<2021年イースター・メッセージ>

<2021年イースター・メッセージ>
「♯わきまえない女」たちの証言
荻窪教会副牧師  龍口奈里子

(聖句)
「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。……婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、信徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」
(ルカによる福音書24:8~12節)

<メッセージ>
 イースターおめでとうございます。皆さんは福音書が伝える復活の記事と言えば、どの場面を思い出されるでしょうか。
 例えば、「エマオ途上での2人の弟子への顕現」の場面(ルカ24:13~35)、「イエスとトマス」の場面(ヨハネ20:24~29)、また4福音書すべてに記されている主イエスの弟子たちへの顕現の場面などがあります。主イエスが「焼いた魚を1匹」食べられた個所(ルカ24:36以下)などはその情景が目に浮かぶようです。
 ただこれらの場面には残念ながら女性たちは登場しません。しかし別の角度から見ると、福音書の復活の場面には女性が出てきます。
 例えば、「空っぽの墓」を最初に発見したのは「マグダラのマリアともう一人のマリア」(マタイ28:1)でした。ヨハネだと女性は1名ですが、マルコだと「サロメ」を入れて3名、ルカは「ヨハナ」や「ガリラヤから従ってきた女性たち」もいたと記していますので、ここから多くの女性たちが主の復活の証言者であったことが窺えます。しかもどの男性の弟子たちよりも先に、主イエスはマグダラのマリアに近寄り、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」(ヨハネ20:15)と声をかけられるのでした。
 このように主の復活はまず女性たちに告知され、この女性たちこそが復活された主イエスの最初の目撃者であった、と4福音書が一致して触れているのは重要な点だと思います。
 彼女たちは主の十字架の死を最後まで見届け、3日後に「空っぽの墓」を見て「途方に暮れ」ました。しかしその驚きと恐れから立ち直った時、「3日目に復活することになっている」という「イエスの言葉を思い出」すのでした。そしてそのことをペトロたち男性の使徒たちに急ぎ知らせました。
 しかし彼らはそれを「たわ言」というのでした。自分たちの信仰を自分の言葉で語った女性たちの証言は、ペトロたちからすれば、いわゆる「#わきまえない女」の発言であったのかもしれません。この女性たちの言動は、やがて成立してゆく初代教会形成においても決して揺らぐことはなかったとルカは記しています。
 私たちの群れも、いつも先立つキリストに従い、語るべきことを語る復活の証人でありたいと思います。

<2020年4月12日イースター・メッセージ>

<2020年4月12日イースター・メッセージ>
復活の希望を伝える
小海 基

聖書の言葉:
「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」
(テモテへの手紙Ⅱ1:10)

<メッセージ>
 今年のレント(受難節)は、中国の武漢で始まった新型コロナウイルス感染がヨーロッパも含めて世界中に広がる「パンデミック」と重なった、例年になく重苦しい日々となってしまいました。
 マスク、消毒薬が町中の売り場から消え、死が私たちの日常のすぐ隣り合わせにある不安を意識せざるを得ず、様々な活動中止を余儀なくされました。
 西東京教区でさえも全体研修会や立川からしだね伝道所の夕礼拝が無くなり、いくつかの(特に幼稚園等の付属施設を持つ)教会は礼拝を中止しました。
 荻窪教会では、「緊急事態宣言」が出されたことに伴い、4月12日の礼拝から宣言が解除されるまで、礼拝と諸集会を中止することを決定しました。この原稿を書きながらもまだ出口は見えてきません。
 「信徒の友」誌4月号の特集「マタイ受難曲を聴こう」の原稿を書くために、バッハの同曲のCDをいくつも聴きながら過ごすレントの日々でした。「死の脅威、不安」と普段口にすることはあっても、まさか医療従事者用のマスクが買い占められネットで高額で売買され、経済のダメージは広がり……と、弱みと不安に付け込んだあさましいまでの人間の欲と罪の姿に翻弄されることだったのだと知らされました。
 
 そのような日々の中でイースター(復活祭)を私たちは迎えます。聖書は、キリストの復活がキリストご自身に留まる話ではなくて、私たちを取り巻き脅かしているこの「死」を滅ぼし、死にまつわりついていた欲望、罪……といった一切を価値なき物とされたのだと宣言します。
 コロナウイルス騒ぎも、予防薬、治療薬が開発され、流行の出口が見えたら、人間の欲望の道具にされたマスクや消毒薬といった物の価値が暴落していくのでしょう。
 聖書が語るのは、それ以上の大転換がキリストの復活によって、既に私たちには、もたらされていて、私たちの生きていく「価値転換」が起きていたことだったのだと、改めて思わされます。
 世の暗闇の中に動ぜず、「不滅の命」に生きていることを確かに輝かせる群れとして、私たちキリスト者が立たされていることを改めて知らされます。不安もそうですが、ささやかでも確かな希望、信頼は、伝染でもするように周囲に伝わっていくものです。そうやってキリストの復活は伝えられてきたのです。

<2020年2月23日 2019年度信徒講座Ⅱ・講演要旨>

<2020年2月23日 2019年度信徒講座Ⅱ・講演要旨>
2020年10月開催の第42回教団総会の争点

聖書の言葉:「平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩編34:15)
小海 基
 
<メッセージ>

密接に繋がっている北村牧師免職問題と沖縄問題

〇北村慈郎牧師の戒規免職問題が起こってもう10年経過したことになる。当初は裁判闘争という形で解決の道が探られたのであったが、司法はこの問題は宗教団体内で解決すべきと判断し、不受理・棄却となった。
〇そもそも北村牧師が言質を取られるきっかけとなったのは日本基督教団第35回総会の聖餐式で、「2002年の第33回教団総会の幕切れに『距離を置く』と宣言されて以来、関係回復のめども立たず、沖縄教区を欠いたままでパンと杯を取れるか」と陪餐拒否したのを神奈川教区選出の信徒常議員(「全数連記」投票にあぐらをかいて今も平然と常議員を継続中!)に見とがめられたことがきっかけであった。
〇つまり、北村牧師免職問題と沖縄問題は、密接に繋がっているのだ。沖縄との合同のとらえ直しもそうなのだが、現在の教団執行部は、たった1つのアプローチがストップしただけに過ぎないのに、そこですべての議論を止めてしまって平気を決め込み、塩漬けにして放りっぱなしにしている。つまり、北村牧師の件では司法判断に頼れないということ、合同のとらえ直しで言えば「名称変更案」が「審議未了廃案」となったに過ぎない!のに、である。

空白の10年の間に出てきた多くの諸問題

〇10年前に、教団内で何が起きたのかを知らない世代の牧師、伝道師も生まれている。この人たちが「空白の10年」の「被害者」ではないのかと言えば、そんなことは全くない。教師検定試験で、教会現場で……と、様々なハラスメントが噴出したこの10年間でもあったと言える。
〇「負担金未納」でありながら「宣教委員長」や「教師検定委員長」の席にふんぞり返り、総会時の常議員選挙の際に、「全数連記」で口を封じられている私たちの納めた負担金を用いて「教憲・教規を守れ」と叫ぶ異様な光景が日常化したのだ。
〇こんなことでは、教会現場が委縮し、教勢も減少し、献金・負担金にも影響するのは当然である。

殊に深刻、危機状況にある出版局の現状と伝道

〇そのため日本基督教団はこの秋の教団総会で負担金を減らすための、大規模な「機構改定」を決議しようとしている。
〇2月3~4日に行われた常議員会で一番深刻だったのは、出版局理事会報告である。
〇出版不況と言われるが、過去5年間続いた赤字は特に深刻で、直近の2018年度に約3,800万円、2019年度に更に1,700万円の単年度赤字決算を出したほかに、何と3億円分もの在庫を抱えてしまっている。
〇これまで繰り返し標的として煽り立ててきた『讃美歌21』元凶説には全く根拠がなく、むしろ賛美歌・音楽部門だけが好調!ということも明らかになった。
〇このため新藤出版局長が7月末で辞任。第41総会期監査委員会からは12月5日付けで、「緊急意見」が出され、出版局直近の現金残高で抵当設定条件とされている「銀行借入残」3,400万円を割り込み、レッドゾーンに入っていることが指摘された。
〇民間なら「倒産」というところだが、かろうじてそれを免れているのは、同じ「日本基督教団」名で積み立てられている年金資産があるおかげである。
〇万一倒産にでもなったら、この年金資産に赤紙が張られかねないのである。
〇思い出してもいただきたい。この10年間、全数連記で教団の出版局のヘゲモニーを握った人たちが何をしてきたか。
〇「信徒の友」誌や単行本の執筆者に対して「違法聖餐」を口実に検閲まがいの攻撃を繰り返し、編集部を委縮させてしまった。
〇かつて「信徒の友」誌では三浦綾子の『塩狩峠』を連載し、教団に連なるほぼすべての家庭に1冊と言われたほど広く読まれた時期もあった。荻窪教会で長年長老を務められた高見澤潤子さんが長年編集委員長でもあった。
〇ちなみに、『塩狩峠』の連載は、宗教界で評判になったという点で、創価学会の横山光輝『三国志』連載と並ぶ宗教界の「伝説的」連載!と言えるものであった。
〇そうした一時期には、カトリックの『あけほの』誌や福音派の『百万人の福音』誌まで含めても、キリスト教界最大の購読者数を誇った時期もあった!
〇そうした「信徒の友」さえも、現在は内容の陳腐化で部数が大幅減となってしまっている。
〇最近の「信徒の友」誌で言えば、各教区から選ばれた2つの「祈りに覚える教会」が挙げられ、集中的に祈り支援するという、どうしようもない企画も始まった。
〇たった「2教会」に推薦教会を絞ることの困難さを訴える声が各教区から噴出している(京都教区から反対の「意見表明」も出された)。こうした形で「伝道」が「熱く」推進されると考える方がどうかしている。
〇常議員会や教団レベルで考えるべきなのは、もっと巨視的な視点、構造的格差問題に対する方策であるべきなのである。根本的に何も考えず、何も見ようとしていないで、おざなりに「伝道」を振りかざし続けているところにも、現場から挙がっている声に一切耳を傾ける姿勢が感じられない。「一に伝道、二に伝道……」、「青年伝道決議」、「伝道に熱くなる」……等と豪語したところで内実がついていかない。
〇自称「教団改革勢力」を豪語し、「全数連記」選挙で議席をとってきたグループである「日本基督教団福音主義教会連合」紙の新年号、第511号(2020年1月刊)巻頭の長山信夫牧師(安藤記念教会)の説教が、まるで「敗北宣言」じゃないかと巷では話題になっている。
〇説教では次のように書かれている(要旨)。
〇「今年4月28日に福音主義教会連合は創立43周年記念日を迎える。3年前40周年であったことになるが、その年、誰も記念集会を持とうと提案しなかった。荒野の40年を経ても約束の地に到達することはなかったのである。一見正常化しているかに見える日本基督教団であるが、信仰告白によって一致しているはずの我々の中に分裂が生じ、同志的結合が薄れてしまった。ワンチームはラグビーの世界のこととなってしまっている。教勢の衰退が叫ばれて久しい。かつては造反のせいにしていたが、会議の正常化が成った今も低落傾向を止めることが出来ない」。
〇なるほどここ数年の同紙の「献金感謝報告」を見ると、かつては2頁にわたって、びっしりと並んでいた献金者、献金教会名が4分の1頁にも満たないスカスカのものになり果てており、特に教会からの献金が激減していることが分かる。
〇結局、今年10月の教区総会までには、教団総会議員と常議員の半数削減案でお茶を濁すという、まことにお粗末な結末となりそうだ。
〇「教団ジャーナル 風」紙に載せられた大阪教区選出議員の述べていた通り「本気度が見透かされてしまう」と批判されても仕方ない。

この出版局と伝道の危機の「空白の10年間」をこの秋で終え、教団は今度こそ「平和を尋ね求め、追い求め(詩編34・15)」る群れとならなければならない。

<2020年2月2日創立記念日礼拝・説教要旨>

<2020年2月2日創立記念日礼拝・説教要旨>
わたしがあなたを選んだ
聖書
ハガイ書2:20〜23
マタイによる福音書1:12〜17

小海 基

<メッセージ>

 1933(昭和8)年2月5日に創立された私たち荻窪教会の創立記念日礼拝の本日、旧約聖書の連続講解説教の一環としてハガイ書の終わり部分を読みました。

最後の部分が異様な終わり方となっているマルコとハガイ

 旧新約聖書66巻の中で、最後の部分、終わり方があまりに突然で異様なため、一体何が起こったのだろうと訝しく思わざるを得ない書物が少なくとも2つあります。
 1つがマルコによる福音書です。ご存知のようにマルコは16章8節でこう終わります。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。……そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
 ここには復活も出てきません。9節以下に復活の記事がありますが、これは明らかに後世になって付け加えられたもので最古の写本には出てきません。そのため脱簡説つまり初期段階で一部が失われたという説や、教会当局に不都合なことが書かれていたために破り棄てられたという説が出たりしました。
 しかし現在では荒井献(あらい・ささぐ)先生以来、世界中でほぼ定説化しつつありますが、この終わり方はマルコの記者の最初からの意図であり、読者はマルコの出だしに戻り、循環して思い巡らす効果を挙げるためにマルコは敢えてこのように終えたのだというのです。
 もう1つがハガイ書の最後です。新共同訳では翻訳の仕方のため緊迫感や異様さが余り伝わってきません。ここの預言はハガイにとって4番目の預言ですが、これまでの3つの預言と違って、4番目の預言は「同じ日の24日」つまり10節からの預言と同じ日だということです。それなら前の預言とひと続きで良いのではとも思うのですが、この最後の預言はとても一つには出来ない相当違った性格をもつものです。
 10〜19節は改めて心に刻むような励ましと祝福に満ちたものでしたが、20節からは突然激しい口調に変わるのです。さらに最後の23節は新共同訳では「万軍の主は言われる」「主は言われる」「万軍の主は言われる」とおとなしい訳になっていますが、岩波訳やフランチェスコ会訳では「万軍のヤハウェの言葉」「ヤハウェの言葉」「万軍のヤハウェの言葉」と名詞止めが念を押すように、短いところで繰り返される異様な文体で訳されています。
 預言者ハガイが神様の言葉をひとつずつ取り継いでいるこの預言は「自分が」でなく「ヤハウェ、神様からなのだ」と言い訳をしながら、ぶるぶると体を震わせながら預言している感じなのです。
 ハガイによるこの部分の預言は次のゼカリヤに引き継がれますが、ゼカリヤ書の第一声、冒頭は「ダレイオス第2年の8月」つまり一カ月前にさかのぼります。
 ということは、ハガイとゼカリヤは預言者として1カ月ダブっているわけです。しかしながら不思議なことに、ハガイ書のどこにもゼカリヤの名が出てこないし、ゼカリヤ書のどこにもハガイの名が出てこないのです。これも実に異様な不思議な話です。二人の間に一体何があったのでしょうか。

ハガイ書の最後はゼルバベルに告げるものだった

 ハガイ書の最後の預言は「ユダの総督ゼルバベル」に告げるものでした。乱暴で政治的な内容であり、聴いたユダヤの民ならともかく、エズラ記4章11~16節にあったようなペルシャ帝国への反逆の進言の確かな証拠にもなりかねない預言です。
 エズラ記では、アルタクセルクセス王宛に、神殿が再建されると王に次々と損害を与えることになるに相違ないという告発状を送っていました。
 しかしハガイは2章21節b~22節で「わたしは天と地を揺り動かす。わたしは国々の王座を倒し異邦の国々の力を砕く。馬を駆る者もろとも戦車を覆す。馬も、馬を駆る者も互いに味方の剣にかかって倒れる」と述べ、結びの23節で主の名を3回も繰り返して突然ハガイ書が終わり、その後、何も記録がなされていません。
 また、なぜ同時代、同時期に同じ場所で同じような内容の預言をしながらゼカリヤはハガイの名を口にしなかったのでしょうか。この理由については諸説ありますが、旧約学者は、ハガイは抹殺、処刑されたのであろうと言います。ゼルバベルもそうです。この説に従えば、ハガイが実質4カ月しか預言しなかった理由もこれで理解できます。

選ばれたゼルバベルの役割は系図をつなぐことだった

 今日はハガイ書と併せてマタイによる福音書1章12節以下の系図の部分を読みました。ハガイ書の最後の預言が告げられたゼルバベルは、ユダの王ヨヤキン(エコンヤ)の2代あと、つまり孫であったことをマタイ1章12節は伝えています。ユダの王ヨヤキン(エコンヤ)については、列王記下25章27節以下に次のように記されています。「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって37年目の月の27日に、バビロンの王エビル・メロダクはその即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。」
 預言者ハガイは、北イスラエル、サマリヤを神殿再建から除外させ、敵に回し、そして、このハガイ書の結びの激しい預言ではイスラエルの「独立」さえも示唆しました。ペルシャ全土が政治的に混乱しているこの時に乗じて、今がチャンスだと、神は言われるわけです。しかし歴史はそれを許しませんでした。恐らく旧約学者が推測する通り、ゼルバベルもハガイも、殺されたか処刑されるわけです。
 ハガイの後を継ぐゼカリヤの預言はハガイと違って幻を見ることです。その幻については来週以降、飛び飛びに読み進むことになります。
 「わたし(神)があなたを選んだ」(2・23)という神様の声にゼルバベルはペルシャ王の政権によって「総督」にも任じられましたが、ダビデ王朝の復興という形では役割を果たせませんでした。しかしそれは失敗だったのでしょうか。
 決して失敗ではありませんでした。マタイの系図が告げるのは、ゼルバベルという人は、本人がそう自覚していたかどうかは分かりませんが、「系図をつないだ人」だということであり、そしてその系図、血筋こそが救い主イエス・キリストにつながるのです。
 私たちも、「わたしがあなたを選んだ」という神様の声を聴く一人一人です。確かなのは、神の業に参与する一人一人として選ばれているということです。このことを忘れず歩んで参りましょう。

【緊急・重要】コロナウイルスへの荻窪教会の対応

                            2020年4月8日

        【緊急・重要】コロナウイルスへの荻窪教会の対応
                               荻窪教会 役員会
 
 感染の拡大がさらに深刻化し、4月7日に「緊急事態宣言」も出されました。そのことを踏まえて、教会は「緊急事態宣言」が解除されるまで、集まる形での礼拝及び諸集会を行わないこととします。毎週、小説教をはがきで郵送しますので、各自、自宅で祈り、礼拝してください。どうぞご理解ください。
 
 教会の礼拝や活動、交わりに支障が生じますが、今は終息を待って、再び一緒に集まっての礼拝と活動を行うため、それぞれの場で、お互いの健康と安全を祈り合っていきたいと思います。社会で起こっている感染者差別を防ぎ、感染者や家族の心に寄り添い、牧会に努めてまいりましょう。

 5月6日(予定)の「緊急事態宣言」が解除された後の礼拝再開に関しては、教会員連絡網、小説教(はがき版)にて告知します。
 

<2019年秋の伝道礼拝> 第3回(11月24日)説教要旨

<2019年秋の伝道礼拝>
第3回(11月24日)説教要旨
新しく生まれる
創世記 11:1~9  エフェソの信徒への手紙 2:14~22
荻窪教会副牧師  龍口 奈里子

<メッセージ>

 イスラエルが占領下に置くパレスチナ暫定自治区には450キロにも及ぶ21世紀最大の壁があります。また聖書の時代のエルサレム神殿には、ユダヤ人と異邦人を仕切る数十センチの壁があったようです。エフェソは異邦人が多い場所で、エフェソの教会にはユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者もいました。かつてはそれぞれ信仰する神は違ったけれども今は同じ主イエスを信じ、兄弟姉妹として一つの教会で共に礼拝を守っていました。しかしいまだに「一つ」にはなれない、見えない「隔ての壁」「溝」がありました。
 ユダヤ人たちには最初から「神の民」とされてきたという自負があり、異邦人が福音を信じて教会に入ってくるならば、モーセの慣習に従って身を清めるとか割礼を受けるなどの条件付きでなければならない、としていました。パウロは「隔ての壁」を取り壊したのは律法ではなく、主イエスご自身であり、ユダヤ人にならなければ救われないと異邦人に言うならば、それは主イエスの福音に反するものだと言うのです。
 13節の「キリスト・イエスにおいて造られた」の「おいて」というのは英語で言うとイン、つまりキリストを信じるとはキリストの中に入るということです。また「御自分において一人の新しい人に造り上げる」の「おいて」もインです。人種や性別や身分や性格がどんなに違っても、私たちは主イエスの十字架によって「新しく生まれ」「一つの体」の中に入れられ、キリストにあって一つとされ、互いの「隔ての壁」を取り壊して、平和を作ってゆきます。
 しかし私たちの教会が、そのようにして「隔ての壁」を取り壊しているでしょうか?17節で、キリストが再びおいでになるとき「遠く離れているあなた方」にも「近くにいる人々」にも、「平和の福音が告げ知らされる」とパウロは述べます。遠くにいるクリスチャンではない人々から、あるいはもはやキリストを信じないであろうと私たちが思い込んでいる人たちから、福音はまず最初に伝えられ、遠くに離れていると思われた人たちの方が、永遠の命の希望にあずかることがあるということではないでしょうか。
 
 先日NHKの番組で、東洋英和女学院の校長だったハミルトン宣教師のドキュメントがありました。戦前日本で教鞭をとり校長になったミス・ハミルトンは、太平洋戦争の勃発により敵性外国人として日本で収容され監視され、そして帰国を余儀なくされました。カナダに帰国後、収容所に強制的に移住させられた日系カナダ人の教育の為に立ち上がり、高校開校のための資金や教師の要請を強く政府に要望しました。ハミルトンは、カナダでも日本でも、どちらの国の間でも「壁」の間にありましたが、両方の差別を体感する中で、平和を創りだす支援をやめることはなかったのです。「良き隣人となる」というイエスの教えをいつも学びながら、日々新たにされてその生涯を終えたのです。
 
 旧約聖書のバベルの塔の出来事は、一つの民、一つの言語、一つの文化にこだわって、かたくなであったユダヤ人に対して、神が「罰」を与え、言葉を混乱させ、民はみな全地に散らされたという物語です。しかしそれは単なる神の罰ではなく、全地に広がった民がまたさらに自分たちの信仰や文化を広げてゆき「新しい人」へと造りかえられていったことを表わしている物語でもあります。最初は混乱するけれども、多くの言葉や民族によって、互いに「壁」を取り壊して認め合う、そのような「新しい人」となることを、神様の祝福として伝えている物語なのだと思います。混乱から多様性を生んでいく、それが私たちの信仰であり、そのような人たちが集う場所が私たちの教会なのです。