8月3日(日)の平和聖日に行われた、牧師の説教を掲載いたします。

平和聖日説教「正義と平和」        
2014年8月3日      
小海 基
「そのとき、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。『直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。彼に告げよ。』」(列王記上第21章17~18節)

 今年の平和聖日を取り巻くこの国の情況はまことに緊張しています。何も悪いことをしていないのに、恨みも何も無いのに殺されてしまう。実質的クーデターのような「解釈改憲」が押し通され「平和憲法」がなし崩しにされる。青少年や実の親による身震いするような殺害事件が続く。ガザで、ウクライナで戦火が上がり、幼い魂が失われる…。
 北イスラエルのアハブ王が、ならず者を使ってイズレエルの農民ナボトを、身に覚えのない「神と王を呪った」という冤罪で石打ち刑に処してしまい、彼のぶどう畑を奪った事件も、ただ単に「別荘の隣にあるぶどう畑が欲しかった」というだけの実にくだらない理由で起こりました。何も殺さなくてもと思うような不条理の殺人事件です。
 さすがに総てがうまく行き過ぎて、ここまでやって良かったのだろうかとアハブ王にも良心の呵責にとらわれたのか、迷いひるむ気持ちがあったと見えます。
 しかし、悪妻イゼベル王妃は間髪入れずアハブ王をたきつけます。「あのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです」(21・15)。一国の王、国の頂点なのだから、当然なのだ。相応の銀を支払うと申し出ているのに、それを拒んだナボトの方が自業自得なのだというわけです。
 ここでしたり顔で、「世の中というのはこのぐらいの不条理がまかり通るところなのだ」と、当時の北イスラエルの民のように殻に引きこもってしまったなら、「山上の説教」で「幸いである」とイエス・キリストから称えられる「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」(マタイ5・9~10)ではありません。預言者エリヤはこういう時、いつもたったひとりで神様から遣わされます。カルメル山でバアルとアシェラの預言者たちと勝負をした時もたったひとりでした。こちらはたったひとりで、850人と勝負したのでした。今回もたったひとりで、北イスラエルの絶対君主アハブに立ち向かうことが求められるのです。
 キリスト者の「地の塩」の働きというのは、たったひとりで遣わされるところに担われるのです。
 最近「福音と世界」誌に書評を書くように求められて、D・ボンヘッファーの『共に生きる生活』を読み返しました。そしてこんな風に書きました。
「『共に生きる』とか『交わり』という魅力的なタイトルに魅かれて本書を開く者は、誰もが冒頭から冷や水を浴びせられる。『イエス・キリストは敵のただ中で生活された。…イエスは十字架の上で、…ただひとりであった。彼は神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だからキリスト者も、修道院的な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活する。そこにキリスト者は、その課題、その働きの場を持つのである。…「〔その現実に耐えようとせず、友人たち、敬虔な人たちとだけ共にいようとする者〕、ああ、汝ら神を冒涜し、キリストを裏切る者たちよ!もしキリストがそのようになさったとしたら、いったい誰が救われたであろうか」(ルター)』(10~11頁)。『ひとりでいることのできない人は、交わり〔に入ること〕を用心しなさい』(109頁)と、中ほどでもだめ押しされる。時代の圧倒的な流れに抗して少数者として戦う中で生まれた記録なのである。キリスト教国で生まれた書であるが、日本のようなキリスト者そのものが社会の少数者であるようなところで、励ましと自覚をいつも与える書である。
『非暴力不服従』をインドのガンジーから学ぶことを断念し就任した、フィンケンヴァルデの告白教会の牧師研修所と兄弟の家(ブルーダ―ハウス)における二年半の共同生活を元に本書は書かれている。生前に出版されたボンヘッファーのわずかの著作の一つである。描かれているのは少数者であろうとも『外的奉仕』という使命を担うための『内的集中』する群れの実践記録。強制収容所で非業の最期を迎えた著者の生涯を支え続けた者が見えてくる。日本の今の憂うべき政治情況の中でこそ本書の響きを改めて聴くべき内容だ」。
アハブ王は最初こそ「わたしの敵、わたしを見つけたのか」と、北イスラエルの王の前で虫けらのようなエリアごときがどれほどの存在と、見下しています。しかしたったひとりで王の前に立つエリアは、人間としては力は無いのかもしれないけれど、全能の神の言葉を担っています。アハブ王は見る間に神の人場の前に力なく打ち砕かれてしまいます。ヨナの預言に思いかけず悔い改めたニネベの人々のようです。聖書を読んでいる私たちにも不思議に見えるほどです。
「アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた」(21・27)。
わたしたちもひとりのエリヤです。どんな時代の荒波であろうと、キリスト者が「平和を実現する」ひとり、「義のために迫害される」ひとりとして立つところから、神の国は始まっていくのです。神はその空の鳥のような、野の花のような「ひとり」の働きを決してないがしろにはされません。
(終わり)

2014年5月25日 春の伝道礼拝「わたしは道である」(龍口奈里子・荻窪教会副牧師)の説教を掲載いたします。

<2014年春の伝道礼拝>第3回(5月25日)「わたしは道である」
荻窪教会副牧師 龍口 奈里子 先生
詩編 86: 11
ヨハネによる福音書 14:1 ~ 7

<メッセージ>

今回の伝道礼拝のテーマは「道」です。
人生の道の途上において、「自分はどこから来て、今、どこにいて、これからどこへ行けばよいのかわからなくなる」迷子のような状態に陥ったとき、私たちには「帰る場所」である「故郷」があると主イエスは述べられています。
14章から始まる主イエスの最後の説教は、弟子たちへの遺言の言葉がちりばめられています。その冒頭に、「帰る故郷」もなく不安や動揺でいっぱいであった弟子たちに主イエスは、「心を騒がせるな」と言われたのです。そして次に語られたのが、まさに「道」についてでした。「あなたがたのために場所を用意しに行く」とは、主イエスが十字架にかけられ、復活され、昇天されることです。これは、主イエスが私たちと神様との間をつなぐ「道」を整え、準備してくださることです。
しかし、十二弟子のひとりのトマスは主イエスの言葉に反論します。ヨハネ福音書には、トマスは三度登場しますが、いずれの言動もどこか懐疑的で、場違いな発言をします。しかし、このトマスの発言を通して、主イエスの大切な言葉が述べられています。

一度目は、11章16節、ベタニアの村で、すでに死んだとされている「ラザロのところに行こう」と主イエスが言われたとき、トマスは「我々も行って、一緒に死のうではないか」と場違いな答えをします。しかし、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる……このことを信じるか」という大切な言葉を述べられるのです。
そして、二度目が今回のところです。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」という主イエスの言葉を受けて、トマスが「主よ、どこへ行かれるのか私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言うのです。このトマスの懐疑的な言葉を受けて、主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
 
「道」という言葉は、ヘブライ語で「デレク」といいます。この言葉の語源は「踏みつける」という意味の動詞です。主イエスが「私が道」だと言われるとき、私は、大勢の人から踏みつけられ、十字架にかけられるために、この世に来た。そのことによって、さまようあなたたちが、帰るべき「故郷」、永遠の命に至る「道」が用意されていると言われるのでした。主イエスの言葉に、弟子たちはどう理解したのか、ヨハネ福音書は、トマスに焦点をあてて、イエスの復活後に、三度目の登場をさせるのです。20章以下です。自分以外の弟子たちは、復活された主イエスに会って喜んでいるのを見て、トマスは、釘のあとに指を入れてみるまで主イエスの復活を信じないと言うのでした。突然目の前に復活の主が現れ、「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われた時、ようやくトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をするのでした。このあと「わたしを見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである」と主イエスの最も大切な言葉が語られます。

私たちも、どこに向かっているのか分からなくなる時があります。不安になり、動揺し、心を騒がせるのです。そしてトマスのように見える物だけを頼ろうとするのです。しかし、主は、ご自分を通って父のところに行かれたように、私たちも、主イエスを通って、主のもとへ、そして、父のもとに帰る、その「道」があることを信じて歩んでいきたいと思います。

2014年5月18日 春の伝道礼拝「いのちの道を歩く」(佐原繁子・日本基督教団教師)の説教を掲載いたします。

<2014年春の伝道礼拝>第2回(5月18日)「いのちの道を歩く」               
日本キリスト教団牧師 佐原繁子先生

詩編    16:1~11
使徒言行録 2:29~31

<メッセージ>

復活の証人が裏付けとして引用した詩編16編

イエス・キリストは十字架につけられた後、3日目によみがえられました。初代教会の証人達はこのキリストの勝利を目撃しました。その事実を裏付けるために、彼らは今日読んで頂いた詩編16編を引用して、この中にイエス・キリストの復活の事実が既に予告されていることを主張したのです。
10節にこう歌われています。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」と。イエス・キリストの復活の事実を証明するために引用されたこの詩編16編とは、どのような詩なのでしょうか。
「陰府」とは死んで行く場所であり、地下の暗い場所であり行ったら最後、決して戻ることのない場所だとこの時代の人々は考えていました。死とは私たち現代人が考えているような「肉体の働きが停止する」というような単純な意味ではなかったのです。
聖書が言う「いのち」とは、たとえ人生にいろいろな苦難や悲哀があろうとも、やがて年老いて肉体の死がやってくることがあっても、決して終わることのない「いのち」です。その「いのち」はどこまでも続く、永遠に至るところの「道」でなければなりません。一本の道が自分の前を通っている。そしてどんな嵐が襲って来ようが、決してその道はなくならない。
命に至る道は穴だらけのでこぼこ道かもしれません。しかし一見ぬかるみの泥道であっても、キリストが示す道の終着点には、絶対確実な神の支配する国が待っているのです。それが天国です。示される道は、キリストご自身です。それこそが聖書の言っている「いのちの道」であり、その道を歩く人は生きていくのです。
ルターは言っています。「私はどんなことがあってもキリストについて行く。たとえそこが地獄のような場所であっても、そこにキリストがおられるなら、私にとってそこが天国なのだ」と。

教会に導かれ、「地獄からの脱出」をして以来の私の歩み

私たちの人生という道では必ずどこかで分かれ道に遭遇します。幅の広い道と狭い道。そこで私たちは踏み誤ってしまいます。狭い道は誰も選びたくない道です。ある時には困難に耐え、ある時には孤独をこらえて歩かなければなりません。しかし歩き通す人のみが「安息・平安」に到達すると約束されているのです。
ところが私たちクリスチャンといえども、広い安楽な道を選びがちです。私も若かりし頃、道に迷い続け、まるで「精神の安楽死」状態だったと言えるかも知れません。見るに見かねた神様は18歳の私を教会に招いて下さいました。兄が行っていた近所の教会に通うようになりました。それが私にとって「地獄からの脱出」だったのかも知れません。それ以来約50年、キリスト者としての道を歩み続けております。
ルーテル学院大学神学科に入学したのは50代後半でした。その後ルーテル神学校で、牧師となるべく4年間勉強に明け暮れました。日本キリスト教団に在籍したまま、ルーテルに転籍しないで、ルーテルでの学びを続け通しました。その間、私はまるで異邦人のようでした。教団教師試験を受けたのは65歳の頃でした。
なぜか私はルーテルの牧師にはなりませんでした。日本基督教団のどこに魅力を感じていたのかは分かりません。この道は決してなだらかな道とは言えませんでした。息切れし、呼吸困難に陥り、いつ落下するかも知れない危機にしばしば遭遇しました。それが伝道者に向けての歩み始めでした。
今でも寄せては返す荒波のように危機が襲って参ります。牧師を志願した頃と同様に、「明日はどうなるか分からない」感覚が私の心の中に暗雲のように立ちこめております。それはどうしてなのか、自己理解の及ばないところです。
しかし私に今言えることは「今日、私は、伝道者としてこの世にある」ということだけです。明日もその一歩を神が支えて下さり、変わらず私でいることを願っていますが、それは神のみ手の内にあることだと思っています。

イエスご自身が「その道」

人はいつ病気になるか分かりません。いつしか老いがしのび寄り、だんだん孤独になっていきます。このような不安定な人生において、どうしたら揺るがない神の平安に守られ、御許に至れるのか、しみじみと思うことです。
しかし今日与えられた御言葉から素晴らしい慰めが与えられます。イエスご自身が「その道」であると言われるのです。主イエスは、この道を「あちらだ、こちらだ」と示すのではなく、「私がその道」なのだと言われるのです。そこを歩く私たちに同伴し、間違いなく目的地へ連れて行って下さるのです。この世は私たち人間を暗闇と飢え、偽りと死の中に放り出したままです。しかしイエスはこの暗闇の中へ一条(ひとすじ)の光のように入って来られ、彼を信じる者の手を取って、確実に永遠の命へと導いて下さるのです。
初代教会の信者達は、周りの人々から「この道に従う者」と呼ばれました。キリスト教という言葉はなく、ただ「道」と呼ばれたのです。
この詩編16編の詩人がどのような危機にあったのか、その詳細は一切書かれていません。しかし彼は、人生の危機か、危険か、病か、何かしらの不幸から「いのちの道」に入ることが出来たと、はっきり書いています。つまりこの詩人は、神との交わりを与えられたのです。そして出会ったその時、神さまが「いのちの道」を示してくださったと告白しているのです。
「あなたは私の主。あなたのほかに私の幸いはありません」(2節)。「主はわたしに与えられた分、私の杯。主は私の運命を支える方」(5節)。 
人生の重荷は昔も今も何ら変わらないと思います。労苦、老い、死、どんな試練に対しても、主は大きな突破口を開けてくださいます。それが主の復活です。神は、イエス・キリストを私たちに遣わし、彼を信じる者にとこしえのいのちを約束されました。そして私たちを決してお見捨てにならないと約束してくださいました。私の前に、あなたがたの右に、主は付き添い、私たちと共に歩んでくださるのです。

2014年5月11日、春の伝道礼拝「荒れ野に道を備えよ」(小海基・荻窪教会牧師)の説教を掲載いたします。

<2014年春の伝道礼拝>第1回(5月11日)「荒れ野に道を備えよ」
荻窪教会牧師 小海 基 先生

イザヤ書40:3〜8
マタイによる福音書 7:13~14
<メッセージ>

聖書の信仰で「道」は大きな意味を持っています。道が定まっていない砂漠地帯で生まれた旧約聖書、道が整備されて「すべての道はローマに通ず」と言われた新約聖書においても道は特別の意味を持つキーワードです。
聖書の語る歴史は循環的なものでなく、単なる地上の一本道でもなく救いの道、救い主を迎える道、真理へ至る道、永遠の命に至る道だと語るのです。マタイ7章の言う命への細い道です。
今日読んだイザヤ書40章は預言者イザヤのお弟子さんの預言の第一声、それも70年間のバビロニア捕囚で奴隷であった日々が終わる時に響いた第一声です。「荒れ野に道を備えよ」の個所はアドヴェントの季節によく読まれる個所ですが、今日は春の伝道礼拝のテーマ「道」に即して読みたいと思うのです。

この部分の解釈で、私が最も深い解釈と思うのは、D・ボンヘッファーがベルリンのテーゲル刑務所の獄中で書いた未完の『倫理』という最後の書物に出て来る解釈です。死が近い時にあって倫理についてどんなことを書くのかだけでも非常に興味深いところですが、彼はここで、〈究極のもの〉と〈究極以前のもの〉という非常に厳しい問いを考察するのです。
ボンヘッファーが生きていたような全体主義の中で真実のために殉教も決断しなければならない時代では何を捨てても〈究極のもの〉を追求するという急進的な考えと、命のために〈究極以前のもの〉に留まるかという妥協的生き方がまるで二者選択のように迫ってくる大きな問題であったわけです。
ボンヘッファーは「急進主義者は時間を憎み、妥協主義者は永遠を憎む。……急進主義は中庸を嫌い、妥協主義は測り知れないものを嫌う。急進主義は現実にあるものを嫌い、妥協主義は御言葉を嫌う」と言い、さらに「この対立から明らかになることは、両者の態度・生き方がいずれもキリストに反するものであり、対立的に考えられていることはキリストにおいては一つとなっているからである。あらゆる急進主義と妥協主義の彼方にある出会いをこのイザヤ書40章は語っている」と言うのです。またボンヘッファーは、道備えとは悔い改めなのだ。神様は私たちを人間的であるように造られたのに、私たちはなぜ逸れているのか。もう一度主を迎えるにふさわしい悔い改めを必要としていると言っています。
ボンヘッファーはこういうことをテーゲルの獄中でいつ死が襲いかかるか分からない30代の時にずっと考え、差し入れられたクッキーや葉巻の包み紙の裏にひたすら書き綴っていたのです。
〈究極的なもの〉が達成される日が必ず来ると思い願っているからこそ、〈究極以前のもの〉に責任を持っていく、それが私たちの道備えです。

子どもの説教で、谷川俊太郎の最新刊の絵本『かないくん』を読みました。
どんな人も自分がやがて一人で死を背負わなければならないと知っています。普段は考えなくとも死の問題はバトンタッチのようにリレーされてその問いは引き継がれています。この問題に実は聖書の語る救いが関わっているのです。死という別れが最後の言葉でなく命なのだと聖書は意外なことを語るのです。
人は皆、クリスチャンであろうとなかろうと狭い命に至る道を歩んでいます。だからこそ私たちは、教会の外にいる人たちと共に助け合いつつ、主を知っている私たちが〈究極以前のもの〉に責任を持って歩んでいかなければなりません。それが道を備えることになるのです。

キャンドルサーヴィス(2013年12月24日)での、小海基牧師による説教の要旨を公開します。

説教者:小海基牧師
日時:2013年12月24日
於:荻窪教会

羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。…羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(ルカによる福音書第2章15,20節)

 2013年も三日連続でクリスマスをお祝いしました。第一日目のクリスマス礼拝では天使の大軍が「グロリア イン エクセルシス デオ(いと高きところには神に栄光)」と歌ったところを読みました。昨日はバッハのクリスマス・オラトリオの後半Ⅳ~Ⅵ部が演奏されました。今日読むのは、天使たちが去った後羊飼いたちがどうしたのかということです。
 今この説教をする前にも天使たちが歌ったそのままのギリシア語で私たちは歌いました。2000年前から歌い継いでいるのです。考えてみればこれはすごいことではありませんか?日本はキリスト教より仏教だという人もいると思います。この夜のキャンドルサーヴィスに集まっている皆さんの半分近くの人は、必ずしもキリスト者ではないでしょう。でもたとえ「私は筋金入りの仏教徒だ」という人がこの中にいたとしても、サンスクリット語でお経をそらんじているなんていう人はまずいないのではありませんか。ところが皆さんはたった今、天使が歌ったそのままのギリシア語で「グロリア イン エクセルシス デオ」とそらで歌ったのですよ。
 最初に天使たちが歌った大合唱はさぞかし見事な歌声であったことでしょう。でもそれがどんなに見事であっても天上に留まっている限り、救いの知らせは行き渡らなかっただろうと思います。その晩その歌声を耳にしたのは、夜遠し羊の群れの番をしていた羊飼いだけだったからです。もし、その羊飼いたちが天使の歌声の見事さに聴きほれてしまって、「私たちは羊を飼うことにはプロであるかもしれないが、歌は苦手で…」などとひるんでしまっても、天使の歌は今日まで伝わらなかったでしょう。あの晩の羊飼いたちの偉いのは、ただ受け身で耳を澄ましていただけでなく、天使と一緒になって歌い出したことです。本当に素晴らしい歌を聴いた人は、聴くだけで満足することはできないということでしょう。自分も歌わずにいられなくなってしまう。
 同じことが2000年のキリスト教の歴史の中でも起こりました。よく知られていることですが、2000年の内の最初の1500年間は、ただただ信者たちを歌うことから締め出すことに教会当局は力を注いだのです。同じ聖書的宗教であるユダヤ教でも回教でもそんなことはしませんでしたのに、キリスト教だけは教会の中で歌えるのは男性のプロの聖職者だけで、一般信者はそれに耳を傾け聞き惚れるだけということになってしまいました。
 なるほどその1500年間、古今東西の大作曲家たちが競って「グロリア」に名曲を付けていきました。最初の天使たちの歌声に近づけようと競ったのです。おかげで「グロリア」は名曲ぞろいで、フルオーケストラにトランペットも付けて…と、どんどん大がかりになっていきます。聴衆も圧倒され、なんてすごい「グロリア」だと感嘆する名曲ばかりです。
 しかし、最初の天使たちの「グロリア」が天使たちの歌だけに留まらず羊飼いたちも加わらずにいられなかったように、1500年間続いた男性聖歌隊の「グロリア」も一般信者も歌い継ぐようになります。1517年マルティン・ルターの宗教改革が起こったのです。私たちはあと4年で500周年の年を迎えようとしています。
 私たちのこの荻窪教会もルターと同じ「プロテスタント」に属するわけですが、一般信徒が歌い継ぎ始めたとたんに、カトリックの人たちも、教会の壁を乗り超えてもっと多くの人たちさえも「グロリア」の歌声に加わり始めているというのが今日の姿ではないでしょうか。この聖書の世界から見たら遠い東の果ての日本に至っては、「グロリア イン エクセルシス デオ.エト イン テラ パックス ボーネ ボーヌス ターティス.」(いと高きところには栄光、神にあれ。地の上には平和、み心にかなうひとにあれ)と、有名なミサ曲のメロディーに合わせて原文のギリシア語でそらんじて歌える人の割合は、1%のキリスト教人口の割合の10倍以上いるのではないでしょうか。「門前の小僧習わぬ経を読み」ではありませんけれど、されが天使伝来の賛美と知らずに歌い継いでいる人たちが日本人の何割もいるのです。最近ではお寺でさえ、サンタクロースが来たり、クリスマス会が持たれたり、「グロリア」が歌われる始末です。
 さらに聖書は羊飼いたちが決して、自分たちも天使と歌声を合わせることができたということで満足したと結ばれないのです。羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と、自分たちに与えられた救い主を探し出す旅、「求道」の旅に出発するのです。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」、つまり羊飼いたちの歌声は、「求道」の旅の果てに、自分の目と耳で救い主の赤ちゃんの存在を確認したうえでさらに大きくなったというのです。さらに大きくなった歌声は、その喜びを独り占めにせず、分かち合い、歌い継がれ、今夜このキャンドルサーヴィスを守るこの場所にまで届いているというわけです。
 さあ私たちもこの喜びを歌い継いでいきましょう。

<2013年秋の伝道礼拝>第3回(10月27日)説教要旨を掲載いたします。

歴史を導く神<2013年秋の伝道礼拝>第3回(10月27日)説教要旨

荻窪教会牧師
小海基

歴代誌下36:21~23
コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:58

<メッセージ>

 聖書の信仰は歴史を土台に生まれています。神様は私たちを意味あるものとして創造し、私たちが滅びないように私たちの歴史のただ中に出来事を介入し、救いの出来事を成就させたと聖書は語ります。神様のひとり子は神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられ、人間の姿で現れてくださって、十字架についてくださったのです。それを私たちは「受肉」(じゅにく)と呼びますが、その救いの出来事は2000年前の、日本から遠く離れた中東イスラエルの出来事というのではなく、私たちそれぞれの歴史のただ中でも具体的に起こっていることなのです。私たちの人生に神様は介入されて、私たちを救いへと導いて下さったということを聖書は伝えようとしているのです。

 今日読んだのは歴代誌の終わりの部分です。ユダヤ人の聖書では、旧約聖書の一番終わりに歴代誌が置かれています。ですから今日の部分は、聖書の一番最後におかれている言葉であり、旧約聖書の結論のような所です。
 旧約聖書には色々なことが書いてあります。神様が天地を造られ人間が造られたという話から始まり、エジプトで奴隷であったイスラエルの民をモーセが40年の旅路の後、約束の地に導き約束の地を立てていったのだけれど、度重なる罪の結果、せっかく与えられた約束の地を失ってしまい、バビロニアで奴隷生活を余儀なくされる…。そのバビロン捕囚が70年続きました。そういう流れで来たその最後に、預言者エレミヤの口を通して告げられた神様の約束は実現した。70年のバビロン捕囚後、キュロス王がおこされ、キュロスによって解放され奇跡的に再び約束の地に帰る日があったのだ、と旧約聖書は終わりにまとめるのです。

 バビロニアでの奴隷時代に主なる神を忘れ、ヘブライ語も忘れて名前もバビロニア風に変えられ、聖書の言葉も聖書の信仰も忘れかけているかもしれない。70年間は約束の民が不在で、約束の地は砂漠となってしまった。しかしその全期間を通じて地は安息を得て、そして神様の約束は年月が満ちて成就したのだと語るのです。そのために神様が用いたのは、異邦人のペルシャ王キュロスでした。歴史を導く神様は、ご自身の意思の中で捕囚の荒廃や異邦人さえも用いて歴史を進められるのです。
聖書の語る歴史は循環的な物ではなく、始めがあり終わりがあるという一直線の歴史です。その歴史の中で確実なことは、歴史を導いているのが神様である以上、神様の約束の言葉は実現するということです。歴史の中で刻まれた色々な不幸なこと、嫌なことは沢山あるかもしれない。その場に直面している私たちは理解できない、神様は一体どこにいるのだろうかと思うようなこともあるかもしれない。しかし最後から振り返って見るとそれさえも意味あることであると思わざるを得ない。そのような一直線の歩みが聖書の語る歴史なのです。そういう信仰を「摂理」といいます。その摂理の信仰が旧約聖書の一番最後に記されているのです。

 新約聖書でその成就が書かれている神様の救いの出来事は、天地創造のように神様の一声で成就したかもしれないけれど、そうではなく神様は非常に丁寧に手をかけて私たちの救いに自ら介入し、十字架と復活の出来事を起こされました。私たちはそういう歴史を導く神様に委ねて、主の技を励み伝える群れであっていきたいと思います。

(終)

<2013年秋の伝道礼拝>第2回(10月20日)説教要旨を掲載いたします。

ヒズ ストーリー<2013年秋の伝道礼拝>第2回(10月20日)説教要旨

荻窪教会副牧師
龍口奈里子

イザヤ書43:16~21
ヨハネによる福音書5:31~40

<メッセージ>

 私が「歴史」という言葉を聞いて思い出すのは、神学部時代の教会史の講義での出来事です。「宗教改革って何?」という質問から始まった講義の中で「ヒストリエ」と「ゲシヒテ」のいう2つのドイツ語が板書されました。両方とも「歴史」という意味ですが、「ヒストリエ」は単に出来事を指し、「ゲシヒテ」は意味が加わったものを指します。講義のまとめに先生は、単なる出来事だけで歴史になるわけではなく、そこに意味が加わって初めて歴史と言えると述べ、さらにその歴史は、私たちの時間(クロノス)に、神の時間(カイロス)が介入することによって、意味のある歴史となるのだと締めくくられました。

 今日の説教題は「ヒズ・ストーリー」です。英語のHISTORY(ヒストリー)は、His(彼の)+Story(物語)が合わさってできた言葉だという通説があります。キリスト者にとって信仰とは、His(神の)Story(歴史)が私たちの時間の中に入ってくることによってMy story(私の歴史)が豊かにされることを証することである、と聖書は言います。今日の旧約聖書には「私の栄誉を語らねばならない」(イザヤ43:21)とあり、神の歴史に巻き込まれた自分の歴史を、次の世代に語っていくことが「神の民」となるのだと教えています。私たちと共にある神の物語は、「荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ」(イザヤ43:20)と記されている通り、希望の物語です。私たちの物語に介入してくる神とは、私たちの過去にも現在にも、未来にも介入してくる方なのだから、過去の恵みだけを物語るのでなく、今も将来も、神と共にある希望を語ることが「神の民」となるのだ、とイザヤの預言は語るのです。

 この夏訪ねたドイツのライプツィヒにあるニコライ教会は、東西ドイツ統合の象徴として世界的に有名な教会のひとつです。東ドイツに属していた1982年ごろから、毎週月曜日に「平和の祈り」の集会が持たれ始めました。若い人たちを中心に、平和について語り、祈りあっていたそうです。この小さい集まりが徐々に大きくなり、1989年10月には7万人が平和の行進を行うまでに規模が拡大。あっという間にドイツ全国に波及し、1ヶ月後の1989年11月9日のベルリンの壁崩壊へとつながるのです。これは、偶然の重なりではありません。ニコライ教会の若者たちが、平和を求め必死に祈り、神の歴史の介入を信じ、祈ったからこそ、まるで「砂漠に大河を造るような」希望のある未来が歴史的に起こったのではないか、と私は考えました。今でも、ニコライ教会では毎週月曜日に祈りの集会を続けています。

 今日の新約聖書(ヨハネ5:31-47)ではイエスご自身が、自分を証しするとはどういうことかについて、「神ご自身が、自分について証してくださることだ」と語っています。イエスご自身のMy storyは、His Story 神の物語なのだと。つまり私たちは、神に向かった自分の人生を語り継いでいけばよいのだ、とイエスは述べているのです。
 私達の時間に限りがあっても、現実の壁に押しつぶされそうになっても、His Storyが今もこの先も働き続けることを信じて待つこと、自分の力を超えた神を信じ、自分の人生を作ることが、私たちの歴史・My storyとなるのです。そのために、祈り、私たちの人生を豊かなものとしてくださる神の物語・His Storyを語ってゆきたいと思うのです。

(終)

<2013年秋の伝道礼拝>第1回(10月13日)説教要旨を掲載いたします。

マイ ストーリー<2013年秋の伝道礼拝>第1回(10月13日)説教要旨

東中野教会牧師
鈴木 重正

詩編  121: 1~8
ヨハネによる福音書
21:15~19

<メッセージ>

 「自伝的な説教を」との依頼を受けました。40年近くの牧師生活で初めてです。まだ自伝を語るほどの歳ではありませんが、皆様との出会いとして与えられたテーマと受け止めて「マイ ストーリー」と題してお話いたします。

キリスト教との最初の出会いは宝塚の土曜学校

 父は敗戦まで、満鉄(南満州鉄道)に勤務しており、敗戦後引き揚げて阪神間で転居を重ねました。私が生まれたのは宝塚に住んでいた時で1948年(昭和23)です。
 キリスト教との最初の出会いは母方の祖母の家に住んでいた幼稚園児の頃、近所の家の「土曜学校」です。たぶん母が私を行かせたのだと思います。カトリックのシスターが見えてペープサート、紙の掲示板に着脱式の人物画を貼って聖書物語を話して下さった場面が記憶に残っています。楽しいクリスマスに心躍らせたのもこの頃でざっと60年前、聖書は文語訳でした。祖母は学生時代に東京の聖公会で受洗、母は若い頃、倉敷で受洗していたと聞きました。
 小学2年の時、大阪の中心部の心斎橋近くに引っ越しました。高学年になったある時、理由は分かりませんが、父が映画「ベンハー」を見につれて行ってくれました。また地域の子ども会で「十戒」を見ました。両方ともとても好きになりました。

16歳のクリスマスに受洗、中高生礼拝の週報づくりを担当

 教会に通い始めたのは高1からで教会は荻窪教会と同じ程度の規模でした。伝道師の先生の熱心なお導きで高1のクリスマス、16歳の時に受洗しました。教会では朝9時から中高生会の礼拝を守り、大人の礼拝にも出ました。
さらに土曜日には教会の掃除、中高生礼拝の週報づくりも担当しました。当時はガリ版で、私はこの仕事がとても好きでした。
 先生から、週報に詩編の暗唱聖句を選んで掲載していく課題が与えられました。詩編を読んで気づいたことは怒りや嘆きが強く表現されていて赦しや愛が少ないということでした。これでも聖書なのかと子ども心に疑問を持ちました。しかし週報づくりに際して詩編を学んだこの経験は後の私の信仰生活に大いに意味あることとなりました。
 母が教会の執事となり、しばしば教会の裏話を聞かされて、教会のあり方に疑問を抱いた反抗期の時期もありましたが、その後キリスト教系の大学に進みました。
 ちょうど70年代の大学紛争の時期であり、若者らしい正義感に燃えて大学批判、ストライキやバリケードも経験し、また幾つかの挫折を経つつも、その後、神学部に編入学しました。それは聖書を学ぶことの恵みと喜びを知らされたからでした。

神学部への進学を決定づけた詩編121編の学び

 夏の聖書セミナーで詩編の121編を学んだ時の感動を忘れることが出来ません。私にとって山のイメージは私がハイキングなどで親しんでいた緑豊かな六甲山でした。しかし聖書の山は岩陰に獣や盗賊が潜む危険な山で、そこを通らないとエルサレム神殿に行けませんでした。そうした恐れや不安の中での信仰を歌うのがこの121編でした。聖書理解の自分の浅はかさ、愚かさを悟り、思い込みでなく聖書の事実に即して聖書を読むことの意義を知らされました。この経験があったからこそ、神学部に編入学したと言えます。実は当時別の進路を予定しており内定までしていましたが、取り消しのお願いをしたのでした。

牧師への道を選択する決心は祈祷会の体験を通して

 大学紛争を経た当時の神学部は教授と学生の間に不信感があったようでギクシャクしていました。私が祈祷会を提案して開始しましたが、4、5人集まれば良い方で自分一人の時もありました。しかし一人で声を出して祈る経験を通して、祈ること、悔い改めることを自分自身に問い直す良い機会となり、言葉巧みに祈っても、喜びがなければそれは空しいことと気づかされました。これは私にとって一つの回心体験でした。神学部を卒業して別の道に進む人もいますが、私はこの回心体験を通して、牧師への道を選択しました。
 神学部卒業後に遣わされた初任地は神戸の教会で、ここでは着任13年目に会堂建築を経験しました。そのほぼ1年後の1995年1月17日に阪神・淡路大震災に遭遇しました。新築していたお蔭で建物も私も無事でしたが、もし旧会堂のままなら確実に倒壊して死んでいました。

スイスでバランスのとれた成熟した信仰生活を学ぶ

 大震災以前から私のスイス行きは決まっていたため予定通り教会を辞任させて頂き、1995年4月末にドイツに旅立ち、9月からスイスでの宣教活動に入りました。午後の修養会でスイスの体験についてお話しますので礼拝では簡単に触れさせて頂きます。
 スイスでは国内宣教チームの一員として任務を与えられ、私を含む6名の外国人宣教師が集まってスイス国内の教会や学校をあちこち回りました。ここはドイツ語圏でしたが、スイスドイツ語が主流であり、礼拝説教は殆ど聞き取れませんでした。また私に話しかけられる時はドイツ語ですが、皆さん同士で話される時はスイスドイツ語なのです。
そうした事情から礼拝で歌うドイツ語の讃美歌の時は言葉を噛みしめて大声で歌いました。またスイス滞在中に日本の合唱団の演奏旅行の仲介もしました。こうした経験を通して「歌う喜び」「音楽の力」を改めて強く感じました。日本の合唱団が歌う日本の歌には大抵「ふるさと」(うさぎ追いしかの山)があり、この曲を聞くと私はいつも涙が出てきました。好きな讃美歌の一つが54年版の529番(ああうれし、わが身も)です。これは英語の歌詞が素晴らしくて、特に折り返しの「This is my story, this is my song」が大好きで今日の説教題もここから採りました。
 宗教改革について本を通じてではなく、現地の生の歴史を体験して学べたことも大きな貴重な経験でした。
 あるスイスの友人が私の誕生日に木製の「ワインボトルホルダー」をプレゼントして下さいました。これは微妙なバランスでワインボトルを水平に保つ不思議な道具です。その時に教えられたのは信仰にとって大事なことは罪の意識、赦しの恵み、信仰に生きる喜びをバランス良く保って歩むということでした。そこに成熟したキリスト教の姿があるのです。
 スイスで所属した教会は会員12,000人で礼拝出席は300人という状態ですが、生活に根づいている信仰者の姿を学びました。生活の中に信じる喜びが空気のように広がっているのです。
 キリスト教は実践を伴う信仰です。私たちも、心と思いと行いのバランスが取れた信仰生活を心豊かに送れるようでありたいと願います。

(終)

説教要旨 2013年11月10日「主を求めたからこそ」(荻窪教会牧師・小海基)

「主を求めたからこそ」  2013年11月10日             小海 基

歴代誌下 第14章、 コロサイの信徒への手紙 第3章1~4節
「我々は、われわれの神、主を求めたので、この地を保有することができる。主をもとめたからこそ、主は周囲の者たちから我々を守って、安らぎを与えて下さったのだ」(歴代誌下14:6b)。

紀元前922年、ソロモンの息子レハブアム王の時代に、イスラエルが南北に分裂して以来、南ユダ王国のダビデ王朝に名を連ねる王様は20人おります。しかしその中で後世から「良い王」として評されるのはたったの5名しかいません(アサ、ヨシャファト、ウジヤ、ヒゼキヤ、ヨシヤ、ただしウジヤは歴代誌においては評価が低い)。今日登場するアサ王は、列王記の方ではたった16節の記載しかありませんが、ダビデ以来の久々の場外ホームランのような良い王様です。歴代誌の著者はこのことが余程嬉しかったのでしょう、実に14~16章にかけて3章にわたって記録するのです。アサ王こそ「主を求めた王」、「平和の王」だと高く評価するのです。41年間の治世の内今日の14章が最初の10年、次の15章が続く25年を記録するのですが、多少の波風が立ったけれど最晩年の6年間を除く35年間は平和が続いたのだというのです。
私たちの日本という国は敗戦後から68年を数えました。あともうちょっとで70年です。こんなに長く平和が続いたことは日本史を振り返っても無かったでしょう。理由ははっきりしています。「平和憲法」があったからです。しかし今その「平和」が「特定秘密保護法」(22日には日比谷の野音で1万人の反対集会が開かれ、私も参加しました)という悪法制定を強行することを皮切りに、「平和憲法」を改悪、なし崩しにしようという動きが加速しています。こんな時こそ「平和の主」イエス・キリストを求めているはずの私たちの日本基督教団が先頭に立って国政の流れに否を唱えなければならないのに、キリスト教の他の教派が声を上げているこの時になっても沈黙しているのは本当に残念であり、みっともない話です。この70年近く、いや半分の35年間でも良いです。イスラエル周辺の中東地域でどれほど戦争が繰り返されてきたことかを振り返ってみても、アサ王即位から35年間平和が続いたというのは、現代社会と比較してさえ奇跡のような話です。特に最初の10年間の平和については、今日の14章の4、5、6節に「平和」、「平穏」、「安らぎ」という言葉が立て続けに5回も繰り返されていることから、歴代誌がどれほど強調しているかが伝わってきます。
アサ王の曽祖父ダビデ王は良い王、名君でしたが、その生涯は決して平和ではありませんでした。身内からも戦争を挑まれた王です。戦争に強い王に過ぎませんでした。祖父ソロモンもエジプト風の軍馬や戦車といった当時の最新兵器を富に任せて増強させ、国民を徴兵し、合計1000人にものぼる外国人妻、側室との政略結婚で平和のバランスを保った軍事超大国の故の平和であったに過ぎません。
それに比べてアサ王の平和はどうでしょう。彼の政策は軍事増強策でなく防衛策(5節以下)です。最初の10年間の最大の危機は、20年前に父レハブアム王を悩ましたクシュ人の侵略だったと今日の14章は伝えまずが、倍の人数のクシュ軍(その中には南ユダ王国からはとっくに姿を消した古代社会の最新兵器である戦車300両も含まれていた!)に勝利したと聖書は伝えます。この危機の中で「主を求め続けた」アサ王の最大の武器は祈りであった(11~14節)と、「平和憲法」を捨てかねない私たち現代の日本人に対して聖書は静かに語るのです。平和をもたらしたのは、兵の数でも、最新兵器でも、政略結婚等の外交政策でもなかったというのです。結果はどうでしょう。クシュ人の侵略はアサ王の治世41年間の中では列王記に記録するほどの価値もないエピソードとなってしまったというのです。平和は少しも揺るがなかったのです。

主と共に歩む旅路<2013年春の伝道礼拝>第3回(5月26日)説教要旨

ウエスレー財団ディレクター 小海 光
創世記12:1~4
ヘブライ人への手紙11:1~3

<メッセージ>

私たちの人生は、思いもよらないことが多くあるものです。誰も自分の計画通りの人生を歩む人はありません。私は日本で神学校を卒業後、アメリカのボストンに渡り25年を過ごしました。始めは2年の学びの後帰るつもりでした。しかし、卒業証書に、夫もついて来て、アメリカに暮らし始めることになりました。夫は韓国人で、合同メソジスト教会の牧師になるところでした。夫の招聘先の4つの教会で子育てをしました。どこも片田舎の教会で、町に白人でないのは私たち家族だけでしたから、いつも興味津々にみられました。後に私自身も牧師となり、5教会併せて14年牧会をしました。

メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーはこんなことを言っています。「メソジストの牧師がいつも準備しておかなければならない事に2つある。いつでもどこでも説教できる事と、そして、どこへでも行く事です。」私たちも10回引っ越しをしました。正直家族をもっていると連れ合いのこと、子どもの学校のことで不安もあります。新しい教会と環境に慣れるのだろうかと、毎回不安で一杯でした。

そんな時いつも思い出されたのが、アブラハムとサラの旅立ちです。アブラハムはある日主より、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。」と言われ、主の言葉に従って旅立った。75歳であった。

よく決断したと思います。地理が今のようにわかっている状況ではないのですから、何がおこるかわからないのです。不安を持つのは当然です。でも、ヘブライ人への手紙の著者によれば、「信仰によってアブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(11章8節)。人生は旅です。そしてその歩みの途中には予想もしなかった喜びもあり悲しみもあります。

1番目の娘が生まれたとき初孫を父と母はどんなに喜ぶだろうかと思いました。しかし母が子宮がんにおかされていることを知らされたのです。待ちに待っていた孫がやっと与えられたのに、いったいどうしてと悲しみました。闘病中の母を少しでも元気づけるために、娘の写真をたくさん送りました。その娘が3歳になった時白血病と診断されました。それからの3年間は、抗がん剤治療で入退院を繰り返し、心も体もくたくたになる毎日でした。幼い娘の苦闘する姿を見るのは、母親として本当につらいことです。それにもまして悲しかったことは、治療中同士の母と娘がまた会える時があるだろうかと思うことでした。娘の治療中は日本を訪ねることができなかったのです。しかし、もう母がかなり弱って来ているのを知った時、神様は祈りを聞いてくださり、母と娘は1ヶ月を共に過ごしました。その間、母が命を孫に与えるかのように弱くなっていくかたわらで、娘は元気を取り戻していきました。母が天に召されたのは、私たちがアメリカに帰ってから3週間後でした。

私たちの人生は私たちの計画通りにはいかないのです。災害だって、人災だって起こります。だから明日の事を思うと不安になります。でも、私たちは主の与えられた約束を知っています。「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」主イエスキリストの愛はいつまでも私たちとともにいるという約束です。私たちと共にいます、という方が、私たちの人生の旅の終わりの一歩まで共に歩んでくださり、さらに死を超えて永遠の命の旅へと導いてくださるということを信じて、どこに行くかわからない旅に出るのです。それが信仰です。

それはいつも順調な歩みではないのです。時に深い悲しみのうちに、エマオへの道を旅した弟子達のように、主が傍らにいてくださる事が見えない事があります。時に主の御心がわからなくて、疑いと迷いと不満をいう荒野を旅するイスラエルの人々のようになる時もあります。主の声に従って水の上を歩き始めたけれども、急に風と波に怖くなって溺れかけるペテロのようになる時もあります。でも忘れてならない大切なことは、私たちには見えなくとも、神様は共に歩いておられます。私たちは行き先を知らずとも、神様は知っておられます。私たちはその方を知っており、信頼することができます。そこに喜びがあります。

ちょうど1年前、メソジスト教会のビショップから、日本に宣教師として行ってほしいという電話を貰いました。最初に口から出た言葉は、「それは無理です」でした。家族のことや、もうアメリカに25年もいて、今日本に帰っても私に何ができるだろうかという不安からでした。でもビショップは、日本に新しく建てられたウェスレーファウンデーションでミッション活動を通して、アメリカと日本をつなぐ働きをする人がぜひ必要なのだと言われました。1週間悩みのうちに祈りました。そして示された事は、25年目の召命という事でした。私が初めてアメリカに行ったのは25歳の時でした。それから25年経った時この召しを受けました。今では日本もアメリカも私のホームです。日本の教会もアメリカの教会も私の信仰の家族です。この時に主は私の名を呼んで、住み慣れた家を離れ、神様が示す新しい道を歩き出しなさいと言われていると確信しました。

神様が私たちに促す新しい旅の歩みとは、何も大きな人生の転機をさすだけではないのです。私たちは毎日主と共に歩き出す決心を促されています。自分の計画と知恵に頼って歩むのか、主のご計画と知恵に頼るのか、この世の富と人の評価を信頼するのか、主の約束の言葉を信頼して主の示される旅を歩み出す生き方が出来るのか。信仰による決断です。

最後にアメリカで愛されているゴスペル賛美歌を一つ紹介しましょう。

明日の事は私にはわからない/ただ1日1日を生きていく/太陽にもたよれない、雨になるかもしれないから/でも明日の事は心配しない/イエス様の言葉を知っているから/主に寄り添って歩いていこう/主がすべてをご存じだから/明日の事は私にはわからない/でもこの事だけは知っている/明日を握っているのは誰かと言うことを/そして私の手を握って下さる方が誰かということを。

主は今日もあなたと共に歩いておられます。感謝と共にその旅路が豊かな祝福のうちにありますようにと共に祈りましょう。