11月4日(月)、コンサート(入場無料)が開催されます。

コンサート
BACH オルガン演奏による平均律クラヴィーア曲集Ⅱ(前半)
午後5時30分会場、午後6時開演
入場無料

オルガン:小沢さち
桐朋学園大学演奏学科ピアノ専攻卒業。弦学科伴奏研究員修了。
故江戸弘子氏、ラントシュ・イシュトヴァン氏に師事。
全日本学生音楽コンクール東日本大会3位入賞。NHKフレッシュ・コンサート出演。
府中市民講座にてオルガンを学び、その後、数々の学習会に参加。
東京ジングフェライエン専属ピアニストとして、主に宗教曲の合唱伴奏、
またバッハ平均律全曲演奏Ⅰ、リストの祈りシリーズ等の宗教曲分野でも好評を得ている。
伴奏、デュオ、室内楽、ソリストとして幅広く活動している。
桐朋学園大学付属音楽教室諏訪教室講師。

2014年1月26日(日)12時30分から、荻窪教会でミニバザーを開催します。

日本キリスト教団 荻窪教会
ミニバザーのごあんない

日 時: 2014年 1 月26日 (日)
        12時30分~14時30分

会 場: 日本キリスト教団 荻窪教会
            杉並区荻窪 4 -2 -10
            電話:03-3398-2104

内 容: 
食 堂: ドライカレー(サラダ・スープ付き) 500円
   ○持ち帰り弁当(400円)も用意されています。

手作りケーキ・クッキー、自家製惣菜、各種パン、缶詰などの食料品
ホット・コーヒー、ジュースなど飲物も充実

子供服・衣類《新品、中古品(クリーニング済)》    
雑貨、タオル、バック類、装飾品などなど、どれもお買い得ばかり!
     
○駐車場がありません。お車でのご来場はご遠慮ください。
○ご家族、友だちを誘ってお出かけください。

主催:日本キリスト教団荻窪教会/牧師:小海基・龍口奈里子

荻窪音楽祭期間中(11月9日(土))、荻窪教会でもコンサート(無料)が開かれます。

以下の通り、荻窪音楽祭の期間中に、荻窪教会でガラコンサートが開催されます。どなたでも、ご自由にお立ち寄りください。入場料無料です。
会場:日本キリスト教団 荻窪教会
タイトル:ガラコンサート
日時:11月9日(土) 第1部 13:30~14:35(開場13:00) 第2部14:50~16:10
定員:90人
演奏者・曲目:
第1部
オカリナアンサンブル〔Soala〕青木ひろみ(Oca)、服部いずみ(Oca)、宇多田久子(Oca):J.シュトラウスⅡ&ヨーゼフ・シュトラウス:ピッツィカート・ポルカ、ほか
混声四重唱〔リドしおん〕飯塚恵子(Sop)、広川圭以子(Alt)、飯塚真司(Ten)、広川裕(Bas):C.ジャヌカン:ひばり、ほか
木管五重奏〔Les Machoire Quintette〕林峻人(Fl)、金山奈穂子(Ob)、藤田成美(Cl)、高橋成美(Hr)、山田智久(Bsn):M.ラヴェル/M.ジョーンズ編曲 組曲「クープランの墓」からⅠ、Ⅱ、Ⅳ
フルートアンサンブル〔ポムドール〕本田明徳(Fl)、吉藤裕子(Fl)、北村浩一(Alto Fl)、貝津みのり(Bass Fl)、北村佳恵(F-Bass Fl):W.A.モーツァルト セレナーデK.375より、ほか

休憩

第2部
池田まゆ子(Sop)、伊勢えみい(Org):F.メンデルスゾーン 「エリヤ」より『聞け、イスラエルよ、主のみ言葉』、ほか
兼氏規雄(Cl)、西内真紀(Vl)、柴貴子(Vla)、穴田貴也(Vc):W.A.モーツァルト ディヴェルティメントK.137、C.M.v.ウェーバー クラリネット五重奏曲変ロ長調op.34

10月14日(月) オルガン演奏による無料のコンサートを開催します。

BACH オルガン演奏による平均律クラヴィーア曲集Ⅰ(全曲)

2013年10月14日(月) 於:荻窪教会

午後5時30分開場、午後6時開演

入場無料

演奏者:小沢さち

桐朋学園大学演奏学科ピアノ専攻卒業。弦楽科伴奏研究員修了。故江戸弘子宇治、ラントシュ・イシュトヴァン氏に師事。全日本大学生音楽コンクール東日本大会3位入賞。NHKフレッシュコンサート出演。府中市民講座にてオルガンを学び、その後、数々の学習会に参加。投稿ジングフェライエン専属ピアニストとして、主に宗教曲の合唱伴奏、またバッハ平均律全曲演奏Ⅰ、リストの祈りシリーズ等の宗教曲分野でも好評を得ている。伴奏、デュオ、室内楽、ソリストとして幅広く活動している。桐朋学園大学付属音楽教室諏訪教室講師。

<荻窪教会コンサートのお誘い>バッハから現代まで ~オルガンと弦の響き

荻窪教会では教会メンバーによるコンサートを特別企画いたしました。

ヴァイオリンとオルガン、そしてギターの美しいアンサンブルをゆったりとお楽しみください。爽やかな秋の午後、皆様のお越しをお待ちしています。

♪日時 :  2013年10月20日 (日) 午後1時より
♪会場 :  日本基督教団 荻窪教会 礼拝堂
167-0051 杉並区荻窪4-2-10 Tel: 03-3398-2104

♪入場料 : 無料
♪曲目 :   J.S .バッハ  ソナタト長調 BWV1021
J.S. バッハ 2つのヴァイオリンのためのコンチェルト BWV1043
J.S. バッハ シチリアーノ
G.フォーレ シシリエンヌ
ロンドンデリーの歌 / アイルランド民謡  東大路憲太編曲
F.ハンド  感謝祭の聖歌    他

 <出演>

東大路 佳子  ヴァイオリン
東大路 憲太  ギター,  ヴァイオリン
黒川 和枝   オルガン

秋の伝道礼拝のご案内

荻窪教会では、春と秋に、伝道礼拝として、ゲストスピーカーを招いての礼拝などの企画を行っております。キリスト教にこれまで触れたご経験のない方でも、お気軽にお立ち寄りください。

10月の伝道礼拝の概要は以下のとおりです。

<2013年秋の伝道礼拝趣旨説明>

10月の伝道月間のテーマは「歴史」です。

聖書の信仰は「歴史」を土台に生まれています。はるか昔の神話の世界などではなく、私たちが息づく「歴史」のただ中で神の出来事が介入してきます。永遠と時間がクロスするところで救いの出来事が起こったことを語ります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)という「受肉」の出来事は、わたしたちの「歴史」のただ中で具体的に起こったのです。しかも聖書の語る「歴史」は循環的な物ではありません。はじめがあり、終わりがある、繰り返されることのない、ただ一回限りの一直線の歴史に、祈りに応えて神様が介入されるという物です。それは「運命」とか「宿命」といった私たちにはどうすることもできない縛りを意味せず、希望を意味します。私たち限られた生を生きるしかない人間が、この「歴史」という時間を超えた視点を持つということこそ、神の救いの視点を知る事であり、どんなこの世の現実によっても奪われたり押しつぶされたりすることの出来ない希望の視点を持つことなのです。

今回は宗教改革の故郷であるスイスで長く働かれ、現在東中野教会牧師として活躍しておられる鈴木重正先生をお迎えして、私たちの人生に介入してこられる「歴史」を導く神をテーマに、「聖書の語る言葉」に耳を傾けます。

また、特別集会として私たちの教会のメンバーである東大路佳子さんと黒川和枝さんのヴァイオリンとオルガンの演奏会もご期待ください。

「歴史」の行く先が混迷しているように見えるこの時代のただ中で、聖書の語る「行く先と方向」に目をとめて立ちどまってみませんか。

10月13日(日)10:30~ 説教題:「マイ ストーリー」 説教者:東中野教会牧師   鈴木 重正)

【説教者略歴】1948年兵庫県宝塚市生まれ。関西学院大学神学部を卒業後、武庫之荘教会、高槻教会、主恩教会(阪神大震災を経験)を牧し、1995~2001年スイス・プロテスタント教会ウスター教会協力牧師として活躍。帰国後、名古屋中央教会、佐賀教会を経て、現在東中野教会牧師。 この間日本基督教団 部落解放センター委員会書記、スイス委員会委員長、世界宣教委員などを担う。趣味は音楽 木工 写真 ハイキング・野外活動

10月20日(日)10:30~ 説教題:「ヒズ ストーリー」 説教者:荻窪教会副牧師    奈里子)

【説教者略歴】関西学院大学大学院終了後、塚口教会担任教師。1985年~ 東京女子大学キリスト教センター主事として勤務。1992年~ 当荻窪教会副牧師。

 

10月27日(日)10:30~ 説教題:「歴史を導く神」  説教者:荻窪教会牧師・小海 基

【説教者略歴】東北学院大学キリスト教学科、東京神学大学大学院修了、当荻窪教会牧師に就任。1989年~1991年イーデン神学校留学。農村伝道神学校講師。小諸いずみ会理事長。 「こどもさんびか」の作曲、「讃美歌21」編集。著書に「聖餐 イエスのいのちを生きる」(新教出版社 共著)、「牧師とは何か」(日本キリスト教団出版局 共著)などがある。

9月16日、午後4時から荻窪教会で「サガノー詩編歌演奏会」が開かれます(入場無料)

9月16日午後4時から荻窪教会で「サガノー詩編歌演奏会」が開かれます。山形の改革派教会で生まれた素朴な詩編歌の初演です。ソプラノ=西谷葉子、作曲とオルガン=山本弘史。入場無料。どなたでもおいでください。

主と共に歩む旅路<2013年春の伝道礼拝>第3回(5月26日)説教要旨

ウエスレー財団ディレクター 小海 光
創世記12:1~4
ヘブライ人への手紙11:1~3

<メッセージ>

私たちの人生は、思いもよらないことが多くあるものです。誰も自分の計画通りの人生を歩む人はありません。私は日本で神学校を卒業後、アメリカのボストンに渡り25年を過ごしました。始めは2年の学びの後帰るつもりでした。しかし、卒業証書に、夫もついて来て、アメリカに暮らし始めることになりました。夫は韓国人で、合同メソジスト教会の牧師になるところでした。夫の招聘先の4つの教会で子育てをしました。どこも片田舎の教会で、町に白人でないのは私たち家族だけでしたから、いつも興味津々にみられました。後に私自身も牧師となり、5教会併せて14年牧会をしました。

メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーはこんなことを言っています。「メソジストの牧師がいつも準備しておかなければならない事に2つある。いつでもどこでも説教できる事と、そして、どこへでも行く事です。」私たちも10回引っ越しをしました。正直家族をもっていると連れ合いのこと、子どもの学校のことで不安もあります。新しい教会と環境に慣れるのだろうかと、毎回不安で一杯でした。

そんな時いつも思い出されたのが、アブラハムとサラの旅立ちです。アブラハムはある日主より、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。」と言われ、主の言葉に従って旅立った。75歳であった。

よく決断したと思います。地理が今のようにわかっている状況ではないのですから、何がおこるかわからないのです。不安を持つのは当然です。でも、ヘブライ人への手紙の著者によれば、「信仰によってアブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(11章8節)。人生は旅です。そしてその歩みの途中には予想もしなかった喜びもあり悲しみもあります。

1番目の娘が生まれたとき初孫を父と母はどんなに喜ぶだろうかと思いました。しかし母が子宮がんにおかされていることを知らされたのです。待ちに待っていた孫がやっと与えられたのに、いったいどうしてと悲しみました。闘病中の母を少しでも元気づけるために、娘の写真をたくさん送りました。その娘が3歳になった時白血病と診断されました。それからの3年間は、抗がん剤治療で入退院を繰り返し、心も体もくたくたになる毎日でした。幼い娘の苦闘する姿を見るのは、母親として本当につらいことです。それにもまして悲しかったことは、治療中同士の母と娘がまた会える時があるだろうかと思うことでした。娘の治療中は日本を訪ねることができなかったのです。しかし、もう母がかなり弱って来ているのを知った時、神様は祈りを聞いてくださり、母と娘は1ヶ月を共に過ごしました。その間、母が命を孫に与えるかのように弱くなっていくかたわらで、娘は元気を取り戻していきました。母が天に召されたのは、私たちがアメリカに帰ってから3週間後でした。

私たちの人生は私たちの計画通りにはいかないのです。災害だって、人災だって起こります。だから明日の事を思うと不安になります。でも、私たちは主の与えられた約束を知っています。「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」主イエスキリストの愛はいつまでも私たちとともにいるという約束です。私たちと共にいます、という方が、私たちの人生の旅の終わりの一歩まで共に歩んでくださり、さらに死を超えて永遠の命の旅へと導いてくださるということを信じて、どこに行くかわからない旅に出るのです。それが信仰です。

それはいつも順調な歩みではないのです。時に深い悲しみのうちに、エマオへの道を旅した弟子達のように、主が傍らにいてくださる事が見えない事があります。時に主の御心がわからなくて、疑いと迷いと不満をいう荒野を旅するイスラエルの人々のようになる時もあります。主の声に従って水の上を歩き始めたけれども、急に風と波に怖くなって溺れかけるペテロのようになる時もあります。でも忘れてならない大切なことは、私たちには見えなくとも、神様は共に歩いておられます。私たちは行き先を知らずとも、神様は知っておられます。私たちはその方を知っており、信頼することができます。そこに喜びがあります。

ちょうど1年前、メソジスト教会のビショップから、日本に宣教師として行ってほしいという電話を貰いました。最初に口から出た言葉は、「それは無理です」でした。家族のことや、もうアメリカに25年もいて、今日本に帰っても私に何ができるだろうかという不安からでした。でもビショップは、日本に新しく建てられたウェスレーファウンデーションでミッション活動を通して、アメリカと日本をつなぐ働きをする人がぜひ必要なのだと言われました。1週間悩みのうちに祈りました。そして示された事は、25年目の召命という事でした。私が初めてアメリカに行ったのは25歳の時でした。それから25年経った時この召しを受けました。今では日本もアメリカも私のホームです。日本の教会もアメリカの教会も私の信仰の家族です。この時に主は私の名を呼んで、住み慣れた家を離れ、神様が示す新しい道を歩き出しなさいと言われていると確信しました。

神様が私たちに促す新しい旅の歩みとは、何も大きな人生の転機をさすだけではないのです。私たちは毎日主と共に歩き出す決心を促されています。自分の計画と知恵に頼って歩むのか、主のご計画と知恵に頼るのか、この世の富と人の評価を信頼するのか、主の約束の言葉を信頼して主の示される旅を歩み出す生き方が出来るのか。信仰による決断です。

最後にアメリカで愛されているゴスペル賛美歌を一つ紹介しましょう。

明日の事は私にはわからない/ただ1日1日を生きていく/太陽にもたよれない、雨になるかもしれないから/でも明日の事は心配しない/イエス様の言葉を知っているから/主に寄り添って歩いていこう/主がすべてをご存じだから/明日の事は私にはわからない/でもこの事だけは知っている/明日を握っているのは誰かと言うことを/そして私の手を握って下さる方が誰かということを。

主は今日もあなたと共に歩いておられます。感謝と共にその旅路が豊かな祝福のうちにありますようにと共に祈りましょう。

宿題の旅<2013年春の伝道礼拝>第2回(5月19日)説教要旨

荻窪教会副牧師 龍口奈里子
詩編 121:1~8
ヨハネによる福音書 21:1~14

<メッセージ>

 皆さんは、「さとり世代」と称される世代をご存じでしょうか。この世代は、「ゆとり世代」のあとの世代で、現在10代から20代半ばの人たちを指しています。彼らが生まれた時代というのは不景気の真っ只中で、頑張っても仕方がない、夢や目標を持つのは無駄だと、あきらめ気味に悟る姿から、「さとり世代」と名づけられたようです。

大学で若い世代と接している私が、このさとり世代に特徴的なことに気づいて、それを同僚に話してみると、同様に感じている方が多くて驚きました。一言で言えば、自分で出来る範囲の課題を先回りして無理なく失敗しないように対応するという生き方なのです。例えば今年の新入生はスマートフォン元年世代でもあり、ツイッターやフェイスブックを駆使して入学前から連絡を取り合う友だちが出来ていて入学式前に名前と顔が一致する友だちができている人が少なくありません。

また計画的で目標も持っています。講義に必要な参考書を事前に尋ねて来たり、入学したばかりの4月というのに、はやばやと、ボランティアや留学に関わる問い合わせを多く受けました。

しかし問題は、仮に大学の4年間がうまく過ごせたとしても、もっと長い卒業後の人生はそんな風にはいかないということです。それは人生という旅には「宿題」があるからです。人生の宿題となると、まず自分の宿題を自力で見つけることが出来ず、計画的に終わらせることも出来ません。なぜなら人生を積み重ねていくなかで新しい人や出来事に出会い、そのたびに新しい発見や変化があり、その次にまた新たな宿題が出てくるからです。私たちの人生は、いわば「宿題の旅」なのです。

本日の聖書のヨハネ21章に登場する主イエスの弟子たちは今日読んだ場面の3、4年前に初めて主イエスと強烈な出会いを経験し、第2の人生、旅が始まっていたのでした。不思議な力、オーラを持ったイエスに従っていけば、かつての漁師時代よりも自分の思い描く人生を歩めるかもしれないと思ってイエスとともに旅を続けていたのです。しかしイエスはその後逮捕され、十字架に架けられてしまい、弟子たちにとっては、それ以降の人生がひっくり返ってしまったのでした。

落胆の弟子たちに復活のイエスが3度現れます。弟子たちは3度目にようやく、それがイエスだと気づいたのでした。その時イエスは「何か食べる物があるか」(5節)と問い、元漁師であったペトロに網を打つ場所を教え、網を引き上げることが出来ないほどの魚がとれたのでした。

ペトロに初めて出会った時に、主から「ケファ」「岩」という名前まで与えられたシモン・ペトロでしたが、彼は何度も挫折や失敗を重ねてきていた弟子です。そうしたペトロに復活のイエスは、み言葉を伝え、人を漁ること、そして揺るがない土台の上に教会を建てなさいという命令、宿題を与えたのです。私たちの信仰生活でも似たようなことがあると思います。

私たちの人生も失敗と挫折の繰り返しです。そのたびに主は新しい宿題を与えられるのです。詩編121編の詩人は「主はあなたを見守る方」(5節)と歌っています。

私たちは、私たちに眼差しを向けて下さる方を見上げ、よろめきそうな足を主に向け、耳を主からの問いかけに向けて、託されている「宿題」に応えていけるよう、祈りながら人生の旅路を一歩一歩、歩んでいきたいと願います。

地図の無い旅<2013年春の伝道礼拝>第1回(5月12日)説教要旨

荻窪教会牧師   小海 基

 詩編119:18~19
ルカによる福音書10:30~37

 <メッセージ>

人生は「地図の無い旅」です。出かけないで引きこもっていれば安全で安心ですが、出かければ危険がある一方で素晴らしい恵みに出会うこともあります。ここで最大の問題は自分が人生という旅の正確な地図を持っているという思い込みです。

地図通り予定通りに目的地にたどりつけない時に、私たちは自分の不完全さを棚に上げて絶望し、行き詰まっているのが私たち人間の姿であることを忘れているということです。

人生には地図などあっても無いに等しいと考えて旅を楽しみ、思わぬ出会いを大切にできる旅があります。実は私たちが導かれている真実な旅は、そういうものです。

平時には気づきにくいことかもしれません。第二次世界大戦末期に強制絶滅収容所でピアノ線による絞首刑というむごい方法で処刑された神学者で牧師のディートリッヒ・ボンヘッファー(1906~1945)が残している言葉にハッとさせられます。

彼は神学的には天才であり、もし若い頃に自分が描いた人生の地図通りに歩いていたなら、師である神学者アドルフ・フォン・ハルナック(1851~1930)の愛弟子として国立ベルリン大学で大神学者になっていたことでしょう。しかし神様は彼の人生の地図を、ずたずたにされたのでした。彼は反ヒトラーの牧師の代表的存在として大学から追放され、説教壇から語ることも禁じられます。

米国の友人たちから米国への亡命を勧められますが帰国し、その後逮捕され、最終的にはヒトラー暗殺計画(ワルキューレ作戦)に加わった一人として処刑され、39歳の生涯を閉じるのです。何もかもが予定外の人生でした。

彼が残した黙想に詩編119編に関わるものがあります。119編はヘブライ語のアルファベットに合わせた日本流に言えばいろは歌のような詩で、聖書の中で一章の長さが最も長い詩です。彼はその19節の黙想で彼はアブラハムやヤコブの歩みを引用し、自分は地上で一人の旅人だと言っています。さらに18節について「神が私に示すものを見ようとする時、私は私の感覚の目を閉じなければならない。御言葉を私に見せようとなさる時、神は私の目を見えなくされる。目の見えない人の目を、神は開かれる。(中略)目の不自由な者のみが、開かれた目を求めて叫ぶ」と述べています。私たちはエリコの盲人バルティマイのように「見えるようになりたい」と叫び続けなければならないのです。

ルカによる福音書10章の「サマリア人のたとえ」も読みました。

『キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか』(モルデカイ・パルディール著松宮克昌訳)では、「サマリア人のたとえ」に突き動かされるようにして、あの時代にキリスト者がユダヤ人救済運動にどう関わったかの証言が記録されています。

「サマリア人のたとえ」が責任的応答、服従を促す大きな契機であったことをボンヘッファー自身も繰り返し語っています。

人生は地図の無い旅であり、手さぐり状態で導かれる旅なのです。地図が無くても導いて下さる方がおられ、見えなくても見えるようにして下さる方がおられるのだから、私たちは委ねて旅を進めることができるのです。