2014年5月18日 春の伝道礼拝「いのちの道を歩く」(佐原繁子・日本基督教団教師)の説教を掲載いたします。

<2014年春の伝道礼拝>第2回(5月18日)「いのちの道を歩く」               
日本キリスト教団牧師 佐原繁子先生

詩編    16:1~11
使徒言行録 2:29~31

<メッセージ>

復活の証人が裏付けとして引用した詩編16編

イエス・キリストは十字架につけられた後、3日目によみがえられました。初代教会の証人達はこのキリストの勝利を目撃しました。その事実を裏付けるために、彼らは今日読んで頂いた詩編16編を引用して、この中にイエス・キリストの復活の事実が既に予告されていることを主張したのです。
10節にこう歌われています。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」と。イエス・キリストの復活の事実を証明するために引用されたこの詩編16編とは、どのような詩なのでしょうか。
「陰府」とは死んで行く場所であり、地下の暗い場所であり行ったら最後、決して戻ることのない場所だとこの時代の人々は考えていました。死とは私たち現代人が考えているような「肉体の働きが停止する」というような単純な意味ではなかったのです。
聖書が言う「いのち」とは、たとえ人生にいろいろな苦難や悲哀があろうとも、やがて年老いて肉体の死がやってくることがあっても、決して終わることのない「いのち」です。その「いのち」はどこまでも続く、永遠に至るところの「道」でなければなりません。一本の道が自分の前を通っている。そしてどんな嵐が襲って来ようが、決してその道はなくならない。
命に至る道は穴だらけのでこぼこ道かもしれません。しかし一見ぬかるみの泥道であっても、キリストが示す道の終着点には、絶対確実な神の支配する国が待っているのです。それが天国です。示される道は、キリストご自身です。それこそが聖書の言っている「いのちの道」であり、その道を歩く人は生きていくのです。
ルターは言っています。「私はどんなことがあってもキリストについて行く。たとえそこが地獄のような場所であっても、そこにキリストがおられるなら、私にとってそこが天国なのだ」と。

教会に導かれ、「地獄からの脱出」をして以来の私の歩み

私たちの人生という道では必ずどこかで分かれ道に遭遇します。幅の広い道と狭い道。そこで私たちは踏み誤ってしまいます。狭い道は誰も選びたくない道です。ある時には困難に耐え、ある時には孤独をこらえて歩かなければなりません。しかし歩き通す人のみが「安息・平安」に到達すると約束されているのです。
ところが私たちクリスチャンといえども、広い安楽な道を選びがちです。私も若かりし頃、道に迷い続け、まるで「精神の安楽死」状態だったと言えるかも知れません。見るに見かねた神様は18歳の私を教会に招いて下さいました。兄が行っていた近所の教会に通うようになりました。それが私にとって「地獄からの脱出」だったのかも知れません。それ以来約50年、キリスト者としての道を歩み続けております。
ルーテル学院大学神学科に入学したのは50代後半でした。その後ルーテル神学校で、牧師となるべく4年間勉強に明け暮れました。日本キリスト教団に在籍したまま、ルーテルに転籍しないで、ルーテルでの学びを続け通しました。その間、私はまるで異邦人のようでした。教団教師試験を受けたのは65歳の頃でした。
なぜか私はルーテルの牧師にはなりませんでした。日本基督教団のどこに魅力を感じていたのかは分かりません。この道は決してなだらかな道とは言えませんでした。息切れし、呼吸困難に陥り、いつ落下するかも知れない危機にしばしば遭遇しました。それが伝道者に向けての歩み始めでした。
今でも寄せては返す荒波のように危機が襲って参ります。牧師を志願した頃と同様に、「明日はどうなるか分からない」感覚が私の心の中に暗雲のように立ちこめております。それはどうしてなのか、自己理解の及ばないところです。
しかし私に今言えることは「今日、私は、伝道者としてこの世にある」ということだけです。明日もその一歩を神が支えて下さり、変わらず私でいることを願っていますが、それは神のみ手の内にあることだと思っています。

イエスご自身が「その道」

人はいつ病気になるか分かりません。いつしか老いがしのび寄り、だんだん孤独になっていきます。このような不安定な人生において、どうしたら揺るがない神の平安に守られ、御許に至れるのか、しみじみと思うことです。
しかし今日与えられた御言葉から素晴らしい慰めが与えられます。イエスご自身が「その道」であると言われるのです。主イエスは、この道を「あちらだ、こちらだ」と示すのではなく、「私がその道」なのだと言われるのです。そこを歩く私たちに同伴し、間違いなく目的地へ連れて行って下さるのです。この世は私たち人間を暗闇と飢え、偽りと死の中に放り出したままです。しかしイエスはこの暗闇の中へ一条(ひとすじ)の光のように入って来られ、彼を信じる者の手を取って、確実に永遠の命へと導いて下さるのです。
初代教会の信者達は、周りの人々から「この道に従う者」と呼ばれました。キリスト教という言葉はなく、ただ「道」と呼ばれたのです。
この詩編16編の詩人がどのような危機にあったのか、その詳細は一切書かれていません。しかし彼は、人生の危機か、危険か、病か、何かしらの不幸から「いのちの道」に入ることが出来たと、はっきり書いています。つまりこの詩人は、神との交わりを与えられたのです。そして出会ったその時、神さまが「いのちの道」を示してくださったと告白しているのです。
「あなたは私の主。あなたのほかに私の幸いはありません」(2節)。「主はわたしに与えられた分、私の杯。主は私の運命を支える方」(5節)。 
人生の重荷は昔も今も何ら変わらないと思います。労苦、老い、死、どんな試練に対しても、主は大きな突破口を開けてくださいます。それが主の復活です。神は、イエス・キリストを私たちに遣わし、彼を信じる者にとこしえのいのちを約束されました。そして私たちを決してお見捨てにならないと約束してくださいました。私の前に、あなたがたの右に、主は付き添い、私たちと共に歩んでくださるのです。