【緊急・重要】コロナウイルスへの荻窪教会の対応

                            2020年4月8日

        【緊急・重要】コロナウイルスへの荻窪教会の対応
                               荻窪教会 役員会
 
 感染の拡大がさらに深刻化し、4月7日に「緊急事態宣言」も出されました。そのことを踏まえて、教会は「緊急事態宣言」が解除されるまで、集まる形での礼拝及び諸集会を行わないこととします。毎週、小説教をはがきで郵送しますので、各自、自宅で祈り、礼拝してください。どうぞご理解ください。
 
 教会の礼拝や活動、交わりに支障が生じますが、今は終息を待って、再び一緒に集まっての礼拝と活動を行うため、それぞれの場で、お互いの健康と安全を祈り合っていきたいと思います。社会で起こっている感染者差別を防ぎ、感染者や家族の心に寄り添い、牧会に努めてまいりましょう。

 5月6日(予定)の「緊急事態宣言」が解除された後の礼拝再開に関しては、教会員連絡網、小説教(はがき版)にて告知します。
 

<2019年秋の伝道礼拝> 第3回(11月24日)説教要旨

<2019年秋の伝道礼拝>
第3回(11月24日)説教要旨
新しく生まれる
創世記 11:1~9  エフェソの信徒への手紙 2:14~22
荻窪教会副牧師  龍口 奈里子

<メッセージ>

 イスラエルが占領下に置くパレスチナ暫定自治区には450キロにも及ぶ21世紀最大の壁があります。また聖書の時代のエルサレム神殿には、ユダヤ人と異邦人を仕切る数十センチの壁があったようです。エフェソは異邦人が多い場所で、エフェソの教会にはユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者もいました。かつてはそれぞれ信仰する神は違ったけれども今は同じ主イエスを信じ、兄弟姉妹として一つの教会で共に礼拝を守っていました。しかしいまだに「一つ」にはなれない、見えない「隔ての壁」「溝」がありました。
 ユダヤ人たちには最初から「神の民」とされてきたという自負があり、異邦人が福音を信じて教会に入ってくるならば、モーセの慣習に従って身を清めるとか割礼を受けるなどの条件付きでなければならない、としていました。パウロは「隔ての壁」を取り壊したのは律法ではなく、主イエスご自身であり、ユダヤ人にならなければ救われないと異邦人に言うならば、それは主イエスの福音に反するものだと言うのです。
 13節の「キリスト・イエスにおいて造られた」の「おいて」というのは英語で言うとイン、つまりキリストを信じるとはキリストの中に入るということです。また「御自分において一人の新しい人に造り上げる」の「おいて」もインです。人種や性別や身分や性格がどんなに違っても、私たちは主イエスの十字架によって「新しく生まれ」「一つの体」の中に入れられ、キリストにあって一つとされ、互いの「隔ての壁」を取り壊して、平和を作ってゆきます。
 しかし私たちの教会が、そのようにして「隔ての壁」を取り壊しているでしょうか?17節で、キリストが再びおいでになるとき「遠く離れているあなた方」にも「近くにいる人々」にも、「平和の福音が告げ知らされる」とパウロは述べます。遠くにいるクリスチャンではない人々から、あるいはもはやキリストを信じないであろうと私たちが思い込んでいる人たちから、福音はまず最初に伝えられ、遠くに離れていると思われた人たちの方が、永遠の命の希望にあずかることがあるということではないでしょうか。
 
 先日NHKの番組で、東洋英和女学院の校長だったハミルトン宣教師のドキュメントがありました。戦前日本で教鞭をとり校長になったミス・ハミルトンは、太平洋戦争の勃発により敵性外国人として日本で収容され監視され、そして帰国を余儀なくされました。カナダに帰国後、収容所に強制的に移住させられた日系カナダ人の教育の為に立ち上がり、高校開校のための資金や教師の要請を強く政府に要望しました。ハミルトンは、カナダでも日本でも、どちらの国の間でも「壁」の間にありましたが、両方の差別を体感する中で、平和を創りだす支援をやめることはなかったのです。「良き隣人となる」というイエスの教えをいつも学びながら、日々新たにされてその生涯を終えたのです。
 
 旧約聖書のバベルの塔の出来事は、一つの民、一つの言語、一つの文化にこだわって、かたくなであったユダヤ人に対して、神が「罰」を与え、言葉を混乱させ、民はみな全地に散らされたという物語です。しかしそれは単なる神の罰ではなく、全地に広がった民がまたさらに自分たちの信仰や文化を広げてゆき「新しい人」へと造りかえられていったことを表わしている物語でもあります。最初は混乱するけれども、多くの言葉や民族によって、互いに「壁」を取り壊して認め合う、そのような「新しい人」となることを、神様の祝福として伝えている物語なのだと思います。混乱から多様性を生んでいく、それが私たちの信仰であり、そのような人たちが集う場所が私たちの教会なのです。

<2019年秋の伝道礼拝> 第2回(11月17日)説教要旨

<2019年秋の伝道礼拝>
第2回(11月17日)説教要旨
わたしが引き上げた
出エジプト記2:1~10  ヘブライへの手紙3:1~6
鶴川北教会牧師 田中 雅弘先生

<メッセージ>

名前の重さ、大切さ

 生まれてきた人には、皆、誕生日があります。親が最初に子どもにしてあげることは、名前を付けることです。わが家に子どもが生まれた時に知らせが来て、取り急ぎ病院に駆け付けました。わが子との初対面を果たしても、まだ名前が付けられていないので足に付けられたタグに「たなかあかちゃん」と記されているのみでした。これでは「物」と同じで呼ぶに呼べないため大いにとまどったことを覚えています。名前の重さ、大切さが実感された体験でした。
 今日の旧約の聖書個所ですが、あるヘブライ人の家庭に男の子が生まれました。この赤ちゃんには「モーセ」と言う名が付けられました。古代では生まれてきた子に名前を付けることは、親がこの子を育てると決断を表明することでもありました。名前を付けることで、その子は、他人と区別され、かけがえのない、ただひとりの人となるのです。
 聖書の神は、呼びかける神であります。人間が呼びかける前に、先に呼びかけて下さるのです。人にはみな、神に呼びかけられる時が必ずあります。モーセもそうでありました。神から呼びかけられたそのときには「はい」と答えられるように、心を真っすぐにしていたいと思います。

 人さまざまな名前の由来

 私は長らく教会の講壇と、学校の教壇に立って仕事をしてきました。学校では生徒を相手に、聖書の授業をするわけです。授業は一方通行では成り立ちませんので、生徒を指名して聖書や教科書を読んでもらったり、質問に答えてもらったりするわけで、その時、生徒の名前を呼ぶ訳です。
 以前、漢字ひと文字で「男」と書く生徒がいました。名前は「ダン」君かと聞くと、違うという。「当ててみて下さい」と言うので複数の名前を言ってみたのですが、全部違うと言われ降参すると、「アダム」とのことでした。確かに創世記で、最初の人「アダム」は「男」という意味があります。まさかクリスチャンホームの生徒ではなかろうとは思いますが、こんな名前もありました。
 私の名は「マサヒロ」です。1957(昭和32)年生まれですが、当時この「マサヒロ」は流行りの名前だったようです。因みに、この教会の龍口奈里子副牧師は、関西学院大学時代に同窓・同学年でしたが、いつか名前の由来を伺ったところ、「奈里」とは「奈良の里」のことだそうで、随分と奥ゆかしい名前だな、と感心した思い出があります。

 モーセの誕生と命名の背景

 さて今日の聖書個所は、出エジプト記2章です。私はこれまで主日礼拝は、教団の聖書日課、「日ごとの糧」の聖句個所を取り上げて説教しております。教会暦では「降誕前節」、クリスマス前の「準備」の時に、旧約のみ言葉に目を注ぎ、神の遥かな救いの計画に心を向けようという趣旨です。モーセの誕生、そして生い立ちが記されており、特に今日のテキストでは彼の「命名」についての背後の物語が語られています。
 出エジプトの立役者は、その名を「モーセ」と名付けられました。名前にはみな「意味」が込められていますが、「モーセ」と言う名前は古代エジプトの言葉に遡るとされており、その意味は「誕生・生まれる」あるいは「生まれた子」、赤ん坊にふさわしい名前で、エジプトでは、「太郎」や「花子」のようなごく一般的な命名であったようです。
 ところがヘブライ人は、その名前の持つ音を、ヘブライ語として聞き、ヘブライ語として再解釈し理解しました。10節「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げたのですから』」。「引き上げる、引き出す、マーシャー」。こういう所に、古代の文学の語り手の技巧を読み取ることができます。「水の中から引き出す」、皆さんは何を思い起こされるでしょうか。
 出エジプト記のクライマックスともいうべき場面は、「紅海渡渉」を置いて他にありません。イスラエルの民は、実に、水の中を引き出されて、救いへと導かれたのです。奴隷の呻き、苦しみの叫びを聞かれる神は、モーセの誕生から、すでに大いなる救いのみわざを、既に準備、計画されていたのです。
 
 両極の意味を持つ「水」

 「水」は、人間の生命に必要不可欠なものには違いありませんが、同時に恐るべき脅威でもあります。ノアの箱舟の「40日40夜」ではありませんが、聖書の人々にとって「水」は両極の意味を持っています。「生命を育むもの」ばかりでなく「生命を容赦なく奪うもの」でもあります。だから「水」は、聖書の人々にとってまず「死」の象徴です。
 モーセは「水から引き出された」。まさしく死から引き出されたのです。ここに神の救いのみわざが示されています。このテキストを「赤ちゃん救出リレー」と呼んだ牧師がいます。ひとりの赤ん坊の小さな生命のために、いくつもの手が動かされて、働いて、バトンタッチされて、「救出」劇が遂行された、というのです。
 第一走者は、ヘブライ人の助産婦たち。彼女たちはファラオ、上からの命令に従わなかった。生まれ出た小さな生命を殺さなかった、否、殺せなかった。それを責められると「エジプト人と違い、ヘブライ人の母親は健康で、自分たちが行く前に生んでしまいます」、見事な大嘘ですが、そこに神の「大きな祝福」があったと伝えています。次にモーセの母親、「その子がかわいかったのを見て、三カ月の間隠しておいた。しかしもはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、その中に男の子を入れ、葦の茂みの中に置いた。さらにその赤ん坊の姉、後の女預言者ミリアムは心配して遠くから見ている。エジプトの王女が籠を拾ったのを見て、すかさず言う「この子に乳を飲ませる乳母を呼んでまいりましょうか」。なんと機転が利くことでしょうか。そしてアンカーにバトンが渡る。「その子は王女の子になった。王女は彼をモーセと名付けて言った。『わたしが水の中から引き上げたのだから』」。
 
 居合わせるは、「共に」

 そこに居合わせた人々、たまたま居合わせたひとり一人、それと知らず生命のバトンを受け取り、担った人たちは、皆、女性たちでした。神の救いのみわざの種明かしを見るようです。
 長崎で原爆に被爆した歌人、竹山広さんは阪神大震災の時、「居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ」と詠みました。たまたまそこに居合わせたばかりに、不測の事態に巻き込まれ、犠牲になった人を悼んだ名高い一首です。
 そこに居合わせることを通して、神はそのみわざをあらわにされるのです。私たちは今、教会暦で「降誕前節」を過ごしています。神のひとり子、主イエスが誕生されたことは、そこに居合わせるためです。居合わせる、つまり「共に」というあり方によって、私たちを水から引き上げ、みわざのために引き出されるのです。赤ん坊は非力です。しかし決して「無力」ではありません。その非力な赤ん坊に、私たちは生命へと引き出されるのです。

<2019年秋の伝道礼拝>第1回(11月10日)説教要旨

<2019年秋の伝道礼拝>
第1回(11月10日)説教要旨
生まれ出づる悩み
ヨブ記 2:3~10 3:1~4 ヤコブの手紙 5:11
荻窪教会牧師 小海 基

<メッセージ)
 11月の伝道月間のテーマは、「誕生」です。キリストの誕生を祝うクリスマスを目前にし、1年前に出版された新しい翻訳の「聖書協会共同訳」誕生をめぐっても検討が始まっています。新しい命への「誕生」とは何なのかについて聖書から聞くべき時であるでしょう。 
 聖書、讃美歌の翻訳が「宿命的」に抱えてしまう問題、課題に〈差別語〉、〈問題用語〉があります。最初に使われた時は「差別」性、「問題」性を持っていなくても、時代の経過とともに増幅、強調されて「母語」となって用いられ、より深刻な影響力をもってしまいます。
 ドイツのプロテスタント教会の讃美歌が1993年に40年ぶりに改訂を行った際に、ユダヤ人差別の観点から、ルターをはじめとする従来のコラールの歌詞をそのまま継承して良いのかという問題提起がなされました。
 アブラハムの「子孫」(ドイツ語で「ザーメン」)等がユダヤ人に対するあからさまな「卑猥なはやし言葉」として用いられた歴史から、「改訂」訳の併記という形で出版されました。20世紀以降聖書翻訳の是正もなされていますが、社会の「差別」にメスを入れる課題は今も残されています。こうした一つに医学的にはすでに解決されているにもかかわらず今日まで差別されているのが〈らい〉の問題です。
 医学的にはどのような疾患であるかも明確でない「ツァラアト」(旧約ヘブライ語)、「レプラ」(新約ギリシャ語)を、「らい病・ハンセン氏病」と翻訳してしまったことで、旧キリスト教社会から始まって全世界で、患者があたかもレビ記に記された「汚れた病」を負う者、社会的に「隔離されるべき」、「不治の病」、「遺伝」するという偏見を持たれ、家族、親族にまで人権侵害が広まってしまいました。これが明らかに聖書翻訳によって人工的に生み出された「差別」であることが分かるのは、キリスト教国のハンセン病施設の多くが「隔離型」であったからです。
 このあたりの歴史を詳しく報告した名著が、荒井英子著『ハンセン病とキリスト教』(岩波書店1996年)。同書の中で「『小島の春』現象」と名づけた被害は深刻です。1932~1938年に岡山県長島愛生園に医官として在職した小川正子医師の映画で、小川自身を神話的存在にまで持ち上げられた現象です。「救う側」の小川医師たちが「天使」、「聖女」として賞賛される一方で、「救われるべき側」の患者や家族が追い詰められ、「生まれてきた意味は何のためだったのか」とヨブのように悩み、絶望に放って置かれました。2019年7月にようやく元患者と家族への賠償を国に命じましたが、「法的責任」は言及しないままです。

 ヨブ記は、最後に主がどのようにして下さったかに目を注ぐように語っています。ヨブ記のすさまじい世界を正面から見なければなりません。ヨブは全財産を奪われ、重い皮膚病を患い、最愛の妻からも、「あなたは神を呪って死んだ方がましだ」と言われ、共に泣いてくれた友人からも、「あなたの気づかない罪があるのだ」と言われました。ヨブは無垢で神さまを信じ、罰を受けるような罪は犯していないのにもかかわらず、自分の生まれた日を呪うまで絶望しました。しかし神さまを呪いませんでした。生ける神さまの答えをずっと待ち続けました。神さまから、あなたの病は因果応報のためでは無いと語られてヨブは満足します。
 イザヤ書53章では自分の生まれた日を呪うまで追い詰められた人のために、神さまは苦難の僕として重い皮膚病になり、差別、偏見の姿をとって救いをもたらせてくださったのだと語られています。旧約聖書の救いを心に刻み、クリスマスを待ちましょう。

<2019年春の伝道礼拝>第3回6月2日説教要旨

<2019年春の伝道礼拝>第3回6月2日説教要旨

愛するとき……ひとりよりふたりが良い

コヘレトへの言葉 4:9~10   ルカによる福音書 17:20~21

龍口奈里子

<メッセージ>
 来年の東京オリンピックを招致する時に、「おもてなし」という言葉があたかも日本特有の美学であるかのようなスピーチが話題になりました。
 しかし聖書にも「旅人をもてなすよう努めなさい」(ローマの信徒への手紙12章13節)など多く出てきます。英語ではhospitality。その語源のギリシャ語では、「見知らぬ人に友情を示すこと、愛を示すこと」という意味です。「旅人」や「寄留者」といった、自分たちがまだ出会ったことのない人、人が築いた枠の中から逸れてしまった人、排除されてしまった人と友となること、その人に愛を示すことが、聖書のいう誰かを「もてなす」こと、「おもてなし」ということです。
 ラルシュという施設の創設者ジャン・バニエ司祭は、知的な障碍を持つ人が施設や病院で、その存在を認められず、「誰かより劣るもの、ダメなもの」というレッテルを貼られて苦しんでいる姿に触れ、彼らと一つの家庭・家族として寄り添い、生活を分かち合いたいという思いから「ラルシュ」を始めました。
 この共同体の理念は、そこに住む人が互いにケアーしあうことでした。「ケアーする」は日本語に訳すと、「心を配る」、「人をもてなす」、いうなれば「おもてなし」です。
 語源のラテン語「クーラ」は「心を痛めること、誰かと一緒に叫ぶこと」です。私たちは誰かを「ケアーする」ことは、AがBに「心を配る」ことだと思いがちですが、語源の意味から考えると、単にAからBへの一方通行的な心配りではなく、時に入れ替わって、BがAに心を配る。だから、相手を励ましているようで励まされ、慰めているようで慰められている、そのような相互の関係が生まれることが「ケアー」「もてなし」の語源の意味なのです。
 創世記2章18節に「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とあります。主なる神は、アダムが「助ける者」としてエバを創造しただけでなく、逆にエバもアダムを「助ける者」として、互いに助け合い、励ましあい、ケアーする者として、人間を創造されました。
 今日の旧約箇所にも同じことが記されています。共に労苦しあう二人、どちらか一方が「倒れ」たら、もう一方が「助け起こす」そのような関係性の中で、「ひとりよりもふたりが良い」と言います。この先の12節に、「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」とあり、ここで糸が2本ではなく、3本の糸になっているのは、「わたしとあなた」そしてもう1本の糸は明らかに主なる神の介在を指し示しています。
 新約聖書ヨハネによる福音書15章「ぶどうの木」のたとえの中で、「わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」「わたしの喜びがあなたがたの内にあるとき、あなたがたの喜びが満たされるのだ」と主イエスは述べられています。
 キリストの愛が私たちの内に留まっているから、わたしたちはキリストにあってひとつとされ、互いに愛し合い、喜びに満たされる。まさに「三つよりの糸は切れにくい」と同じです。
 今日の新約箇所で、主は「私たちの内に」ではなく、「私たちの間に」とも語っておられます。「神の国」とは、神様の御心が現れるところです。それは遠い空の彼方でも、はるか地平線の彼方でもなく、「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と主イエスは言われました。
 私たちも「私たちの間に」宿って下さるキリストの愛から離れないようにして、互いに「助ける者」として、「ケアー」しあい、神を愛し、人を愛する者とされたいと思います。

<2019年春の伝道礼拝>第2回(5月26日)説教要旨

<2019年春の伝道礼拝>第2回(5月26日)説教要旨

愛するとき……–民族差別のない平和の奇跡が創られる

サムエル記上 25:32~35   
マタイによる福音書 5:9
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」
  
高麗博物館名誉館長、文化センター・アリラン副理事長
宋富子(ソン・プジャ)先生

<メッセージ>
はじめに

 アンニョン(安寧)ハセヨ! 皆さんおはようございます。
 この祝福され、恵まれた礼拝の時、異なった二つの民族の私たちの心が一つになって、イエス様の聖霊のみ力によって私たちの心が燃え、平和を創れるよう祈ります。

出会いは神様の摂理、李仁夏(イ・インハ)先生との出会い

 私は在日朝鮮人二世として生まれました。そのため小学校時代、周りの子どもたちからいじめられ、3年生からは死ぬことばかり考えていました。
 結婚して川崎市に住むようになり4人の子どもの親になりました。子どもが通う保育園で在日大韓基督教会、川崎教会の牧師で園長の李仁夏先生の父母会での挨拶の言葉「自分を愛するように自分の隣り人を愛しなさい。というみ言葉にそって保育します。自分を愛する意味で、韓国朝鮮人の方は民族名の本名を親子で使用して頂きます。今は植民地時代ではありませんので自由です」。
 私にとっては民族名など、とんでもないことです。植民地って何だろう。李先生の言葉が電流のように体に入ってきました。自分を愛するように隣り人を愛する。凄い凄い言葉です。その夜は朝まで眠れませんでした。私は社会の仕組みも、歴史も何も知らない。自分の無知に愕然としました。
 翌日、聖書研究会に出席しました。担当は、小杉尅次副牧師です。その声は初めて聞く優しい人間の声でした。今村秀子(60歳)おばあちゃんのお祈りにびっくりしました。
 両手で顔を覆い泣きながら「天の神様、どうか日本人の罪を赦して下さい。オモニ(母)さんたちが神様の聖霊のみ力によって本当の名前で生きられるようにして下さい」。指の間から涙がこぼれています。お二人の生き様を見て、6ケ月後31歳で受洗しました。

民族差別を無くして平和を創ることが使命と確信する

 私の生命は神様の愛で創られた。私は差別されるために生まれたのではない。自分を愛して隣人の日本人を愛するために生まれたのだ。「差別を無くして平和を創る」ために、イエス様は私を選んで下さったのだと確信しました。
 私は中学を卒業していても、漢字も読めない、割算、掛算も出来ない学力でした。
 夫の仕事は自動車修理工場を経営し、従業員が7人住み込みでしたので、家族も含め13人分の食事作りに追われる毎日でしたが、心が熱く燃えている私は夢中で聖書を読み、画用紙にみ言葉を書いて台所や柱、トイレ、天井に貼り、覚えました。
 「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11・13)。
 これからは神の子として気高く生きたい、人間らしく、やさしい気持で平和を創る人間になりたいと思いました。宝石と日本の高価な着物を処分して歴史の本を買って学びました。
 1970年、在日韓国人朴鐘碩(パク・チョンソク、19歳)が大企業の日立製作所を日本名で入社試験を受け合格したのですが、韓国人ということで不採用になり、裁判を起こしました。李先生や教会の青年も頑張り、多くの牧師、特に中平健吉弁護士の支援、キリスト者の支援は大きく、3年半で勝利しました。この運動は全国に広がり、民族差別撤廃運動の先駆けとなりました。
 私も初めてプラカードを持って銀座をデモして叫びました。社会の悪に抗い、正す生き方こそ平和を創る一歩と体で知りました。
 その後も、児童手当、川崎信用金庫融資問題や市営住宅入居、川崎市教育委員会との交渉など、数々の民族差別撤廃運動に関わりました。

日本は在日朝鮮人にとって人権では生き地獄

 日本人の一人一人は優しい良い方ばかりです。社会の差別の構造と制度は政権が作ります。しかし行うのは、加害の真実の歴史を学んでいないで、偏見を植え込まれている市民です。子どもは親を真似ていじめます。大切なのは愚民化(無知)政策に気づいて歴史を知り、神の愛に生きることです。
 日本の植民地政策で、日本に約230万人の朝鮮人が自分の土地を奪われたり、強制連行で働かされました。戦後、大半の朝鮮人は祖国に帰国しましたが、65万人が日本に残りました。神様が日本の平和を創るために残して下さったのだと信じています。戦後日本が在日朝鮮人に行った一番酷い事は1947年5月3日、日本国憲法が施行される前日の5月2日、突然に、天皇の最後の勅令として、台湾人、朝鮮人は外国人とみなすとしました。その意味は、朝鮮人は日本人とされて多くの者が戦死しましたが、軍属や負傷者、遺族に対して、保障や遺族年金等から除外するためでした。
 また外国人登録令を公布し、指紋を押捺させ厳しく取り締まりました。政府は植民地支配を反省して、日本に住む朝鮮人に対して、違いを認め合う共生共存でなく、治安対象と見、排除と同化政策を行いました。
 戦後74年を迎えた今も在日朝鮮人の85パーセントは日本名で出自を隠して生きています。ありのままで生きられない在日の心身症は日本人の5倍です。未だに特別永住外国人の朝鮮人に参政権も付与しません。先進国で付与していないのは日本だけです。これは人としての最低の権利です。納税は課せられています。
 大学で教員資格を取得しても、公立の小、中、高校の教員になれず非常勤講師です。現在も、結婚、就職、入居と多くの見えない差別と偏見のために日本名で日本国籍を取得します。日本国籍の姪は私に電話をかけてきて「長男が日本人と結婚するの。結婚式に民族衣装を着て来ないでネ。朝鮮語を絶対話さないでネ」と頼みます。

ぜひ文化センター・アリランの賛助会員に~1日28円、1年1万円~

 私は以前、高麗博物館に「一人芝居」をしながら20年間関わりましたが、2007年に文化センター・アリランの理事に就任し、現在副理事長をしています。アリランの目的は日朝の真実の歴史を伝えて、市民と在日が出会って交流し、信頼関係を築いて「民族差別のない平等で平和な社会を創る」ことにあります。韓国・朝鮮と日本に関する近現代史の歴史書や資料を5万点所蔵する私設図書館です。
 在日朝鮮人が出資し市民と共に運営する図書館は日本で初めてです。アリランは日本の歴史教育に欠けているところを補完する場であり、日本の中学、高校、大学のゼミの実習の場でもあります。日朝日韓関係を和解に導き、自由な交流を実現するためにも、なくてはならない場です。
 運営はすべて会員の会費と寄付で賄われています。1日28円、1年で1万円の賛助会員です。10万人の心に繋ぐと1年で10億円です。東京にすぐに建設できます。
 皆さん、美しいパンフレットの中の小海牧師の賛助会員へのお薦めの言葉を読んで下さい。イエスさまの愛に溢れています。
 この活動をぜひ霊的に受け容れて下さいませ。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」(コロサイ3・23)。
 皆さんの隣人愛を信じます。

<2019年春の伝道礼拝>第1回5月12日説教要旨

<2019年春の伝道礼拝>第1回5月12日説教要旨

愛するとき……光の中に留まり続ける

詩編   139:11~12    ヨハネの手紙Ⅰ 2:7~11

小海 基

<メッセージ>

 現在のように世界情勢が不安定になっている中、国境や文化や民族を超えて世界宗教が平和の担い手になることは大変重要です。戦争を起こしてしまえば地球という星が存在し続けることが出来るか否かの決定的危機を抱えています。
 かつては宗教やイデオロギーを超えて、人間の理性で何とかできると考えていた時もありました。哲学の時代といっても良いでしょう。
 宗教というのは、人間の力の限界を認めて人間の外にある創造者、絶対者に耳を傾けさせるものです。どんなに人間の言葉で感情に走り、熱を帯びていても、もう一度冷静にさせ、深く共に考えることに立ち戻らせるものです。
 ところが現在では、不幸なことに世界宗教さえも不信感をたきつけ、駆り立てる用い方がされているのです。本来成熟した国境、民族、文化を超えた「キリスト教」「イスラム教」「仏教」……と言った世界宗教こそが一民族一国家のいらだちや国益を超える視点をもたらすものであるはずなのに、昨今起こっている事件は、モスクや礼拝堂、シナゴーグがテロに遭い、報復が繰り返されています。もう一度私たちは神の言葉から聴いて冷静になり、原点に立ち戻らなければならない時にあると思います。
 今日はヨハネの手紙Ⅰを読みました。この手紙は紀元110年頃、キリスト教内部で、仮現論(グノーシス)といわれるイエス・キリストは肉を持たないという異端の考えが蔓延し、教会分裂をしかねない危機にあった時代に書かれた手紙です。
 分裂の危機を迎えると人間というのは実に愚かなものです。仮想の敵をでっちあげて敵対し、憎しみを向け一致しようとし始めるのです。この動きに対してヨハネの手紙Ⅰでは、イエス・キリストが私たちのもとに来られて、私たちの罪のために十字架にかかり、復活し、救いをもたらせてくださったという原点に立ち返れとすすめるのです。それが光の中を歩むということなのだと語るのです。
 光と闇と二つの対立概念で語られていますが等価値ではありません。光は圧倒的に闇にまさっているのです。兄弟姉妹を愛する中に光があると繰り返し語るヨハネの手紙Ⅰでは、「神は光」「神は愛」だと言い切っています。私たちを救うために来て下さったのは、憎しみ合うためではなく、私たちを兄弟姉妹として愛し合うために来てくださったのです。愛し合わなければ光の中に留まっていることにならないのです。創世記によれば、最初に神が創造されたのも光でした(創世記1章1~5節)。
 物理学者アイザック・ニュートンは早熟の天才でした。22歳で「万有引力の法則」をとなえ、微分積分を発明し、「ニュートン力学」は今でも自然科学の基本です。26歳でケンブリッジ大学の教授になりました。その後は初期の神の秩序の発見からそれて、錬金術、オカルティズムへと変わっていき、データを捏造して信用を失い、最後は精神的に異常をきたし、85歳で妹に看取られて寂しく亡くなりました。ウエストミンスター寺院に葬られたニュートンの墓碑銘は「自然と自然の法則は闇に留まっていた。神は言われた。『ニュートン出でよ』すべては光の中に現れた」。
 これは、イギリスの有名な詩人A・ホープの詩から引用された墓碑銘だと言われています。ニュートンの85年の後半生と、キリスト教のヨハネの手紙Ⅰの時代は、今日の日本のキリスト教の陥りかねない姿です。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す」(詩編139篇11~12節)神さまは夜の闇の中にも光を放っておられるのです。愛することは意志、決意を伴うことです。
 神のことばの原点に立ち返って、私たちは互いに愛し合う時に光の中に留まり続けることができるのです。ヨハネのことばを胸に刻み歩み続けましょう。

2019年イースター・メッセージ

2019年イースター・メッセージ

新しい春が世界にめぐってくる

「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終をしらせた」
ルカによる福音書 24章9節

荻窪教会副牧師 龍口 奈里子

<メッセージ>

 3月1日に、私はソウルにて「3・1独立運動から100周年」の記念すべき礼拝に出席できました。韓国のプロテスタント側の主要教派で構成されるエキュメニカルな礼拝はソウルにある貞洞(ジョンドン)第一教会で開催されました。
 100年前に、日本からの独立を求めて朝鮮全土で200万人の人々が立ち上がったのが3・1独立運動ですが、礼拝の中では、現代を取り巻く様々なテーマに基づいて、とりなしの祈りがささげられ、とくに「朝鮮半島の一致」を願う祈りは、情熱的な祈りの中にも、希望に満ちた祈りでした。
 100年前に読まれた独立宣言の中にこのような一文があります。

「ああ、いま目の前には、新たな世界が開かれようとしている。武力をもって人々を押さえつける時代はもう終わりである。……新しい春が世界にめぐってきたのであり、酷く寒い中で、息もせずに土の中に閉じこもるという時期もあるが、再び暖かな春風が、お互いをつなげていく時期がくることもある。……」(外村大氏訳)。
 
 ここには、自分たちの権利を奪った日本への非難、あるいは植民地主義からの脱却と解放の宣言というよりも、100年たってもなお新しさをもつ宣言であり、今を生きる私たちすべての人間が求める平和への希望が表されていると思います。
 「3・1独立宣言」は、初めは東京にいる韓国人留学生から端を発し、やがてソウルへとつなげられていき、そして最後には朝鮮半島全土に波及していきましたが、その中の平壌の崇徳(スンドク)女子学校では、楽隊の音に合わせて讃美歌を歌いながらデモを始め、この希望の宣言を伝えていったそうです。
 
 ルカによる福音書の伝える復活証言もまた、女性たちの証言から始まりました。「輝く衣を着た二人の人」(4節)から「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(6節)と言われた時、すぐに「イエスの言葉を思い出し」(8節)、「墓から帰って」(9節)、他の男性の弟子たちに伝えた女性たち。おそらく、賛美の歌を歌いながら走っていったことでしょう。
 さらにこの証言はペトロへとつなげられ、彼もまた「立ち上がって墓へ」(12節)賛美の声を歌いながら、走ってゆくのでした。
 1000年後の今を生きる私たちも、この復活のメッセージを賛美しながら伝えていき、朝鮮半島と東アジアの和解と平和を祈り求めていきたいと思います。