「自由」
申命記7:6-8
ヨハネによる福音書18:36-38b
荻窪教会牧師 小海 基
<メッセージ>
今回の伝道礼拝は何よりも、北村慈郎牧師をお招きして先生の名誉回復のために共に祈りたかったということがあります。私たちの日本基督教団が主イエス・キリストの語られたように「真理」に基づく「自由」へと立ち帰る対話的な群れを形成できるように、もう一度聖書の言葉に耳を傾けます。
主イエス・キリストは「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31)と言われました。「真理」に基づかない偽りの「自由」は本当の「自由」ではありません。行く先の見えない現代社会の中で私たちは、私たちを本当に解放し「自由」にする「真理」に根差そうとしているでしょうか。なんとなく周りに合わせ流されていくのではなく、ひとりの自立した存在として、信念、信仰、ポリシーを貫いて「真理」を求め、生きぬいて行くという生き方にこそ「自由」が宿るのです。聖書の信仰は、いつの時代も「真理」に根差す「自由」への「決断」を求めます。
新約聖書には「真理」に関連する言葉が全部で109回出てきます。その約85%がパウロの書簡とパウロの名による書簡、ヨハネによる福音書とヨハネの名がつけられた文書に出てきます。
パウロの真理は「神の真理」、「キリストの真理」、「福音の真理」と属格の付加語が付いていますが、ヨハネ関係文書では圧倒的に「真理」が主格で書かれています。ヨハネのイエス・キリストは「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と、イエス・キリストそのものが神としての真理なのです。ヨハネが「真理」を主イエスそのものとして言いあらわそうとする工夫があります。それが最も明らかなのは「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)とユダヤ人に向かって語られた言葉です。
「自由」ということこそ出エジプトの民ユダヤ人にとって永遠のテーマであり、キーワードです。自分たちは「奴隷の家」エジプトのファラオの家から出て、約束の地の自由の民となったところにイスラエルのイスラエルたる中心があるからです。「真理はあなたたちを自由にする」という言葉はユダヤ人たちとの討論の中で語られた言葉です。
異邦人ローマ総督ポンテオピラトに「真理とは何か」と問われて、主イエスはお答えになりませんでした。「真理」とは、人間の言葉の中にとどめたり押し込めたりすることが出来ない。主イエス・キリストの「真理」は十字架によって成就されるのです。知識や知恵など人間の内側にあるものとして考えるのではなく、「真理」はイエス・キリストそのもの人格的なものなのだと伝えようとしているのです。
ボンヘッファーは「真実を語るとは何か」という獄中の文章を書きました。ヒトラー政権下でキリスト者が苦しんでいたのは、十戒の「偽証してはならない」という戒めでした。ボンヘッファーは、一人の少年がアル中の父親のことを教師に問われて父はアル中ではないと自分の家庭の秩序を守ろうとして嘘をついたことに対して、「この嘘はより多くの真実を含んでいる」と述べています。嘘をつくか真実かの単純で教条的な二者択一ではなく、守るべき責任を負っている大切な家庭のためについた少年の嘘にこそより多くの「真実」があるとしたのです。
私たちの救いのために十字架を負って下さった主という存在こそが「真理」であることを知っているキリスト者は、規範倫理の哲学者カントのように「真理」の教条化も律法主義化も出来ない、自由な神の民なのです。罪赦された罪人として自分の罪は主に委ね、自分の負うべき十字架を負って歩んでいく群れなのです。
(終わり)