<2019年秋の伝道礼拝>
第2回(11月17日)説教要旨
わたしが引き上げた
出エジプト記2:1~10 ヘブライへの手紙3:1~6
鶴川北教会牧師 田中 雅弘先生
<メッセージ>
名前の重さ、大切さ
生まれてきた人には、皆、誕生日があります。親が最初に子どもにしてあげることは、名前を付けることです。わが家に子どもが生まれた時に知らせが来て、取り急ぎ病院に駆け付けました。わが子との初対面を果たしても、まだ名前が付けられていないので足に付けられたタグに「たなかあかちゃん」と記されているのみでした。これでは「物」と同じで呼ぶに呼べないため大いにとまどったことを覚えています。名前の重さ、大切さが実感された体験でした。
今日の旧約の聖書個所ですが、あるヘブライ人の家庭に男の子が生まれました。この赤ちゃんには「モーセ」と言う名が付けられました。古代では生まれてきた子に名前を付けることは、親がこの子を育てると決断を表明することでもありました。名前を付けることで、その子は、他人と区別され、かけがえのない、ただひとりの人となるのです。
聖書の神は、呼びかける神であります。人間が呼びかける前に、先に呼びかけて下さるのです。人にはみな、神に呼びかけられる時が必ずあります。モーセもそうでありました。神から呼びかけられたそのときには「はい」と答えられるように、心を真っすぐにしていたいと思います。
人さまざまな名前の由来
私は長らく教会の講壇と、学校の教壇に立って仕事をしてきました。学校では生徒を相手に、聖書の授業をするわけです。授業は一方通行では成り立ちませんので、生徒を指名して聖書や教科書を読んでもらったり、質問に答えてもらったりするわけで、その時、生徒の名前を呼ぶ訳です。
以前、漢字ひと文字で「男」と書く生徒がいました。名前は「ダン」君かと聞くと、違うという。「当ててみて下さい」と言うので複数の名前を言ってみたのですが、全部違うと言われ降参すると、「アダム」とのことでした。確かに創世記で、最初の人「アダム」は「男」という意味があります。まさかクリスチャンホームの生徒ではなかろうとは思いますが、こんな名前もありました。
私の名は「マサヒロ」です。1957(昭和32)年生まれですが、当時この「マサヒロ」は流行りの名前だったようです。因みに、この教会の龍口奈里子副牧師は、関西学院大学時代に同窓・同学年でしたが、いつか名前の由来を伺ったところ、「奈里」とは「奈良の里」のことだそうで、随分と奥ゆかしい名前だな、と感心した思い出があります。
モーセの誕生と命名の背景
さて今日の聖書個所は、出エジプト記2章です。私はこれまで主日礼拝は、教団の聖書日課、「日ごとの糧」の聖句個所を取り上げて説教しております。教会暦では「降誕前節」、クリスマス前の「準備」の時に、旧約のみ言葉に目を注ぎ、神の遥かな救いの計画に心を向けようという趣旨です。モーセの誕生、そして生い立ちが記されており、特に今日のテキストでは彼の「命名」についての背後の物語が語られています。
出エジプトの立役者は、その名を「モーセ」と名付けられました。名前にはみな「意味」が込められていますが、「モーセ」と言う名前は古代エジプトの言葉に遡るとされており、その意味は「誕生・生まれる」あるいは「生まれた子」、赤ん坊にふさわしい名前で、エジプトでは、「太郎」や「花子」のようなごく一般的な命名であったようです。
ところがヘブライ人は、その名前の持つ音を、ヘブライ語として聞き、ヘブライ語として再解釈し理解しました。10節「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げたのですから』」。「引き上げる、引き出す、マーシャー」。こういう所に、古代の文学の語り手の技巧を読み取ることができます。「水の中から引き出す」、皆さんは何を思い起こされるでしょうか。
出エジプト記のクライマックスともいうべき場面は、「紅海渡渉」を置いて他にありません。イスラエルの民は、実に、水の中を引き出されて、救いへと導かれたのです。奴隷の呻き、苦しみの叫びを聞かれる神は、モーセの誕生から、すでに大いなる救いのみわざを、既に準備、計画されていたのです。
両極の意味を持つ「水」
「水」は、人間の生命に必要不可欠なものには違いありませんが、同時に恐るべき脅威でもあります。ノアの箱舟の「40日40夜」ではありませんが、聖書の人々にとって「水」は両極の意味を持っています。「生命を育むもの」ばかりでなく「生命を容赦なく奪うもの」でもあります。だから「水」は、聖書の人々にとってまず「死」の象徴です。
モーセは「水から引き出された」。まさしく死から引き出されたのです。ここに神の救いのみわざが示されています。このテキストを「赤ちゃん救出リレー」と呼んだ牧師がいます。ひとりの赤ん坊の小さな生命のために、いくつもの手が動かされて、働いて、バトンタッチされて、「救出」劇が遂行された、というのです。
第一走者は、ヘブライ人の助産婦たち。彼女たちはファラオ、上からの命令に従わなかった。生まれ出た小さな生命を殺さなかった、否、殺せなかった。それを責められると「エジプト人と違い、ヘブライ人の母親は健康で、自分たちが行く前に生んでしまいます」、見事な大嘘ですが、そこに神の「大きな祝福」があったと伝えています。次にモーセの母親、「その子がかわいかったのを見て、三カ月の間隠しておいた。しかしもはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、その中に男の子を入れ、葦の茂みの中に置いた。さらにその赤ん坊の姉、後の女預言者ミリアムは心配して遠くから見ている。エジプトの王女が籠を拾ったのを見て、すかさず言う「この子に乳を飲ませる乳母を呼んでまいりましょうか」。なんと機転が利くことでしょうか。そしてアンカーにバトンが渡る。「その子は王女の子になった。王女は彼をモーセと名付けて言った。『わたしが水の中から引き上げたのだから』」。
居合わせるは、「共に」
そこに居合わせた人々、たまたま居合わせたひとり一人、それと知らず生命のバトンを受け取り、担った人たちは、皆、女性たちでした。神の救いのみわざの種明かしを見るようです。
長崎で原爆に被爆した歌人、竹山広さんは阪神大震災の時、「居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ」と詠みました。たまたまそこに居合わせたばかりに、不測の事態に巻き込まれ、犠牲になった人を悼んだ名高い一首です。
そこに居合わせることを通して、神はそのみわざをあらわにされるのです。私たちは今、教会暦で「降誕前節」を過ごしています。神のひとり子、主イエスが誕生されたことは、そこに居合わせるためです。居合わせる、つまり「共に」というあり方によって、私たちを水から引き上げ、みわざのために引き出されるのです。赤ん坊は非力です。しかし決して「無力」ではありません。その非力な赤ん坊に、私たちは生命へと引き出されるのです。