<2013年秋の伝道礼拝>第3回(10月27日)説教要旨を掲載いたします。

歴史を導く神<2013年秋の伝道礼拝>第3回(10月27日)説教要旨

荻窪教会牧師
小海基

歴代誌下36:21~23
コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:58

<メッセージ>

 聖書の信仰は歴史を土台に生まれています。神様は私たちを意味あるものとして創造し、私たちが滅びないように私たちの歴史のただ中に出来事を介入し、救いの出来事を成就させたと聖書は語ります。神様のひとり子は神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられ、人間の姿で現れてくださって、十字架についてくださったのです。それを私たちは「受肉」(じゅにく)と呼びますが、その救いの出来事は2000年前の、日本から遠く離れた中東イスラエルの出来事というのではなく、私たちそれぞれの歴史のただ中でも具体的に起こっていることなのです。私たちの人生に神様は介入されて、私たちを救いへと導いて下さったということを聖書は伝えようとしているのです。

 今日読んだのは歴代誌の終わりの部分です。ユダヤ人の聖書では、旧約聖書の一番終わりに歴代誌が置かれています。ですから今日の部分は、聖書の一番最後におかれている言葉であり、旧約聖書の結論のような所です。
 旧約聖書には色々なことが書いてあります。神様が天地を造られ人間が造られたという話から始まり、エジプトで奴隷であったイスラエルの民をモーセが40年の旅路の後、約束の地に導き約束の地を立てていったのだけれど、度重なる罪の結果、せっかく与えられた約束の地を失ってしまい、バビロニアで奴隷生活を余儀なくされる…。そのバビロン捕囚が70年続きました。そういう流れで来たその最後に、預言者エレミヤの口を通して告げられた神様の約束は実現した。70年のバビロン捕囚後、キュロス王がおこされ、キュロスによって解放され奇跡的に再び約束の地に帰る日があったのだ、と旧約聖書は終わりにまとめるのです。

 バビロニアでの奴隷時代に主なる神を忘れ、ヘブライ語も忘れて名前もバビロニア風に変えられ、聖書の言葉も聖書の信仰も忘れかけているかもしれない。70年間は約束の民が不在で、約束の地は砂漠となってしまった。しかしその全期間を通じて地は安息を得て、そして神様の約束は年月が満ちて成就したのだと語るのです。そのために神様が用いたのは、異邦人のペルシャ王キュロスでした。歴史を導く神様は、ご自身の意思の中で捕囚の荒廃や異邦人さえも用いて歴史を進められるのです。
聖書の語る歴史は循環的な物ではなく、始めがあり終わりがあるという一直線の歴史です。その歴史の中で確実なことは、歴史を導いているのが神様である以上、神様の約束の言葉は実現するということです。歴史の中で刻まれた色々な不幸なこと、嫌なことは沢山あるかもしれない。その場に直面している私たちは理解できない、神様は一体どこにいるのだろうかと思うようなこともあるかもしれない。しかし最後から振り返って見るとそれさえも意味あることであると思わざるを得ない。そのような一直線の歩みが聖書の語る歴史なのです。そういう信仰を「摂理」といいます。その摂理の信仰が旧約聖書の一番最後に記されているのです。

 新約聖書でその成就が書かれている神様の救いの出来事は、天地創造のように神様の一声で成就したかもしれないけれど、そうではなく神様は非常に丁寧に手をかけて私たちの救いに自ら介入し、十字架と復活の出来事を起こされました。私たちはそういう歴史を導く神様に委ねて、主の技を励み伝える群れであっていきたいと思います。

(終)