キャンドルサーヴィス(2013年12月24日)での、小海基牧師による説教の要旨を公開します。

説教者:小海基牧師
日時:2013年12月24日
於:荻窪教会

羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。…羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(ルカによる福音書第2章15,20節)

 2013年も三日連続でクリスマスをお祝いしました。第一日目のクリスマス礼拝では天使の大軍が「グロリア イン エクセルシス デオ(いと高きところには神に栄光)」と歌ったところを読みました。昨日はバッハのクリスマス・オラトリオの後半Ⅳ~Ⅵ部が演奏されました。今日読むのは、天使たちが去った後羊飼いたちがどうしたのかということです。
 今この説教をする前にも天使たちが歌ったそのままのギリシア語で私たちは歌いました。2000年前から歌い継いでいるのです。考えてみればこれはすごいことではありませんか?日本はキリスト教より仏教だという人もいると思います。この夜のキャンドルサーヴィスに集まっている皆さんの半分近くの人は、必ずしもキリスト者ではないでしょう。でもたとえ「私は筋金入りの仏教徒だ」という人がこの中にいたとしても、サンスクリット語でお経をそらんじているなんていう人はまずいないのではありませんか。ところが皆さんはたった今、天使が歌ったそのままのギリシア語で「グロリア イン エクセルシス デオ」とそらで歌ったのですよ。
 最初に天使たちが歌った大合唱はさぞかし見事な歌声であったことでしょう。でもそれがどんなに見事であっても天上に留まっている限り、救いの知らせは行き渡らなかっただろうと思います。その晩その歌声を耳にしたのは、夜遠し羊の群れの番をしていた羊飼いだけだったからです。もし、その羊飼いたちが天使の歌声の見事さに聴きほれてしまって、「私たちは羊を飼うことにはプロであるかもしれないが、歌は苦手で…」などとひるんでしまっても、天使の歌は今日まで伝わらなかったでしょう。あの晩の羊飼いたちの偉いのは、ただ受け身で耳を澄ましていただけでなく、天使と一緒になって歌い出したことです。本当に素晴らしい歌を聴いた人は、聴くだけで満足することはできないということでしょう。自分も歌わずにいられなくなってしまう。
 同じことが2000年のキリスト教の歴史の中でも起こりました。よく知られていることですが、2000年の内の最初の1500年間は、ただただ信者たちを歌うことから締め出すことに教会当局は力を注いだのです。同じ聖書的宗教であるユダヤ教でも回教でもそんなことはしませんでしたのに、キリスト教だけは教会の中で歌えるのは男性のプロの聖職者だけで、一般信者はそれに耳を傾け聞き惚れるだけということになってしまいました。
 なるほどその1500年間、古今東西の大作曲家たちが競って「グロリア」に名曲を付けていきました。最初の天使たちの歌声に近づけようと競ったのです。おかげで「グロリア」は名曲ぞろいで、フルオーケストラにトランペットも付けて…と、どんどん大がかりになっていきます。聴衆も圧倒され、なんてすごい「グロリア」だと感嘆する名曲ばかりです。
 しかし、最初の天使たちの「グロリア」が天使たちの歌だけに留まらず羊飼いたちも加わらずにいられなかったように、1500年間続いた男性聖歌隊の「グロリア」も一般信者も歌い継ぐようになります。1517年マルティン・ルターの宗教改革が起こったのです。私たちはあと4年で500周年の年を迎えようとしています。
 私たちのこの荻窪教会もルターと同じ「プロテスタント」に属するわけですが、一般信徒が歌い継ぎ始めたとたんに、カトリックの人たちも、教会の壁を乗り超えてもっと多くの人たちさえも「グロリア」の歌声に加わり始めているというのが今日の姿ではないでしょうか。この聖書の世界から見たら遠い東の果ての日本に至っては、「グロリア イン エクセルシス デオ.エト イン テラ パックス ボーネ ボーヌス ターティス.」(いと高きところには栄光、神にあれ。地の上には平和、み心にかなうひとにあれ)と、有名なミサ曲のメロディーに合わせて原文のギリシア語でそらんじて歌える人の割合は、1%のキリスト教人口の割合の10倍以上いるのではないでしょうか。「門前の小僧習わぬ経を読み」ではありませんけれど、されが天使伝来の賛美と知らずに歌い継いでいる人たちが日本人の何割もいるのです。最近ではお寺でさえ、サンタクロースが来たり、クリスマス会が持たれたり、「グロリア」が歌われる始末です。
 さらに聖書は羊飼いたちが決して、自分たちも天使と歌声を合わせることができたということで満足したと結ばれないのです。羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と、自分たちに与えられた救い主を探し出す旅、「求道」の旅に出発するのです。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」、つまり羊飼いたちの歌声は、「求道」の旅の果てに、自分の目と耳で救い主の赤ちゃんの存在を確認したうえでさらに大きくなったというのです。さらに大きくなった歌声は、その喜びを独り占めにせず、分かち合い、歌い継がれ、今夜このキャンドルサーヴィスを守るこの場所にまで届いているというわけです。
 さあ私たちもこの喜びを歌い継いでいきましょう。