<2020年2月2日創立記念日礼拝・説教要旨>

<2020年2月2日創立記念日礼拝・説教要旨>
わたしがあなたを選んだ
聖書
ハガイ書2:20〜23
マタイによる福音書1:12〜17

小海 基

<メッセージ>

 1933(昭和8)年2月5日に創立された私たち荻窪教会の創立記念日礼拝の本日、旧約聖書の連続講解説教の一環としてハガイ書の終わり部分を読みました。

最後の部分が異様な終わり方となっているマルコとハガイ

 旧新約聖書66巻の中で、最後の部分、終わり方があまりに突然で異様なため、一体何が起こったのだろうと訝しく思わざるを得ない書物が少なくとも2つあります。
 1つがマルコによる福音書です。ご存知のようにマルコは16章8節でこう終わります。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。……そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
 ここには復活も出てきません。9節以下に復活の記事がありますが、これは明らかに後世になって付け加えられたもので最古の写本には出てきません。そのため脱簡説つまり初期段階で一部が失われたという説や、教会当局に不都合なことが書かれていたために破り棄てられたという説が出たりしました。
 しかし現在では荒井献(あらい・ささぐ)先生以来、世界中でほぼ定説化しつつありますが、この終わり方はマルコの記者の最初からの意図であり、読者はマルコの出だしに戻り、循環して思い巡らす効果を挙げるためにマルコは敢えてこのように終えたのだというのです。
 もう1つがハガイ書の最後です。新共同訳では翻訳の仕方のため緊迫感や異様さが余り伝わってきません。ここの預言はハガイにとって4番目の預言ですが、これまでの3つの預言と違って、4番目の預言は「同じ日の24日」つまり10節からの預言と同じ日だということです。それなら前の預言とひと続きで良いのではとも思うのですが、この最後の預言はとても一つには出来ない相当違った性格をもつものです。
 10〜19節は改めて心に刻むような励ましと祝福に満ちたものでしたが、20節からは突然激しい口調に変わるのです。さらに最後の23節は新共同訳では「万軍の主は言われる」「主は言われる」「万軍の主は言われる」とおとなしい訳になっていますが、岩波訳やフランチェスコ会訳では「万軍のヤハウェの言葉」「ヤハウェの言葉」「万軍のヤハウェの言葉」と名詞止めが念を押すように、短いところで繰り返される異様な文体で訳されています。
 預言者ハガイが神様の言葉をひとつずつ取り継いでいるこの預言は「自分が」でなく「ヤハウェ、神様からなのだ」と言い訳をしながら、ぶるぶると体を震わせながら預言している感じなのです。
 ハガイによるこの部分の預言は次のゼカリヤに引き継がれますが、ゼカリヤ書の第一声、冒頭は「ダレイオス第2年の8月」つまり一カ月前にさかのぼります。
 ということは、ハガイとゼカリヤは預言者として1カ月ダブっているわけです。しかしながら不思議なことに、ハガイ書のどこにもゼカリヤの名が出てこないし、ゼカリヤ書のどこにもハガイの名が出てこないのです。これも実に異様な不思議な話です。二人の間に一体何があったのでしょうか。

ハガイ書の最後はゼルバベルに告げるものだった

 ハガイ書の最後の預言は「ユダの総督ゼルバベル」に告げるものでした。乱暴で政治的な内容であり、聴いたユダヤの民ならともかく、エズラ記4章11~16節にあったようなペルシャ帝国への反逆の進言の確かな証拠にもなりかねない預言です。
 エズラ記では、アルタクセルクセス王宛に、神殿が再建されると王に次々と損害を与えることになるに相違ないという告発状を送っていました。
 しかしハガイは2章21節b~22節で「わたしは天と地を揺り動かす。わたしは国々の王座を倒し異邦の国々の力を砕く。馬を駆る者もろとも戦車を覆す。馬も、馬を駆る者も互いに味方の剣にかかって倒れる」と述べ、結びの23節で主の名を3回も繰り返して突然ハガイ書が終わり、その後、何も記録がなされていません。
 また、なぜ同時代、同時期に同じ場所で同じような内容の預言をしながらゼカリヤはハガイの名を口にしなかったのでしょうか。この理由については諸説ありますが、旧約学者は、ハガイは抹殺、処刑されたのであろうと言います。ゼルバベルもそうです。この説に従えば、ハガイが実質4カ月しか預言しなかった理由もこれで理解できます。

選ばれたゼルバベルの役割は系図をつなぐことだった

 今日はハガイ書と併せてマタイによる福音書1章12節以下の系図の部分を読みました。ハガイ書の最後の預言が告げられたゼルバベルは、ユダの王ヨヤキン(エコンヤ)の2代あと、つまり孫であったことをマタイ1章12節は伝えています。ユダの王ヨヤキン(エコンヤ)については、列王記下25章27節以下に次のように記されています。「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって37年目の月の27日に、バビロンの王エビル・メロダクはその即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。」
 預言者ハガイは、北イスラエル、サマリヤを神殿再建から除外させ、敵に回し、そして、このハガイ書の結びの激しい預言ではイスラエルの「独立」さえも示唆しました。ペルシャ全土が政治的に混乱しているこの時に乗じて、今がチャンスだと、神は言われるわけです。しかし歴史はそれを許しませんでした。恐らく旧約学者が推測する通り、ゼルバベルもハガイも、殺されたか処刑されるわけです。
 ハガイの後を継ぐゼカリヤの預言はハガイと違って幻を見ることです。その幻については来週以降、飛び飛びに読み進むことになります。
 「わたし(神)があなたを選んだ」(2・23)という神様の声にゼルバベルはペルシャ王の政権によって「総督」にも任じられましたが、ダビデ王朝の復興という形では役割を果たせませんでした。しかしそれは失敗だったのでしょうか。
 決して失敗ではありませんでした。マタイの系図が告げるのは、ゼルバベルという人は、本人がそう自覚していたかどうかは分かりませんが、「系図をつないだ人」だということであり、そしてその系図、血筋こそが救い主イエス・キリストにつながるのです。
 私たちも、「わたしがあなたを選んだ」という神様の声を聴く一人一人です。確かなのは、神の業に参与する一人一人として選ばれているということです。このことを忘れず歩んで参りましょう。