2022年 クリスマス・メッセージ 新しい歌を主に向かって歌え

2022年クリスマス・メッセージ(荻窪教会副牧師  龍口奈里子)
新しい歌を主に向かって歌え

<聖書>
新しい歌を主に向かってうたい 美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
(詩編33篇3節)

<メッセージ>
クリスマスおめでとうございます。教会暦ではすでにアドヴェントから新年に入りましたが、日本の暦では来週の日曜日が元旦となり、まさに新しい年を迎えます。
コヘレトの言葉に「かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こり、太陽の下、新しいものは何一つない」(1章9節)とありますが、たしかに私たちは時代の流行には目を留め、「目新しい」ものには飛びつきますが、本当の「新しさ」には心を留めないのかもしれません。
しかし今日、み子イエス・キリストの誕生を共にお祝いし、クリスマスを迎えて、私たちはこの幼な子の小さな命によって、永遠の命に生かされている存在であることを想起させられ、新しい思いと希望をもって、ここから押し出されてゆくのです。

2022年、私たちの教会は新しいオルガンを与えられました。このオルガンの制作者であるアンドレア・ゼーニ氏をお迎えして夏に修養会を持ちましたが、その中でゼーニ氏はオルガンの「音」について説明されました。オルガンはたくさん並んだパイプが完成しても音は出ない。小さな空気孔を一本一本のパイプに施した時、初めて「音」が鳴るのだと。その音色は男声的な音色、女声的な音色など様々な音色の違いが交ざりあって1つの曲となる「音」を作り上げることができると教えられました。それはまるで礼拝で賛美する私たちの「声」のようであり、教会の姿そのものであると心から感じることができました。
その「声」はいつも私たちを励ましたり、喜びにあふれたものとしてくれます。

詩編の作者が賛美の歌を「新しい歌」というのもそこにあります。詩編の作者は人々の神への信仰の証しとして新しい歌を歌い続けてきました。それらは決して「目新しい」過ぎ去ってゆく「歌」ではなく「主に向かって」歌われる「新しい歌」なのでした。
ルターは3節の言葉から「音楽は神から与えられたもっとも美しくすばらしい贈り物のひとつ」であると言っています。
新しい年、私たちも主に向かって「喜びの叫びをあげ」このオルガンと共に主を賛美していきたいと思います。一人一人の「声」がひとつの「歌」となって響きわたるよう賛美し続けていきましょう。

<荻窪教会コンサートのお誘い>バッハから現代まで ~オルガンと弦の響き

荻窪教会では教会メンバーによるコンサートを特別企画いたしました。

ヴァイオリンとオルガン、そしてギターの美しいアンサンブルをゆったりとお楽しみください。爽やかな秋の午後、皆様のお越しをお待ちしています。

♪日時 :  2013年10月20日 (日) 午後1時より
♪会場 :  日本基督教団 荻窪教会 礼拝堂
167-0051 杉並区荻窪4-2-10 Tel: 03-3398-2104

♪入場料 : 無料
♪曲目 :   J.S .バッハ  ソナタト長調 BWV1021
J.S. バッハ 2つのヴァイオリンのためのコンチェルト BWV1043
J.S. バッハ シチリアーノ
G.フォーレ シシリエンヌ
ロンドンデリーの歌 / アイルランド民謡  東大路憲太編曲
F.ハンド  感謝祭の聖歌    他

 <出演>

東大路 佳子  ヴァイオリン
東大路 憲太  ギター,  ヴァイオリン
黒川 和枝   オルガン

<2012年秋の伝道礼拝>第3回 「行く先を知らないで」

荻窪教会牧師 小海 基 先生

創世記12:1~4
ヘブライ人への手紙11:8

 今年の秋の伝道月間のテーマは「私たちの行く先」です。ヘブライ人への手紙11章は小見出しに「信仰」とあるように信仰の系譜を語る個所ですが、最初の人間アダムでなくアダムの息子アベルから語り始めています。
さらに言えば新約聖書冒頭のマタイによる福音書のイエスに至るまでの系譜の最初がアブラハムです。ということは信仰、信念、ポリシーを持つことは生まれながらの行為ではなく闘いであり、冒険なのです。聖書の信仰の出発点はアブラハムであり、彼が信仰の世界に出発したのは実に75歳の高齢で、「行く先を知らないで」神様にすべてを委ねて出発したのです。

この会堂の建築工事中に建築設計者から聞いてとても意外だった話があります。設計者が最も夢を持って力を入れて取り組む対象が、昔は宗教建築だったが、近年は美術館だというのです。
つまり人間が折々に深い何かと対話をしたり瞑想する場所が、教会など宗教施設でなく、美術館になっているということです。キリスト教のライバルが他宗教でなく美術館ということで、牧師としてはショッキングな話でした。

ところで2006年9月17日に、とても印象的な大事件とも言うべきことが起きていました。石田徹也という2005年5月23日に町田市の小田急線踏切事故のため31歳の若さでこの世を去った画家のことが、当時のNHK教育テレビ「新日曜美術館」で放映されたのです。当時は朝夜の2回放映されていました。朝の放映が終るや否やその番組史上なかったほどの反響が寄せられ、さらにネットのオンライン書店アマゾンで画集『石田徹也遺作集』が売上総合1位になりました。特別の仕掛け人がいたわけでもなく、口コミで広がったわけです。

私がその番組を見たのは同じ年の12月24日つまりクリスマスイヴの夜の再々放送でした。その時の放映は世間一般の浮わついたクリスマスイヴを吹き飛ばすほどの強いインパクトを与えました。番組内容は亡くなった石田徹也という無名画家がアパートに残していた作品を三つの画廊で遺作展として開き、大きな反響を呼んだというドキュメンタリーでした。

石田の絵は大抵、四角い枠に取り囲まれ、その中に自分の姿が描き込まれ、その視線はうつろです。絵を見た者は自分の姿を突きつけられているように受け止めるのでしょう。画廊に置かれたノートには通常では考えられないほど、若者ばかりか高齢者の感想も書き込まれていました。

「石田さん一人で背負い過ぎた大きな運命を思うと悲しくなってしまう」。「いつも作品集を見て夜泣いています。私がたくさんいると思うから」。「60歳の私にとっては気持ちのおき場所にこまりました。今の世の中のせつなさがそのまま描かれているように思いました」。「ルーヴル美術館級の作品より彼の作品の方がどんなに感動したか」といった具合です。

石田の絵が「行く先が分からない」現代の孤独を叫ぶ深みを持っているとするなら、聖書は「行く先を知らないで」と「で」の一文字が加わっています。これは非常に大きな意味を持っています。行く先を知らないけれども、委ねる先があって出発するという希望を示す「で」だからです。

創世記では神様が備えたエデンの園から追われて離れたあと、再び神様から示される「約束の地」へ高齢のアブラハムが出発したことを伝えています。神様に委ねて信仰の冒険へと向かうべきところがあることを聖書は私たちに語っているのです。