起こっていることなのです。私たちの人生に神様は介入されて、私たちを救いへと導いて下さったということを聖書は伝えようとしているのです。

 今日読んだのは歴代誌の終わりの部分です。ユダヤ人の聖書では、旧約聖書の一番終わりに歴代誌が置かれています。ですから今日の部分は、聖書の一番最後におかれている言葉であり、旧約聖書の結論のような所です。
 旧約聖書には色々なことが書いてあります。神様が天地を造られ人間が造られたという話から始まり、エジプトで奴隷であったイスラエルの民をモーセが40年の旅路の後、約束の地に導き約束の地を立てていったのだけれど、度重なる罪の結果、せっかく与えられた約束の地を失ってしまい、バビロニアで奴隷生活を余儀なくされる…。そのバビロン捕囚が70年続きました。そういう流れで来たその最後に、預言者エレミヤの口を通して告げられた神様の約束は実現した。70年のバビロン捕囚後、キュロス王がおこされ、キュロスによって解放され奇跡的に再び約束の地に帰る日があったのだ、と旧約聖書は終わりにまとめるのです。

 バビロニアでの奴隷時代に主なる神を忘れ、ヘブライ語も忘れて名前もバビロニア風に変えられ、聖書の言葉も聖書の信仰も忘れかけているかもしれない。70年間は約束の民が不在で、約束の地は砂漠となってしまった。しかしその全期間を通じて地は安息を得て、そして神様の約束は年月が満ちて成就したのだと語るのです。そのために神様が用いたのは、異邦人のペルシャ王キュロスでした。歴史を導く神様は、ご自身の意思の中で捕囚の荒廃や異邦人さえも用いて歴史を進められるのです。
聖書の語る歴史は循環的な物ではなく、始めがあり終わりがあるという一直線の歴史です。その歴史の中で確実なことは、歴史を導いているのが神様である以上、神様の約束の言葉は実現するということです。歴史の中で刻まれた色々な不幸なこと、嫌なことは沢山あるかもしれない。その場に直面している私たちは理解できない、神様は一体どこにいるのだろうかと思うようなこともあるかもしれない。しかし最後から振り返って見るとそれさえも意味あることであると思わざるを得ない。そのような一直線の歩みが聖書の語る歴史なのです。そういう信仰を「摂理」といいます。その摂理の信仰が旧約聖書の一番最後に記されているのです。

 新約聖書でその成就が書かれている神様の救いの出来事は、天地創造のように神様の一声で成就したかもしれないけれど、そうではなく神様は非常に丁寧に手をかけて私たちの救いに自ら介入し、十字架と復活の出来事を起こされました。私たちはそういう歴史を導く神様に委ねて、主の技を励み伝える群れであっていきたいと思います。

(終)

<2013年秋の伝道礼拝>第2回(10月20日)説教要旨を掲載いたします。

ヒズ ストーリー<2013年秋の伝道礼拝>第2回(10月20日)説教要旨

荻窪教会副牧師
龍口奈里子

イザヤ書43:16~21
ヨハネによる福音書5:31~40

<メッセージ>

 私が「歴史」という言葉を聞いて思い出すのは、神学部時代の教会史の講義での出来事です。「宗教改革って何?」という質問から始まった講義の中で「ヒストリエ」と「ゲシヒテ」のいう2つのドイツ語が板書されました。両方とも「歴史」という意味ですが、「ヒストリエ」は単に出来事を指し、「ゲシヒテ」は意味が加わったものを指します。講義のまとめに先生は、単なる出来事だけで歴史になるわけではなく、そこに意味が加わって初めて歴史と言えると述べ、さらにその歴史は、私たちの時間(クロノス)に、神の時間(カイロス)が介入することによって、意味のある歴史となるのだと締めくくられました。

 今日の説教題は「ヒズ・ストーリー」です。英語のHISTORY(ヒストリー)は、His(彼の)+Story(物語)が合わさってできた言葉だという通説があります。キリスト者にとって信仰とは、His(神の)Story(歴史)が私たちの時間の中に入ってくることによってMy story(私の歴史)が豊かにされることを証することである、と聖書は言います。今日の旧約聖書には「私の栄誉を語らねばならない」(イザヤ43:21)とあり、神の歴史に巻き込まれた自分の歴史を、次の世代に語っていくことが「神の民」となるのだと教えています。私たちと共にある神の物語は、「荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ」(イザヤ43:20)と記されている通り、希望の物語です。私たちの物語に介入してくる神とは、私たちの過去にも現在にも、未来にも介入してくる方なのだから、過去の恵みだけを物語るのでなく、今も将来も、神と共にある希望を語ることが「神の民」となるのだ、とイザヤの預言は語るのです。

 この夏訪ねたドイツのライプツィヒにあるニコライ教会は、東西ドイツ統合の象徴として世界的に有名な教会のひとつです。東ドイツに属していた1982年ごろから、毎週月曜日に「平和の祈り」の集会が持たれ始めました。若い人たちを中心に、平和について語り、祈りあっていたそうです。この小さい集まりが徐々に大きくなり、1989年10月には7万人が平和の行進を行うまでに規模が拡大。あっという間にドイツ全国に波及し、1ヶ月後の1989年11月9日のベルリンの壁崩壊へとつながるのです。これは、偶然の重なりではありません。ニコライ教会の若者たちが、平和を求め必死に祈り、神の歴史の介入を信じ、祈ったからこそ、まるで「砂漠に大河を造るような」希望のある未来が歴史的に起こったのではないか、と私は考えました。今でも、ニコライ教会では毎週月曜日に祈りの集会を続けています。

 今日の新約聖書(ヨハネ5:31-47)ではイエスご自身が、自分を証しするとはどういうことかについて、「神ご自身が、自分について証してくださることだ」と語っています。イエスご自身のMy storyは、His Story 神の物語なのだと。つまり私たちは、神に向かった自分の人生を語り継いでいけばよいのだ、とイエスは述べているのです。
 私達の時間に限りがあっても、現実の壁に押しつぶされそうになっても、His Storyが今もこの先も働き続けることを信じて待つこと、自分の力を超えた神を信じ、自分の人生を作ることが、私たちの歴史・My storyとなるのです。そのために、祈り、私たちの人生を豊かなものとしてくださる神の物語・His Storyを語ってゆきたいと思うのです。

(終)

<2013年秋の伝道礼拝>第1回(10月13日)説教要旨を掲載いたします。

マイ ストーリー<2013年秋の伝道礼拝>第1回(10月13日)説教要旨

東中野教会牧師
鈴木 重正

詩編  121: 1~8
ヨハネによる福音書
21:15~19

<メッセージ>

 「自伝的な説教を」との依頼を受けました。40年近くの牧師生活で初めてです。まだ自伝を語るほどの歳ではありませんが、皆様との出会いとして与えられたテーマと受け止めて「マイ ストーリー」と題してお話いたします。

キリスト教との最初の出会いは宝塚の土曜学校

 父は敗戦まで、満鉄(南満州鉄道)に勤務しており、敗戦後引き揚げて阪神間で転居を重ねました。私が生まれたのは宝塚に住んでいた時で1948年(昭和23)です。
 キリスト教との最初の出会いは母方の祖母の家に住んでいた幼稚園児の頃、近所の家の「土曜学校」です。たぶん母が私を行かせたのだと思います。カトリックのシスターが見えてペープサート、紙の掲示板に着脱式の人物画を貼って聖書物語を話して下さった場面が記憶に残っています。楽しいクリスマスに心躍らせたのもこの頃でざっと60年前、聖書は文語訳でした。祖母は学生時代に東京の聖公会で受洗、母は若い頃、倉敷で受洗していたと聞きました。
 小学2年の時、大阪の中心部の心斎橋近くに引っ越しました。高学年になったある時、理由は分かりませんが、父が映画「ベンハー」を見につれて行ってくれました。また地域の子ども会で「十戒」を見ました。両方ともとても好きになりました。

16歳のクリスマスに受洗、中高生礼拝の週報づくりを担当

 教会に通い始めたのは高1からで教会は荻窪教会と同じ程度の規模でした。伝道師の先生の熱心なお導きで高1のクリスマス、16歳の時に受洗しました。教会では朝9時から中高生会の礼拝を守り、大人の礼拝にも出ました。
さらに土曜日には教会の掃除、中高生礼拝の週報づくりも担当しました。当時はガリ版で、私はこの仕事がとても好きでした。
 先生から、週報に詩編の暗唱聖句を選んで掲載していく課題が与えられました。詩編を読んで気づいたことは怒りや嘆きが強く表現されていて赦しや愛が少ないということでした。これでも聖書なのかと子ども心に疑問を持ちました。しかし週報づくりに際して詩編を学んだこの経験は後の私の信仰生活に大いに意味あることとなりました。
 母が教会の執事となり、しばしば教会の裏話を聞かされて、教会のあり方に疑問を抱いた反抗期の時期もありましたが、その後キリスト教系の大学に進みました。
 ちょうど70年代の大学紛争の時期であり、若者らしい正義感に燃えて大学批判、ストライキやバリケードも経験し、また幾つかの挫折を経つつも、その後、神学部に編入学しました。それは聖書を学ぶことの恵みと喜びを知らされたからでした。

神学部への進学を決定づけた詩編121編の学び

 夏の聖書セミナーで詩編の121編を学んだ時の感動を忘れることが出来ません。私にとって山のイメージは私がハイキングなどで親しんでいた緑豊かな六甲山でした。しかし聖書の山は岩陰に獣や盗賊が潜む危険な山で、そこを通らないとエルサレム神殿に行けませんでした。そうした恐れや不安の中での信仰を歌うのがこの121編でした。聖書理解の自分の浅はかさ、愚かさを悟り、思い込みでなく聖書の事実に即して聖書を読むことの意義を知らされました。この経験があったからこそ、神学部に編入学したと言えます。実は当時別の進路を予定しており内定までしていましたが、取り消しのお願いをしたのでした。

牧師への道を選択する決心は祈祷会の体験を通して

 大学紛争を経た当時の神学部は教授と学生の間に不信感があったようでギクシャクしていました。私が祈祷会を提案して開始しましたが、4、5人集まれば良い方で自分一人の時もありました。しかし一人で声を出して祈る経験を通して、祈ること、悔い改めることを自分自身に問い直す良い機会となり、言葉巧みに祈っても、喜びがなければそれは空しいことと気づかされました。これは私にとって一つの回心体験でした。神学部を卒業して別の道に進む人もいますが、私はこの回心体験を通して、牧師への道を選択しました。
 神学部卒業後に遣わされた初任地は神戸の教会で、ここでは着任13年目に会堂建築を経験しました。そのほぼ1年後の1995年1月17日に阪神・淡路大震災に遭遇しました。新築していたお蔭で建物も私も無事でしたが、もし旧会堂のままなら確実に倒壊して死んでいました。

スイスでバランスのとれた成熟した信仰生活を学ぶ

 大震災以前から私のスイス行きは決まっていたため予定通り教会を辞任させて頂き、1995年4月末にドイツに旅立ち、9月からスイスでの宣教活動に入りました。午後の修養会でスイスの体験についてお話しますので礼拝では簡単に触れさせて頂きます。
 スイスでは国内宣教チームの一員として任務を与えられ、私を含む6名の外国人宣教師が集まってスイス国内の教会や学校をあちこち回りました。ここはドイツ語圏でしたが、スイスドイツ語が主流であり、礼拝説教は殆ど聞き取れませんでした。また私に話しかけられる時はドイツ語ですが、皆さん同士で話される時はスイスドイツ語なのです。
そうした事情から礼拝で歌うドイツ語の讃美歌の時は言葉を噛みしめて大声で歌いました。またスイス滞在中に日本の合唱団の演奏旅行の仲介もしました。こうした経験を通して「歌う喜び」「音楽の力」を改めて強く感じました。日本の合唱団が歌う日本の歌には大抵「ふるさと」(うさぎ追いしかの山)があり、この曲を聞くと私はいつも涙が出てきました。好きな讃美歌の一つが54年版の529番(ああうれし、わが身も)です。これは英語の歌詞が素晴らしくて、特に折り返しの「This is my story, this is my song」が大好きで今日の説教題もここから採りました。
 宗教改革について本を通じてではなく、現地の生の歴史を体験して学べたことも大きな貴重な経験でした。
 あるスイスの友人が私の誕生日に木製の「ワインボトルホルダー」をプレゼントして下さいました。これは微妙なバランスでワインボトルを水平に保つ不思議な道具です。その時に教えられたのは信仰にとって大事なことは罪の意識、赦しの恵み、信仰に生きる喜びをバランス良く保って歩むということでした。そこに成熟したキリスト教の姿があるのです。
 スイスで所属した教会は会員12,000人で礼拝出席は300人という状態ですが、生活に根づいている信仰者の姿を学びました。生活の中に信じる喜びが空気のように広がっているのです。
 キリスト教は実践を伴う信仰です。私たちも、心と思いと行いのバランスが取れた信仰生活を心豊かに送れるようでありたいと願います。

(終)

説教要旨 2013年11月10日「主を求めたからこそ」(荻窪教会牧師・小海基)

「主を求めたからこそ」  2013年11月10日             小海 基

歴代誌下 第14章、 コロサイの信徒への手紙 第3章1~4節
「我々は、われわれの神、主を求めたので、この地を保有することができる。主をもとめたからこそ、主は周囲の者たちから我々を守って、安らぎを与えて下さったのだ」(歴代誌下14:6b)。

紀元前922年、ソロモンの息子レハブアム王の時代に、イスラエルが南北に分裂して以来、南ユダ王国のダビデ王朝に名を連ねる王様は20人おります。しかしその中で後世から「良い王」として評されるのはたったの5名しかいません(アサ、ヨシャファト、ウジヤ、ヒゼキヤ、ヨシヤ、ただしウジヤは歴代誌においては評価が低い)。今日登場するアサ王は、列王記の方ではたった16節の記載しかありませんが、ダビデ以来の久々の場外ホームランのような良い王様です。歴代誌の著者はこのことが余程嬉しかったのでしょう、実に14~16章にかけて3章にわたって記録するのです。アサ王こそ「主を求めた王」、「平和の王」だと高く評価するのです。41年間の治世の内今日の14章が最初の10年、次の15章が続く25年を記録するのですが、多少の波風が立ったけれど最晩年の6年間を除く35年間は平和が続いたのだというのです。
私たちの日本という国は敗戦後から68年を数えました。あともうちょっとで70年です。こんなに長く平和が続いたことは日本史を振り返っても無かったでしょう。理由ははっきりしています。「平和憲法」があったからです。しかし今その「平和」が「特定秘密保護法」(22日には日比谷の野音で1万人の反対集会が開かれ、私も参加しました)という悪法制定を強行することを皮切りに、「平和憲法」を改悪、なし崩しにしようという動きが加速しています。こんな時こそ「平和の主」イエス・キリストを求めているはずの私たちの日本基督教団が先頭に立って国政の流れに否を唱えなければならないのに、キリスト教の他の教派が声を上げているこの時になっても沈黙しているのは本当に残念であり、みっともない話です。この70年近く、いや半分の35年間でも良いです。イスラエル周辺の中東地域でどれほど戦争が繰り返されてきたことかを振り返ってみても、アサ王即位から35年間平和が続いたというのは、現代社会と比較してさえ奇跡のような話です。特に最初の10年間の平和については、今日の14章の4、5、6節に「平和」、「平穏」、「安らぎ」という言葉が立て続けに5回も繰り返されていることから、歴代誌がどれほど強調しているかが伝わってきます。
アサ王の曽祖父ダビデ王は良い王、名君でしたが、その生涯は決して平和ではありませんでした。身内からも戦争を挑まれた王です。戦争に強い王に過ぎませんでした。祖父ソロモンもエジプト風の軍馬や戦車といった当時の最新兵器を富に任せて増強させ、国民を徴兵し、合計1000人にものぼる外国人妻、側室との政略結婚で平和のバランスを保った軍事超大国の故の平和であったに過ぎません。
それに比べてアサ王の平和はどうでしょう。彼の政策は軍事増強策でなく防衛策(5節以下)です。最初の10年間の最大の危機は、20年前に父レハブアム王を悩ましたクシュ人の侵略だったと今日の14章は伝えまずが、倍の人数のクシュ軍(その中には南ユダ王国からはとっくに姿を消した古代社会の最新兵器である戦車300両も含まれていた!)に勝利したと聖書は伝えます。この危機の中で「主を求め続けた」アサ王の最大の武器は祈りであった(11~14節)と、「平和憲法」を捨てかねない私たち現代の日本人に対して聖書は静かに語るのです。平和をもたらしたのは、兵の数でも、最新兵器でも、政略結婚等の外交政策でもなかったというのです。結果はどうでしょう。クシュ人の侵略はアサ王の治世41年間の中では列王記に記録するほどの価値もないエピソードとなってしまったというのです。平和は少しも揺るがなかったのです。

主と共に歩む旅路<2013年春の伝道礼拝>第3回(5月26日)説教要旨

ウエスレー財団ディレクター 小海 光
創世記12:1~4
ヘブライ人への手紙11:1~3

<メッセージ>

私たちの人生は、思いもよらないことが多くあるものです。誰も自分の計画通りの人生を歩む人はありません。私は日本で神学校を卒業後、アメリカのボストンに渡り25年を過ごしました。始めは2年の学びの後帰るつもりでした。しかし、卒業証書に、夫もついて来て、アメリカに暮らし始めることになりました。夫は韓国人で、合同メソジスト教会の牧師になるところでした。夫の招聘先の4つの教会で子育てをしました。どこも片田舎の教会で、町に白人でないのは私たち家族だけでしたから、いつも興味津々にみられました。後に私自身も牧師となり、5教会併せて14年牧会をしました。

メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーはこんなことを言っています。「メソジストの牧師がいつも準備しておかなければならない事に2つある。いつでもどこでも説教できる事と、そして、どこへでも行く事です。」私たちも10回引っ越しをしました。正直家族をもっていると連れ合いのこと、子どもの学校のことで不安もあります。新しい教会と環境に慣れるのだろうかと、毎回不安で一杯でした。

そんな時いつも思い出されたのが、アブラハムとサラの旅立ちです。アブラハムはある日主より、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。」と言われ、主の言葉に従って旅立った。75歳であった。

よく決断したと思います。地理が今のようにわかっている状況ではないのですから、何がおこるかわからないのです。不安を持つのは当然です。でも、ヘブライ人への手紙の著者によれば、「信仰によってアブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(11章8節)。人生は旅です。そしてその歩みの途中には予想もしなかった喜びもあり悲しみもあります。

1番目の娘が生まれたとき初孫を父と母はどんなに喜ぶだろうかと思いました。しかし母が子宮がんにおかされていることを知らされたのです。待ちに待っていた孫がやっと与えられたのに、いったいどうしてと悲しみました。闘病中の母を少しでも元気づけるために、娘の写真をたくさん送りました。その娘が3歳になった時白血病と診断されました。それからの3年間は、抗がん剤治療で入退院を繰り返し、心も体もくたくたになる毎日でした。幼い娘の苦闘する姿を見るのは、母親として本当につらいことです。それにもまして悲しかったことは、治療中同士の母と娘がまた会える時があるだろうかと思うことでした。娘の治療中は日本を訪ねることができなかったのです。しかし、もう母がかなり弱って来ているのを知った時、神様は祈りを聞いてくださり、母と娘は1ヶ月を共に過ごしました。その間、母が命を孫に与えるかのように弱くなっていくかたわらで、娘は元気を取り戻していきました。母が天に召されたのは、私たちがアメリカに帰ってから3週間後でした。

私たちの人生は私たちの計画通りにはいかないのです。災害だって、人災だって起こります。だから明日の事を思うと不安になります。でも、私たちは主の与えられた約束を知っています。「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」主イエスキリストの愛はいつまでも私たちとともにいるという約束です。私たちと共にいます、という方が、私たちの人生の旅の終わりの一歩まで共に歩んでくださり、さらに死を超えて永遠の命の旅へと導いてくださるということを信じて、どこに行くかわからない旅に出るのです。それが信仰です。

それはいつも順調な歩みではないのです。時に深い悲しみのうちに、エマオへの道を旅した弟子達のように、主が傍らにいてくださる事が見えない事があります。時に主の御心がわからなくて、疑いと迷いと不満をいう荒野を旅するイスラエルの人々のようになる時もあります。主の声に従って水の上を歩き始めたけれども、急に風と波に怖くなって溺れかけるペテロのようになる時もあります。でも忘れてならない大切なことは、私たちには見えなくとも、神様は共に歩いておられます。私たちは行き先を知らずとも、神様は知っておられます。私たちはその方を知っており、信頼することができます。そこに喜びがあります。

ちょうど1年前、メソジスト教会のビショップから、日本に宣教師として行ってほしいという電話を貰いました。最初に口から出た言葉は、「それは無理です」でした。家族のことや、もうアメリカに25年もいて、今日本に帰っても私に何ができるだろうかという不安からでした。でもビショップは、日本に新しく建てられたウェスレーファウンデーションでミッション活動を通して、アメリカと日本をつなぐ働きをする人がぜひ必要なのだと言われました。1週間悩みのうちに祈りました。そして示された事は、25年目の召命という事でした。私が初めてアメリカに行ったのは25歳の時でした。それから25年経った時この召しを受けました。今では日本もアメリカも私のホームです。日本の教会もアメリカの教会も私の信仰の家族です。この時に主は私の名を呼んで、住み慣れた家を離れ、神様が示す新しい道を歩き出しなさいと言われていると確信しました。

神様が私たちに促す新しい旅の歩みとは、何も大きな人生の転機をさすだけではないのです。私たちは毎日主と共に歩き出す決心を促されています。自分の計画と知恵に頼って歩むのか、主のご計画と知恵に頼るのか、この世の富と人の評価を信頼するのか、主の約束の言葉を信頼して主の示される旅を歩み出す生き方が出来るのか。信仰による決断です。

最後にアメリカで愛されているゴスペル賛美歌を一つ紹介しましょう。

明日の事は私にはわからない/ただ1日1日を生きていく/太陽にもたよれない、雨になるかもしれないから/でも明日の事は心配しない/イエス様の言葉を知っているから/主に寄り添って歩いていこう/主がすべてをご存じだから/明日の事は私にはわからない/でもこの事だけは知っている/明日を握っているのは誰かと言うことを/そして私の手を握って下さる方が誰かということを。

主は今日もあなたと共に歩いておられます。感謝と共にその旅路が豊かな祝福のうちにありますようにと共に祈りましょう。

宿題の旅<2013年春の伝道礼拝>第2回(5月19日)説教要旨

荻窪教会副牧師 龍口奈里子
詩編 121:1~8
ヨハネによる福音書 21:1~14

<メッセージ>

 皆さんは、「さとり世代」と称される世代をご存じでしょうか。この世代は、「ゆとり世代」のあとの世代で、現在10代から20代半ばの人たちを指しています。彼らが生まれた時代というのは不景気の真っ只中で、頑張っても仕方がない、夢や目標を持つのは無駄だと、あきらめ気味に悟る姿から、「さとり世代」と名づけられたようです。

大学で若い世代と接している私が、このさとり世代に特徴的なことに気づいて、それを同僚に話してみると、同様に感じている方が多くて驚きました。一言で言えば、自分で出来る範囲の課題を先回りして無理なく失敗しないように対応するという生き方なのです。例えば今年の新入生はスマートフォン元年世代でもあり、ツイッターやフェイスブックを駆使して入学前から連絡を取り合う友だちが出来ていて入学式前に名前と顔が一致する友だちができている人が少なくありません。

また計画的で目標も持っています。講義に必要な参考書を事前に尋ねて来たり、入学したばかりの4月というのに、はやばやと、ボランティアや留学に関わる問い合わせを多く受けました。

しかし問題は、仮に大学の4年間がうまく過ごせたとしても、もっと長い卒業後の人生はそんな風にはいかないということです。それは人生という旅には「宿題」があるからです。人生の宿題となると、まず自分の宿題を自力で見つけることが出来ず、計画的に終わらせることも出来ません。なぜなら人生を積み重ねていくなかで新しい人や出来事に出会い、そのたびに新しい発見や変化があり、その次にまた新たな宿題が出てくるからです。私たちの人生は、いわば「宿題の旅」なのです。

本日の聖書のヨハネ21章に登場する主イエスの弟子たちは今日読んだ場面の3、4年前に初めて主イエスと強烈な出会いを経験し、第2の人生、旅が始まっていたのでした。不思議な力、オーラを持ったイエスに従っていけば、かつての漁師時代よりも自分の思い描く人生を歩めるかもしれないと思ってイエスとともに旅を続けていたのです。しかしイエスはその後逮捕され、十字架に架けられてしまい、弟子たちにとっては、それ以降の人生がひっくり返ってしまったのでした。

落胆の弟子たちに復活のイエスが3度現れます。弟子たちは3度目にようやく、それがイエスだと気づいたのでした。その時イエスは「何か食べる物があるか」(5節)と問い、元漁師であったペトロに網を打つ場所を教え、網を引き上げることが出来ないほどの魚がとれたのでした。

ペトロに初めて出会った時に、主から「ケファ」「岩」という名前まで与えられたシモン・ペトロでしたが、彼は何度も挫折や失敗を重ねてきていた弟子です。そうしたペトロに復活のイエスは、み言葉を伝え、人を漁ること、そして揺るがない土台の上に教会を建てなさいという命令、宿題を与えたのです。私たちの信仰生活でも似たようなことがあると思います。

私たちの人生も失敗と挫折の繰り返しです。そのたびに主は新しい宿題を与えられるのです。詩編121編の詩人は「主はあなたを見守る方」(5節)と歌っています。

私たちは、私たちに眼差しを向けて下さる方を見上げ、よろめきそうな足を主に向け、耳を主からの問いかけに向けて、託されている「宿題」に応えていけるよう、祈りながら人生の旅路を一歩一歩、歩んでいきたいと願います。

地図の無い旅<2013年春の伝道礼拝>第1回(5月12日)説教要旨

荻窪教会牧師   小海 基

 詩編119:18~19
ルカによる福音書10:30~37

 <メッセージ>

人生は「地図の無い旅」です。出かけないで引きこもっていれば安全で安心ですが、出かければ危険がある一方で素晴らしい恵みに出会うこともあります。ここで最大の問題は自分が人生という旅の正確な地図を持っているという思い込みです。

地図通り予定通りに目的地にたどりつけない時に、私たちは自分の不完全さを棚に上げて絶望し、行き詰まっているのが私たち人間の姿であることを忘れているということです。

人生には地図などあっても無いに等しいと考えて旅を楽しみ、思わぬ出会いを大切にできる旅があります。実は私たちが導かれている真実な旅は、そういうものです。

平時には気づきにくいことかもしれません。第二次世界大戦末期に強制絶滅収容所でピアノ線による絞首刑というむごい方法で処刑された神学者で牧師のディートリッヒ・ボンヘッファー(1906~1945)が残している言葉にハッとさせられます。

彼は神学的には天才であり、もし若い頃に自分が描いた人生の地図通りに歩いていたなら、師である神学者アドルフ・フォン・ハルナック(1851~1930)の愛弟子として国立ベルリン大学で大神学者になっていたことでしょう。しかし神様は彼の人生の地図を、ずたずたにされたのでした。彼は反ヒトラーの牧師の代表的存在として大学から追放され、説教壇から語ることも禁じられます。

米国の友人たちから米国への亡命を勧められますが帰国し、その後逮捕され、最終的にはヒトラー暗殺計画(ワルキューレ作戦)に加わった一人として処刑され、39歳の生涯を閉じるのです。何もかもが予定外の人生でした。

彼が残した黙想に詩編119編に関わるものがあります。119編はヘブライ語のアルファベットに合わせた日本流に言えばいろは歌のような詩で、聖書の中で一章の長さが最も長い詩です。彼はその19節の黙想で彼はアブラハムやヤコブの歩みを引用し、自分は地上で一人の旅人だと言っています。さらに18節について「神が私に示すものを見ようとする時、私は私の感覚の目を閉じなければならない。御言葉を私に見せようとなさる時、神は私の目を見えなくされる。目の見えない人の目を、神は開かれる。(中略)目の不自由な者のみが、開かれた目を求めて叫ぶ」と述べています。私たちはエリコの盲人バルティマイのように「見えるようになりたい」と叫び続けなければならないのです。

ルカによる福音書10章の「サマリア人のたとえ」も読みました。

『キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか』(モルデカイ・パルディール著松宮克昌訳)では、「サマリア人のたとえ」に突き動かされるようにして、あの時代にキリスト者がユダヤ人救済運動にどう関わったかの証言が記録されています。

「サマリア人のたとえ」が責任的応答、服従を促す大きな契機であったことをボンヘッファー自身も繰り返し語っています。

人生は地図の無い旅であり、手さぐり状態で導かれる旅なのです。地図が無くても導いて下さる方がおられ、見えなくても見えるようにして下さる方がおられるのだから、私たちは委ねて旅を進めることができるのです。

 

預言者とヤロブアムの罪

13年7月14、21日
荻窪教会牧師 小海 基

列王記上 第13章
使徒言行録 第5章29節

「あの人が、主の言葉に従ってべテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての聖なる高台の神殿に向かって呼びかけた言葉は、必ず成就するからだ」(列王記上13:32)。

列王記上第13章に描かれている物語は、それだけを読む限り大変奇妙な内容です。

南北にイスラエルが分断した直後、北イスラエルのヤロブアム王がかつて自分が労務監督として北イスラエルの民衆が重労働でさんざん苦しめられ続けたのを目の当たりにしたソロモン王のエルサレム神殿に対抗して、古い聖地であるダンとベテルに神殿を設けます。南ユダ王国の温室育ちのソロモンの息子レハブアム王とは比較にならないほど信仰的であり、民の苦しみにも傾ける耳を持つヤロブアム王です。まさに理想的な政教一致政策が始まったのです。ヤロブアム自身もサウル王、ダビデ王と並んで神様自身が立てた王です。世襲のダビデ王朝と違って士師時代のような一代ごとのカリスマ的指導者です。ソロモンやレハブアムとは格が違います。今日の聖書学者たちが口をそろえて指摘しますが、ヤロブアムの居た金の子牛像は聖書が悪意を込めて「ヤロブアムの罪」と語るような偶像などではなく神様の足台に過ぎず、もしそれを「罪」と告発するならソロモンの神殿の12頭の雄牛像が支える「青銅の海」の方がよほど異教的であり、偶像崇拝的というものです。王政と癒着して堕落するばかりの南ユダの職業的祭司やレビ人を廃して、信仰深く民の声にも耳を傾けるヤロブアム王自身が率先してべテルの祭壇で功を炊き、執成し祈っているのです。そこへ南から預言者がやって来ます。なるほどこの南ユダ王国の預言者は王宮付きの預言者とは全く縁のない、昔ながらの、つい昨日まで農民か羊飼いをしていてある日突然神の召命を受けて遣わされたような人で、見かけは実にみすぼらしく、知的でもない人です。語っている自分でも、聞かされているヤロブアム王も、預言内容が何を意味しているか理解できなかったことでしょう。実に300年後のヨシア王の時に成就する預言です…。

このほとんどの註解書でも、説教集でもほとんど取り上げられることなく、無視され通り過ごされてしまうことの多いたった34節の奇妙な話を、カール・バルトがわざわざ取り上げて、『教会教義学』「神論」の「35節個人の選び」の章のクライマックスのところで、中で実にドイツ語で10頁、邦訳なら29頁も費やして述べているのには驚かされます。

今日7月24日は参議院選挙であり、結果的には与党が「ねじれ」を解消して、これで平和憲法改正も、増税も、原発再稼働も何もかもスムーズに、思うがまま行える形になってしまう結果となりました。実はバルトがこの部分を書いて出版した1942年も、大変よく似た政治状況(もちろん今の日本よりももっと深刻でしたが)であったことを私たちは知っています。第二次大戦の莫大な賠償金にあえぎ、当時ヨーロッパで最も先進的なワイマール憲法下の共和政のねじれ現象の中で有効な政策を打ち出せないままハイパーインフレさえ生じていたドイツの「危機」の中で、「ねじれ現象」を解消し、憲法を改正したのはヒトラーでした。1933年に政権をとるや否や、ハイスピードで「全権委任法」を成立させ憲法を形骸化させ、自ら総統となり全権力を掌握し、ユダヤ人を強制絶滅収容所に送りその財産を取り上げ、庶民にフォルクスワーゲンが行き渡り、全戦全勝の快進撃を繰り広げたわけです。あの時代の預言者の働きをなすべき思想界は、ドイツの大学を哲学者ハイデガーの下に統合整備し、神学界・教会はミユラー監督とドイツキリスト者の下に統合再編し手なづけてしまいます。実に見事なものです。思想界、神学界のほとんど全てをヒトラー政権の職業的御用偽預言者としてしまったわけです。この29日には調子に乗った我が国の麻生太郎副総理が「あの手口に学んだらどうかね」と本音を漏らしています(4日後に発言撤回)。

ねじれ現象も解消し、一見すべてがうまく進むかに見えた中で、ちょうど南からの本物の神の人、昔ながらのみすぼらしい神の人が登場するように、まさにこの列王記上13章の註解が入ったバルトの『教会教義学』「神論」Ⅱ/2が表紙を付け替えられ、イギリス聖書協会経由で『カルヴァン研究』(なるほど「予定論」について言及されているのでこの題名は見当違いでもありませんが…)という偽の題名を付けられてドイツに密輸されたのです。

この部分が書かれる前年41年に、スイスにいたバルトを「国防軍の秘密使節」としてボンヘッファーが訪ねます。ヒトラー政権を倒して臨時軍事政権が誕生したらどのように連合国と停戦交渉できるかという相談に行ったのです。おそらく44年に起こったボンヘッファー自身も関係者として処刑された「7月20日事件」(「ヴァルキューレ作戦」とも呼ばれた爆弾によるヒトラー暗殺未遂事件)までも踏まえていたのかどうか今日となっては分かりませんが、きなくさい具体案をバルトに示したようです。バルトは話を聴いた上で「連合国がそれに応ずることは考えられない」と悲観的に語り、ボンヘッファーは大変当惑悲嘆の表情を浮かべて別れたということがありました。イスラエルは南北に分断されてはならないと南の神の人も北の老預言者も考えたように、バルトもボンヘッファーも気持ちの上ではヨーロッパの分断、破局を何とか回避できないかと願っています。その会談を踏まえて列王記上第13章の註解が書かれたと思われます。問題は人の願いでなく神の御心がどうなのかということではないのか?そして『カルヴァン研究』という表紙を付け、可能な限りのあらゆるルートを使ってドイツにいるボンヘッファーたちに届けられたのです。ですから『教会教義学』のこの部分はバルトが自分とボンヘッファーたちを列王記の預言者たちと重ねながら悲壮に語っていることが良く伝わってきます。

この列王記上13章では、逮捕を命じようと振り上げたヤロブアム王の手が萎え、しかし南からの神の人の執成し祈りによって癒されたとあります。見るからに空腹で喉も乾ききっている神の人を王が感謝の食事に誘うと、自分は食べることも飲むことも神から禁じられているとこの神の人は答えるのでした。しかしべテルの老預言者(王室の職業預言者)は善意からであったでしょうが神様は自分にはお許しになったと嘘をついてもてなしてしまうのです。その結果神の人はユダ族の旗印にもなっている獅子に殺されてしまったというのです。獅子は神の人を殺しただけで、亡骸にも乗っていたロバにも手を書けませんでした。

バルトは言うのです。本来預言者というのは、南から来た神の人であろうと、北の職業的預言者であろうと、神の言葉があって初めて預言者なのだというのです。見てくれとか、雄弁さとか、しっかりとした考えを持っているということは本質と何ら関係ないのです。南から来た神の人が北の老預言者の嘘にまんまと乗せられてしまい、食卓にあずかってしまったのは、おそらくは北のヤロブアム王たちの祭儀や祈りに南以上に真実なものを感じ、南北分裂はあってはならない事だと思う思いがあったからでしょう。だから神様は自分の目の前でヤロブアム王の手を癒されたのだという思いがあったのでしょう。しかし食物と水を口にした途端に、北の偽預言者に神様の本当の預言、滅びの預言が下ります。ついさっきまで偽預言者であったものであったとしても神の言葉が下れば真実の預言者の役割を果たさざるを得ないのです。「あなたは主の命令に逆らった…」(21節)。聖書は300年後に南の神の人の預言が成就したことを列王記下第23章16~18節で記録しています。300年後の人々はその時、南から来た神の人の骨も嘘をついてしまった北の老預言者の骨も、敬意を払って大切にし、決して手を書けなかったことが報告されています。

バルトは言います。「神の言葉が事実沈黙せず、共通的な咎が事実、否定されていないということによってまた彼もすくわれているのである」。「イスラエルのひとりのまことの神は、たとえイスラエルがどんなに神を見損ない、神を全くいつわりの、不当な仕方で拝んだとしても、またその神であることをやめ給わなかったということ…その約束は、またイスラエルに対しても保たれ続けるということである。…ユダとエルサレムが今やこの抜擢に対してふさわしくないものとなり、まさにこの抜擢に対する不忠実さの故に、まず第一に死んで、滅び失せなければならなかった時、結局このこと―神の業が事実引き続いて進行していたということ―によってまたその生も、死のただ中にあって確認され、救われたのである」。これは分断されたヨーロッパの中でスイスにいるバルトがドイツにいるボンヘッファーたちと確認し合いたかったことではなかったでしょうか。

参院選を経て、私たちの国もかつての戦争の時代のような抜き差しない段階に入ったのかもしれません。私たちの求めるのは「ねじれ解消」や安易な偽の希望の預言でなく神のみこころ、「神の言葉の前進」です。

シェバの女王

13年4月21日
荻窪教会牧師 小海 基

列王記上第10章1~13節
マタイによる福音書第12章42節

「シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼をためそうとしてやってきた。…」 

たった13節しか記されていないシェバの女王のエピソードが実は大変な謎に満ちており、後世どんどん膨らんでしまう話であったということを皆さんはご存知でしょうか。シェバという国がそもそもどこにあるか、この女王なる人物も正体不明であるのに、現在日本語で読める書物が、ニコラス・クラップ著『シバの女王―砂漠に埋もれた古代王国の謎』(紀伊国屋書店2003)と蔀勇造『シェバの女王―伝説の変容と歴史の交叉』(山川出版局2006) と二冊も出ているのです。

ユダヤ教の「タルグム・シェーニー」やイスラム教の「コーラン」27章「蟻」では魔女のような悪い存在、キリスト教世界では中世の「黄金伝説」でどんどん話が膨らんでソロモンに「聖盃」をプレゼントしたとか、女王が踏みつけなかった「善悪を知る木」が後に十字架になったといった善い存在、聖人伝説の源になります。評価は全く正反対なのです。新約のマタイ12章42節に出てくる「南の国の女王」も主イエスに「ソロモンにまさるもの」とされているのですから善い存在です。

更にエチオピアのコプト正教会の「ケブラ・ナガスト(王たちの栄光)」という書物では、ソロモンと女王はロマンティックです。この出会いの時に2人は性的に結ばれ、息子をもうけ、エルサレム神殿に会った契約の箱はエチオピアに移され、それがきっかけでソロモンの死後国は南北に分裂、やがては滅亡を迎え、私たちの世代には東京オリンピックのアベベというマラソンランナーと共によく知られたエチオピア最後のハイレ・シェライエ皇帝がダビデ王家の直系のとなるのです。更に更に、そのエチオピア皇帝ダビデ王朝直系伝説を膨らませた1970 ~80年代に中南米の黒人の人たちの間大流行したキリスト教系カルト宗教の1つ「ラスタフェリアン」というのがあります。マリファナを吸い、レゲエ音楽に酔いしれ、故郷であるアフリカのエチオピアにアメリカ大陸から出エジプトを夢見るというカルト宗教です。ボブ・マーリーというレゲエの大家が「エクソダス」というヒット曲を書いているほどです。

他にもシェバの女王はオペラになり、ミュージカルになり、ハリウッド映画になり、ポール・モーリアのイージーリスニングのヒット曲になり…と、どんどん話が膨らむのですが元の聖書はたったの13節で、ほとんど謎しか残らない内容です。よくもここまで話が膨らむものだと感心するくらいです。

「彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせたが、ソロモンはそのすべてに回答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何一つなかった」(列王上10・2~3)。この「質問」なる物も伝説には出てきますが、有名な「スフィンクスの謎かけ」や「トゥーランドットの謎かけ」ほどの内容も無い他愛ないもので少しがっかりします。

ソロモンの名を使った「箴言」や「コヘレトの言葉」で見る限りソロモンの「知恵」は知識の量とか、判断の的確さのような事でなく、世の空しさを知り、神への畏れを知ることです。それはIQが高いから得られるような「知恵」とは異なるものです。

こうやってみると人間はソロモンも彼の「知恵」も、彼の「栄華」の意味も聖書が書き記したものとは全く違ったものに誤解して膨らませ、伝えてきていることがよく分かります。むしろ醒めて悪い存在のようにシェバの女王伝説を伝えているユダヤ教やイスラム教の方が聖書的かもしれないくらいです。人間はつくづく「偶像」を作り上げ「崇拝」したくなってしまう存在ということでしょう。