<2014年春の伝道礼拝>第1回(5月11日)「荒れ野に道を備えよ」
荻窪教会牧師 小海 基 先生
イザヤ書40:3〜8
マタイによる福音書 7:13~14
<メッセージ>
聖書の信仰で「道」は大きな意味を持っています。道が定まっていない砂漠地帯で生まれた旧約聖書、道が整備されて「すべての道はローマに通ず」と言われた新約聖書においても道は特別の意味を持つキーワードです。
聖書の語る歴史は循環的なものでなく、単なる地上の一本道でもなく救いの道、救い主を迎える道、真理へ至る道、永遠の命に至る道だと語るのです。マタイ7章の言う命への細い道です。
今日読んだイザヤ書40章は預言者イザヤのお弟子さんの預言の第一声、それも70年間のバビロニア捕囚で奴隷であった日々が終わる時に響いた第一声です。「荒れ野に道を備えよ」の個所はアドヴェントの季節によく読まれる個所ですが、今日は春の伝道礼拝のテーマ「道」に即して読みたいと思うのです。
この部分の解釈で、私が最も深い解釈と思うのは、D・ボンヘッファーがベルリンのテーゲル刑務所の獄中で書いた未完の『倫理』という最後の書物に出て来る解釈です。死が近い時にあって倫理についてどんなことを書くのかだけでも非常に興味深いところですが、彼はここで、〈究極のもの〉と〈究極以前のもの〉という非常に厳しい問いを考察するのです。
ボンヘッファーが生きていたような全体主義の中で真実のために殉教も決断しなければならない時代では何を捨てても〈究極のもの〉を追求するという急進的な考えと、命のために〈究極以前のもの〉に留まるかという妥協的生き方がまるで二者選択のように迫ってくる大きな問題であったわけです。
ボンヘッファーは「急進主義者は時間を憎み、妥協主義者は永遠を憎む。……急進主義は中庸を嫌い、妥協主義は測り知れないものを嫌う。急進主義は現実にあるものを嫌い、妥協主義は御言葉を嫌う」と言い、さらに「この対立から明らかになることは、両者の態度・生き方がいずれもキリストに反するものであり、対立的に考えられていることはキリストにおいては一つとなっているからである。あらゆる急進主義と妥協主義の彼方にある出会いをこのイザヤ書40章は語っている」と言うのです。またボンヘッファーは、道備えとは悔い改めなのだ。神様は私たちを人間的であるように造られたのに、私たちはなぜ逸れているのか。もう一度主を迎えるにふさわしい悔い改めを必要としていると言っています。
ボンヘッファーはこういうことをテーゲルの獄中でいつ死が襲いかかるか分からない30代の時にずっと考え、差し入れられたクッキーや葉巻の包み紙の裏にひたすら書き綴っていたのです。
〈究極的なもの〉が達成される日が必ず来ると思い願っているからこそ、〈究極以前のもの〉に責任を持っていく、それが私たちの道備えです。
子どもの説教で、谷川俊太郎の最新刊の絵本『かないくん』を読みました。
どんな人も自分がやがて一人で死を背負わなければならないと知っています。普段は考えなくとも死の問題はバトンタッチのようにリレーされてその問いは引き継がれています。この問題に実は聖書の語る救いが関わっているのです。死という別れが最後の言葉でなく命なのだと聖書は意外なことを語るのです。
人は皆、クリスチャンであろうとなかろうと狭い命に至る道を歩んでいます。だからこそ私たちは、教会の外にいる人たちと共に助け合いつつ、主を知っている私たちが〈究極以前のもの〉に責任を持って歩んでいかなければなりません。それが道を備えることになるのです。