2014年5月25日 春の伝道礼拝「わたしは道である」(龍口奈里子・荻窪教会副牧師)の説教を掲載いたします。

<2014年春の伝道礼拝>第3回(5月25日)「わたしは道である」
荻窪教会副牧師 龍口 奈里子 先生
詩編 86: 11
ヨハネによる福音書 14:1 ~ 7

<メッセージ>

今回の伝道礼拝のテーマは「道」です。
人生の道の途上において、「自分はどこから来て、今、どこにいて、これからどこへ行けばよいのかわからなくなる」迷子のような状態に陥ったとき、私たちには「帰る場所」である「故郷」があると主イエスは述べられています。
14章から始まる主イエスの最後の説教は、弟子たちへの遺言の言葉がちりばめられています。その冒頭に、「帰る故郷」もなく不安や動揺でいっぱいであった弟子たちに主イエスは、「心を騒がせるな」と言われたのです。そして次に語られたのが、まさに「道」についてでした。「あなたがたのために場所を用意しに行く」とは、主イエスが十字架にかけられ、復活され、昇天されることです。これは、主イエスが私たちと神様との間をつなぐ「道」を整え、準備してくださることです。
しかし、十二弟子のひとりのトマスは主イエスの言葉に反論します。ヨハネ福音書には、トマスは三度登場しますが、いずれの言動もどこか懐疑的で、場違いな発言をします。しかし、このトマスの発言を通して、主イエスの大切な言葉が述べられています。

一度目は、11章16節、ベタニアの村で、すでに死んだとされている「ラザロのところに行こう」と主イエスが言われたとき、トマスは「我々も行って、一緒に死のうではないか」と場違いな答えをします。しかし、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる……このことを信じるか」という大切な言葉を述べられるのです。
そして、二度目が今回のところです。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」という主イエスの言葉を受けて、トマスが「主よ、どこへ行かれるのか私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言うのです。このトマスの懐疑的な言葉を受けて、主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
 
「道」という言葉は、ヘブライ語で「デレク」といいます。この言葉の語源は「踏みつける」という意味の動詞です。主イエスが「私が道」だと言われるとき、私は、大勢の人から踏みつけられ、十字架にかけられるために、この世に来た。そのことによって、さまようあなたたちが、帰るべき「故郷」、永遠の命に至る「道」が用意されていると言われるのでした。主イエスの言葉に、弟子たちはどう理解したのか、ヨハネ福音書は、トマスに焦点をあてて、イエスの復活後に、三度目の登場をさせるのです。20章以下です。自分以外の弟子たちは、復活された主イエスに会って喜んでいるのを見て、トマスは、釘のあとに指を入れてみるまで主イエスの復活を信じないと言うのでした。突然目の前に復活の主が現れ、「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われた時、ようやくトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をするのでした。このあと「わたしを見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである」と主イエスの最も大切な言葉が語られます。

私たちも、どこに向かっているのか分からなくなる時があります。不安になり、動揺し、心を騒がせるのです。そしてトマスのように見える物だけを頼ろうとするのです。しかし、主は、ご自分を通って父のところに行かれたように、私たちも、主イエスを通って、主のもとへ、そして、父のもとに帰る、その「道」があることを信じて歩んでいきたいと思います。