<荻窪教会創立記念日礼拝>(2017年2月5日)説教要旨

<荻窪教会創立記念日礼拝>(2017年2月5日)説教
イザヤの励ましとヒゼキヤの祈り

列王記下19:1〜19
ペトロの手紙Ⅱ3:8〜13

小海  基

<メッセージ>
 北イスラエル19人、南ユダ王国のダビデ王朝24人、計43人の王の中で、本当によく祈った王はダビデ王とヒゼキヤ王です。ダビデ王の祈りは現在、詩編という形で残されており、いくつかは賛美歌として歌われています。美しい文学的な祈りです。
 一方ヒゼキヤ王の祈りはダビデより立派なものではなく荒っぽく本当に苦難の中でボロボロになっての祈りで決して整えられた理想的な祈りではありません。それだからこそ、現代の私たちの胸を打つ祈りです。却ってこのヒゼキヤ王は本当に預言者イザヤを通して神様を頼みとしていたのだなあ、超大国に揺さぶられる一人の無力な人間として、ただただ神様に委ねて祈ってきた人間なのだなあということがうかがえます。

 今日の礼拝は荻窪教会の創立記念日礼拝として捧げていますが、講解説教でこのヒゼキヤ王の祈りを、この日に読むことは大変意義深いことと思います。八十年を越えるこの教会の歴史の中で試練の時が何度もありました。
 先日、京都の洛陽教会を訪ねました。同教会は1890年(明治23年)の創立で、『一一〇年史』『一二五年史』の二冊の教会史を頂戴しましたが、歴史を担った人々が祈りを合わせてきたことがよく分かります。
 荻窪教会では、会堂建築の会計のことで大きな試練の時があり、マイナスからの再建に取り組んでいたその当時、全教会員が平日の同じ時間に祈りを合わせていたことが記録されています。私たち人間は無力だけれど、無力だからこそ神様に委ねて祈る、それが最も尊い祈りの本質です。

 ヒゼキヤはアッシリア軍のラブ・シャケの言葉を聞かされて衣を裂いてあられもない嘆きの言葉を預言者イザヤに伝えます。実は列王記に預言者イザヤの名前が登場するのはこの19章が初めてです。イザヤが預言者に召しだされて立ったのはウジヤ王の亡くなった時でした。それから南ユダ王国の王様で言えばヨタム、アハブといった2代が続きますが、イザヤに頼ろうとはしませんでした。
 しかしここに来てヒゼキヤ王はあられもないほど取り乱してイザヤに執り成しを求めるのです(19章3〜4節)。イザヤは励まします(同章6〜7節)。実際この通りに歴史は進みますが、この時点では誰もそんなことが起こるとは夢にも思っていないわけです。ラブ・シャケはアッシリアのセンナケリブ王と落ち合い、アッシリアのセンナケリブ王はクシュつまりエチオピアがエジプトと手を組んでアッシリアに歯向かおうとしていることに促され、早く南ユダを落として全面戦争をするのだとラブ・シャケを急かします。ラブ・シャケはここで再び激しく挑発します(10〜13節)。
 ヒゼキヤ王は自ら祈らざるを得なくなり、エルサレム神殿に出向き、手紙を主の前に広げ、ケルビムの前で祈ります。その祈りが15節から19節に記されています。
 「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください。」(19節)。主はイザヤを通して祈られたその祈りに応えて下さったのです。
ペトロの手紙Ⅱでは、一人も滅びないで皆が悔い改めるように神様が忍耐しておられることが記されています。主がつくっておられる歴史に私たちも立ち会っていることを改めて思います。(終)

<2016年秋の伝道礼拝>第3回(11月27日) 説教要旨

「他人は救ったのに自分を救えない神」

イザヤ書第53章3〜5節
マルコによる福音書第15章25〜32節

荻窪教会牧師  小海  基

<メッセージ>

秋の伝道月間のテーマは「逆説の神」です。聖書が予定調和、順説表現をあえてとらない時は、ひとひねりの表現でしか語り切れない特別な意味があると思うのです。
本日の説教題は十字架につけられた主イエスに投げつけられた侮辱の言葉です。先ほど
読んだマルコによる福音書が一番古い記録ですが、このことはマタイ(27章)、ルカ(23章)にも記録されています。いずれも注目されるのは、イエスがその侮辱の言葉を訂正されていないことです
ルカでは一緒に十字架にかけられた犯罪人の一人が「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と繰り返します。もう一人の犯罪人はたしなめて「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない」と告白します。「自分を救わない」でなく「救えないメシア」と侮るのです。

今日はアドベント第一礼拝でもあります。教会暦の色として紫色を用います。紫は悲しみの色であり、最近は赤色でなく、紫色のロウソクを用いるキリスト教国もあります。楽しいクリスマスというよりも、断食をするような思いでこの四週間を過ごすというクリスマスの迎え方が復興しつつあります。
それは「飼い葉桶と十字架」という言い方で表現されることですが、この救い主は神の座におられるのに、私たちを救うために地上に降りてこられ、生まれた最初の晩も、王宮のベッドではなく飼い葉桶に寝かされ、枕する所もない日々を送り、十字架という形(単に死んだのではなく政治犯として殺された)を通して罪深い私たちを救われた方だということをこのアドベントの四週間、深く心に刻みながら救い主の誕生日を待つべきだということなのです。
今日はマルコに加えてイザヤ書53章、苦難の僕(しもべ)の個所を一緒に読みました。まるで受難節に読むような個所です。私が神学生の時に二年間過ごした吉祥寺教会で竹森満佐一牧師はアドベントに入ると、このイザヤ書53章を説教で採り上げることをならいとされていました。先生は「ここは大変暗い話だが、神の前に苦難を使命として遣わされた僕としての救い主の姿が画かれている」と語られ、クリスマスを浮かれて迎えてはいけないと強く言われていました。
最も絶望の中にいる人こそが、主の十字架の出来事を最も身近に感じることが出来ます。そうした一人が、ヒトラーの暗殺計画に関わったことで捕えられ処刑されたボンヘッファーです。獄中で暗殺計画が失敗であったことを知らされたあとに彼が獄中で書いた文章は、ドイツばかりか世界中のキリスト者に衝撃を与えました。
彼は、マルコ15・34(エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ)、イザヤ書53章を踏まえて、「神の苦しみにあずかることが、キリスト者を作る。これが、悔改め(メタノイア)なのだ。それは自分自身の窮乏や問題、罪や不安を先ず考えることではなく、イエス・キリストの道に、イザヤ書53章が今成就されるというメシアの出来事に、自分がまきこまれることだ!」と書いています。
「自分は救えない」という形で、救い・希望・赦しを私たちに与える神の姿を聖書は伝えています。予定調和、順説の表現では言い表し得ない出来事、主イエスキリストの救いのメッセージを私たちが広く宣べ伝えていきたいと願います。

<2016年秋の伝道礼拝>第2回(11月20日) 説教要旨

「黙していられない神」
エレミヤ書第4章19節
マタイによる福音書第18章21〜35節

荻窪教会副牧師  龍口 奈里子

<メッセージ>
エレミヤの時代(紀元前6・7世紀頃)、イスラエルは政治的不正や異教の神々への祭儀が蔓延し、荒廃していました。エレミヤ書全52章は厳しい滅びの預言と希望の預言の両面が交互に語られているのが特色です。1-30章には神の怒りと裁きの言葉が、31-52章には神の痛みと悲しみの言葉が綴られています。
4章19節では滅びと希望という、相対する神の思いがとてもよく描かれています。「はらわたよ、はらわたよ」と2回続けています。「はらわた」というと、腹がたって怒りを堪えることが出来ない状態を「はらわたが煮えくり返る」と表現しますが、「はらわた」という言葉には別の意味もあります。ギリシャ語の「スプランクノン」は「内臓・はらわた」という言葉ですが、動詞にすると「スプランクニゾマイ」となります。31章20節「わたしは彼を憐れまずにはいられない」の「憐れむ」に「スプランクニゾマイ」が用いられています。腹の底から痛む・苦しむという意味です。
日本語にも、はらわたがちぎれるほど辛く悲しい思いを表す「断腸の思い」という言葉があります。4章27節で「わたしは滅ぼし尽くしはしない」と神は言われました。つまり神の怒りは「はらわたが煮えくり返る」というよりも「断腸の思い」という意味に近いのではないでしょうか。痛みを伴う赦し、「断腸の思い」で神は愛する民の罪を赦そうとされるのです。「はらわたよ、はらわたよ」と呼びかけて、もだえ苦しんでいる神の姿は、怒りではなく民を憐れみ苦しんでいる姿なのです。怒りながらも苦しむ神、裏切られようとも愛する神、悔い改めの心を待ち望みながらも一方的に赦す神、黙っていられない神、それが「スプランクニゾマイ・神の憐れみ」なのです。
 
新約聖書のたとえの中にも動詞「スプランクニゾマイ」が出てきますが、そこでは他人の苦しみを自分の苦しみのように苦しむ事、共に痛む事、共に悲しむ事という意味合いがあります。ギリシャ語「スプランクノン」(はらわた・内臓)は日本語で「同情・共感」と訳します。ドイツ語のミットライデンはミット=共に、ライデン=苦しむ。英語のシンパシーはシン=共に、パシー=苦しみ・感情という言葉からなります。主イエスのたとえでは「共に」ということが強調されていると思います。
 今日の「仲間を赦さない家来」のたとえで、王が最後に言った「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の「憐れむ」が動詞「スプランクニゾマイ」です。ペトロの「兄弟の罪を何回赦すべきですか、7回までですか」という問いに、主イエスは「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と言われました。何回その人を赦せるかではなく、主イエスが私たちの苦しみや悲しみに寄り添って赦してくださったように、私たちも自分から赦しなさいという事です。
このことがどれほど難しいかを私たちはよく知っています。だからこそ「自分の仲間を憐れむ心」が大切なのです。神さまからただ一方的に赦され、その赦しの道を私たちもまた歩む時、それが「共に生きる」道なのだと思います。
 「黙していられない」と厳しく語る神は、厳しく裁く神であると同時に憐れみの、赦しの神でもありました。そして主イエスは私たちと共にいて、同じ心をもって私たちを憐れみ「互いに愛し合い・赦し合い・共に生きる」道へと導いてくださっています。

<2016年秋の伝道礼拝>第1回(11月13日) 説教要旨

「あきらめの悪い神」               

エゼキエル書 第34章6~12節
ルカによる福音書第15章1~7節

カンバーランド長老・めぐみ教会牧師   荒瀬牧彦先生

<メッセージ>

三人がグループ家出をした忘れられない事件

東大和市で二十三年前に開拓伝道を始め、そこで牧師をしています。十年以上前のことですが、忘れられない事件があります。
教会にTちゃんという軽い知的障がいがある20歳代の女性がいました。養護学校時代のクラスメートのA君とB君と一緒にグループ家出をしました。知的障がいはごく軽いがワルのA君が、優しいB君とTちゃんを誘ったようでした。
探し回っても見つからず、数週間後の夜遅くに、寒さに耐えきれなくなってB君とTちゃんが、しぶるA君を引っ張って教会に助けを求めてやってきました。多摩川の河川敷の草むらの中に、シートでテントを作って暮らしているということでした。
夜中でしたがTちゃんの母親はすぐに駆けつけてきました。B君のお父さんは朝まで仕事でしたが、留守録を聞いて勤務明けに飛んできました。しかしA君を迎えに来る人はいませんでした。余りにも悪さを繰り返してきたので、家族とは絶縁状態だったのです。
私は不良のA君から弱い二人を守らなくてはと思い、A君を猛烈に怒りました。二度と彼らには関わるな、と。その時A君の気持には思い至りませんでした。B君のジャンパーを取りに河川敷に行き、ブルーシートのテントを見た時、これは「家」なんだと分かりました。「A君は自分の『家』が欲しかったのではないか」と思いました。私も含め周りの大人は誰も彼に寄り添おうとはしなかったし、誰も立ち直りを助けることはできませんでした。これまでの成育歴が彼を屈折させてしまい、彼は自分でもどうしようもできないものを抱えていました。
 家庭が不遇な少年たちに関わる仕事を長くされてきた方が、このように言ったことがあります。「人間には生まれてきたときから負わされてきた、運命があるんでしょうか。もうそれは変えられないんでしょうか。」私は何も答えられませんでした。「愛に不可能はない」と偉そうに説教しているけれど、現実には、A君はどうしようもないと内心考えている、と思いました。幼少期の育ち方は人格形成に重大な要素なので、そこで健全に愛を受けなかった人のことについて、楽観的な見通しを持つことができませんでした。

神に愛されていると知って人生を立て直したティム

 それからしばらくしてティム・ゲナールというフランス人の書いた自伝『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』という本を読みました。まだ十代だった彼の母親は、3歳のティムを電信柱にくくりつけて逃げてしまった。父親は階段の上から蹴り落とし、それから二年以上ティムは病院のベッドで過ごしました。その蹴り落とされた日は五歳の誕生日だったそうです。その後も虐待され九歳までに二度自殺未遂をし、少年院に入れられては脱走を繰り返していました。十六歳でボクシングに出会い、力をぶつけるところを見出しますが、孤独で空しく、暴力と性的衝動に駆りたてられる日々でした。
 ところがその頃から不思議な人々に出会い始めます。最初は荒くれ労働者たちの中で、一人神様の話をしているジャン・マリーという青年でした。ティムのことを「友達」だといって自分の家の仲間に紹介します。家というのはラルシュ(箱船)という名前の共同体で、障がいを持つ人とそうでない人が共同生活をするところでした。トマという神父は会うたびに、「イエス様の赦しがほしいですか」と言って祈り、徹底的にティムと付き合います。家の鍵を渡して「いつでも来ていいよ」と言う。ティムは朝四時に行って騒いだりするけれども、「イエス様の赦しをあげましょう」と言って神父は祈る。ティムはこの神父から、無条件の受け入れ、赦し、そして希望の三つの宝物をもらったといいます。
彼の妻となる素晴らしい女性は、彼をとことん受容してくれた。そのような人たちを通して、彼は自分が神様に愛されていると知って、人生を立て直したのです。彼は今、キリスト者として、家庭人として幸せな暮らしをしているそうです。養蜂業をしながら、やはり家庭に恵まれなかった、苦しんでいる青少年たちの相談にのり、よいカウンセラー、アドバイザーだといいます。
 私はこの本を読んで、「生まれてきた時から負わされている定めはもうどうしようもないものなのか」という問いに対して、「人が幼少期に受けるべきものを受け取れなったら、あとが本当に大変だ。でも、どうしようもなくはないのだ」という答えをもらったように思いました。人が見捨てても、神様は見捨てない。そしてどんな地点からでも、人はやはりやり直せるのです。
 ティムが大切な人たちに出会ったということを、キリスト教的な視点でとらえると、「やはり神様が彼のことを追いかけ続けていたんだ」ということが見えてきます。ジャン・マリー、変わり者の神父、連れ合いとなる女性など。この人たちにとって、神を信じるというのは抽象的な観念ではなくて、ティムという荒くれ者の人間を神が愛しておられる、と信じることでした。神様はあなたのことを本当に愛しているよと、僕も私もあなたのことが大好きだよ、あなたが必要だよ、と言葉や行動で表現することでした。
神様はこの人たちをメッセンジャーとして遣わして、「あなたをあきらめていないよ」と伝えてくださったのです。私はA君に再び会えたら「あなたが必要なんだよ」と話したい。これから出会う一人一人にはティムさんに出会った色々な人のうちの一人のようでありたいと思います。
 
見失った一匹の羊のたとえ

イエス様のたとえ話で有名なのが「見失った一匹の羊のたとえ」でしょう。百匹の羊のうち一匹がいなくなってしまった。一匹を見失ったら、羊飼いは見つけ出すまで探し回るというたとえです。数の論理で動く我々の社会だったならば、この一匹は切り捨てられることになります。一匹を追いかけて、九十九倍の経済価値がある羊を危険にさらすなんてことは馬鹿げています。しかしイエス様が九十九匹を野原に残して、と敢えて言ったのは、その一匹が百分の一という数ではなくて、「あなた」なんだ。一%なら、切り捨ててよい数字になりますが、「あなた」はかけがえがないのです。
 一人の人が神様から離れている。孤立している。それは神様の目から見たら、大切な存在が失われているということです。必死で探す。見つかり取り戻す。「見つかった!」という喜びが爆発する。周りの人たちにも「一緒に喜んでほしい」と呼びかけて大パーティーをする。一人の再発見は、神様の喜びであり、神様が他の人たちにも「喜んでくれ」と呼びかけることです。
イエス様がこのたとえで示されたのは「あきらめの悪い神様」だと思います。あきらめの悪い神様は、あなたをあきらめていない、それを告げるためにイエス様はこの世に来られ、十字架の死にまで至り、復活されたのです。

2016年秋の伝道礼拝へのお招き

11月の伝道月間のテーマは、「逆説の神」です。「予定調和」の「順説の神」と違って、ひとひねりある表現でしか語れない救い主の存在こそ、実は真実なのではないでしょうか。
今回の伝道礼拝は、久しぶりの他教派からのゲスト、東大和市にあるカンバーランド長老キリスト教会めぐみ教会を牧しておられる荒瀬牧彦先生です。先生はカンバーランド長老教会の礼拝改革の中心として活躍され、礼拝書特別委員会委員長として画期的な礼拝式文『神の民の礼拝』(一麦出版社2007年)を刊行し注目され、その後日本聖書神学校で礼拝学・実践神学の教師としても活躍しておられます。私たちの荻窪教会は縣洋一伝道師(蒔田教会)に引き続いて星野香神学生が日本聖書神学校で学びを続けていますが、困難な経営を続けるこの神学校を覚え、支援する時としたいとも考えています。
午後の教会全体修養会では「一つの食卓、たくさんの理解」と題して、現在日本基督教団をにぎわしている「聖餐問題」について他教派からの新しい視点で講演していただきます。私たちの日本基督教団が、主イエス・キリストのからだなる教会として、ぶれない軸足で、対話的な群れを形成できるように、もう一度聖書の言葉に耳を傾けましょう。

説教(日本キリスト教団荻窪教会)

11月13日(日)10時30分~     日本聖書神学校 荒瀬 牧彦
「あきらめの悪い神」

11月20日(日)10時30分~    荻窪教会副牧師 龍口 奈里子
「黙していられない神」

11月27日(日)10時30分~       荻窪教会牧師 小海 基
「他人は救っても、自分を救えない神」

信徒講座Ⅰ「標語に学ぶ」 2016年4月24日 小海 基

信徒講座Ⅰ「標語に学ぶ」              2016年4月24日 小海 基

2016年度標語
「母がその子を慰めるように私もあなたたちを慰める(イザヤ66:13)」

「ローズンゲン」が選んだ今年度標語について

2016年度の「ローズンゲン」の年度聖句はこのイザヤ書の言葉です。
この聖句はイザヤ書の一番終わりの所で出てくるというだけでなく、父性的に語られることの多い旧約聖書の神の愛が珍しく母性的に表現されている箇所でもあります。日本では恐ろしいものを「地震、雷、火事、親父…」と言いますが、聖書の「父なる神」という表現はどうしても「峻厳な神」、「恐い神」のイメージが先立ってしまいます。「無償の愛」というイメージで神の愛を表現するのにはどうしても母性的なイメージは必要で、キリスト教絵画のシンボルでも、飢えたひな鳥に自分の身体をつついて血を飲ませる「ペリカン」を使ったりします。このイザヤ書の表現もそれと通じるものがあります。
私たち人間を神の「子」として位置づけ、私たちのすべての関係性に先立ち、それを基礎づけているものとしての「神の慰め」が語られています。その出来事がイエス・キリストの出来事として受肉し、成就するのだとする第2、3イザヤの「メシア預言」(その始まり40章も「慰め」から始まっていましたが)の最後に語られる終末的「慰め」です。それがイエス・キリストの出来事によって既に始まっていることを知る私たちキリスト者こそ、世界の和解の先頭に立たなければならないという使命を示す聖句です。
さて、皆さんは古代ギリシァの哲学者プラトンの傑作対話篇の1つである「ゴルギアス」編を読んだことがありますか?
プラトンの先生であるソクラテスが雄弁家ゴルギアスを言い負かすという話です。ゴルギアスという人は当時の地中海世界一の雄弁家です。なにしろ黒を白として通してしまうほどの雄弁家です。論争させて敗けたことが無い。その道のプロさえゴルギアスに言い負かされてしまいます。雄弁術こそがこの世のあらゆる技術の中の頂点だと誇っています
しかしそれに対してソクラテスはそんなものは立派な物の部類にさえ入らないというのです。不正を行いながら巧みな弁論術で言い逃れ、裁きや罰を受けない事よりも、不正の被害を受ける方がましだというのです。この対話篇は最初の内私たちも聴衆と一緒になって、ソクラテスの方が説得力が乏しく詭弁、屁理屈をこねているように感じているのですけれど、そのうちにゴルギアスと一緒にソクラテスに追い詰められ、言い負かされてしまう所が醍醐味です。
ソクラテスは言います。弁論術や料理、化粧術…といったものは、それ自体に本質のある技術ではない。哲学や医術とはその点で異なる。病気を癒したり、健康にしたり、真理を指し示すものではない。弁論術や料理、化粧術といった物は、本質を離れ、使い方を誤り「快楽」だけを目的として走っていったら、不正を増し、命を損ね、醜さを増してしまう。「迎合」と呼ぶべきものなのだというのです。
日本基督教団や西東京教区の中で近年目につくのは、「伝道」ということが変に大上段に振りかざされるばかりで実態が伴っていないことです。言葉巧みであるとか、人を集める方法手段とか、明るい暗いといった雰囲気だとか、そんなものにとらわれ走っていると、いつの間にかゴルギアスの雄弁術の罠に落ちてしまいます。「迎合」化し出すわけです。
問題は教会の「伝道」の伝えようとしている本質です。私たちが主の「慰め」に生かされているかということです。
今年の標語「母がその子を慰めるように私もあなたたちを慰める(イザヤ66:13)」もそのことを語っています。私たち自身がイエス・キリストの救いの出来事に現れた神の愛という本質から出発しなければ、どんな伝える技術が巧みでもダメです。母の愛→無償の愛→絶対の愛→イエス・キリストに現れた神の愛という風に、されは聖書の世界を知らない人にも伝えられるはずだというのです。そしてその愛に現実に「慰められた」者たちが、「慰め手」として遣わされているからこそ、伝わっていくのです。

2016年6月4日(土)14:00 ムジカ・フェリチタ 1st コンサート -Musica Felicita 1st Concert-

2016年6月4日(土)14:00
ムジカ・フェリチタ 1st コンサート
-Musica Felicita 1st Concert-

星野知子(バロック・オーボエ、リコーダー)
神山敦子(チェンバロ)
北田契子(ヴィオラ・ダ・ガンバ)

Program
J.B.ボワモルティエ
オーボエとヴィオラ・ダ・ガンバのためのトリオ・ソナタ ホ短調 Op.37-2
C.F.アーベル
ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ第1番ハ長調 WKO 141
G.Ph.テレマン
リコーダーとチェンバロのための
トリオ・ソナタ変ロ長調 TWV42:B4「音楽の練習帳」より
C.P.E.バッハ、J.S.バッハ他

於:日本キリスト教団荻窪教会 入場無料
14:00開演(13:30開場)
お問合せ:hautboy.2pn@gmail.com(星野)

≪東京バッハ合唱団特別演奏会≫を荻窪教会で開催 2016年7月2日(土)14時から(入場無料)

日本エキュメニュカル協会 2016年度 第22回エキュメニュカル功労賞受賞!
≪東京バッハ合唱団特別演奏会≫~器楽アンサンブルとオルガンと合唱~
7月2日(土) 午後2時~
(*:日本語演奏本邦初演)
Vn 中川典子、VC 木島洋一郎、Org 石川優歌
BWV 81《主イエス眠り いかにすべき》
BWV 148 《み名の栄光を讃えよ》*
BWV 508 アリア《かたえに主いませば》*
BWV 140 《目覚めよと呼ばわる 物見の声》

於:日本キリスト教団荻窪教会:入場無料

2016年 春 伝道礼拝へのお招き

2016年 春 ≪伝道礼拝へのお招き≫

 2016年5月の伝道月間のテーマは、「インマヌエル―神われらと共にいます」です。「インマヌエル」というのはヘブライ語ですが、この言葉こそ旧約と新約をひとつに結び合わせるテーマなのだと言った聖書学者もいます。この恵みの知らせを旧約聖書の預言者イザヤはイザヤ書7~8章で立て続けに3回預言していますし、新約聖書の最初の書物であるマタイによる福音書は1章のはじめで、この預言が成就した出来事こそがイエス・キリストの出来事なのだと語り、28章はイエス・キリストの約束の言葉としてこの言葉をもって結ばれます。
 一方で私たちの現代社会ではむしろこの恵みの言葉と正反対の叫びに満ちています。「神はどこにおられるのか?」、「神は沈黙しておられる!」、「神は遠く離れておられる!」…。
 果たして私たちはそのどちらの現実に生かされているのでしょうか?今回の伝道礼拝はこの聖書の中心のメッセージと向かい合います。

 今回説教者としてお招きする深沢教会の齋藤篤牧師は、若い日にカルト宗教の被害を経験し、そこから献身され、ドイツのケルン・ボン日本語教会等で牧会されてこられた先生です。

 混迷するこの時代のただ中で、私たちが「共におられる神」に気づいているのか?
 聖書の語る言葉に耳を傾け、立ちどまって考えてみませんか。

5月8日(日) 午前10時30分~
「インマヌエルー神われらと共に」

荻窪教会牧師 小海 基(こかい もとい) 
東北学院大学キリスト教学科、東京神学大学大学院修了、当荻窪教会牧師に就任。
1989年~1991年イーデン神学校留学。農村伝道神学校講師。小諸いずみ会「いのちの家LETS」理事長。『こどもさんびか』の作曲、『讃美歌21』編集、著書に『聖餐 イエスのいのちを生きる』(新教出版社
共著)、『牧師とは何か』(日本キリスト教団出版局 共著)などがある。

5月15日(日) 午前10時30分~
「いつまでも共におられる主」
荻窪教会副牧師 龍口 奈里子(りゅうぐち なりこ)
関西学院大学大学院修了後、塚口教会担任教師。
1985年~ 東京女子大学キリスト教センター宗教主事。
1993年~ 当荻窪教会副牧師。

5月22日(日) 午前10時30分~ 
「あなたがどこに行っても」 
深沢教会牧師 齋藤 篤(さいとう あつし)
1976年福島県福島市に生まれる。キリスト教系カルト教団の信者を経て、大学生の時に教会の門をたたく。2000年2月にクリスチャンとなり、翌年日本聖書神学校へ入学。卒業後、2006年より岩本教会(静岡県富士市)、2012年よりケルン・ボン日本語キリスト教会(ドイツ)牧師をそれぞれ歴任。2015年より現職。

日本エキュメニュカル協会 2016年度 第22回エキュメニュカル功労賞受賞!
≪東京バッハ合唱団特別演奏会≫~器楽アンサンブルとオルガンと合唱~
7月2日(土) 午後2時~
(*:日本語演奏本邦初演)
Vn 中川典子、VC 木島洋一郎、Org 石川優歌
BWV 81《主イエス眠り いかにすべき》
BWV 148 《み名の栄光を讃えよ》*
BWV 508 アリア《かたえに主いませば》*
BWV 140 《目覚めよと呼ばわる 物見の声》

於:日本キリスト教団荻窪教会:入場無料