2015年 秋 ≪伝道礼拝へのお招き≫

2015年 秋 ≪伝道礼拝へのお招き≫

 10月の伝道月間のテーマは、「軸足をしっかりと定めた生」です。敗戦後70年目を迎えたこの年、私たちの社会は原点を見失い、一種の漂流現象に陥っていないでしょうか。なんとなく周りに合わせ、流されていくのではなく、ひとりの自立した存在として、他の人はどうであろうと、信念、信仰、ポリシーを貫いて、生きぬいていくという生き方、聖書の信仰は、いつの時代も「真理」に根差す「自由」への「決断」を求めます。人生全てを賭けた「決断」です。
 今回の伝道礼拝は、四谷にある千代田教会の戒能信生牧師です。先生は東京神学大学の神学生であった当時、学生自治会の副委員長であったこともあり、1970年3月の東神大機動隊導入の際に逮捕され、懲役6か月、執行猶予2年という判決を受けることになります。東神大中退後、立教大学キリスト教学科を卒業後、「信徒伝道者」として板橋大山伝道所、深川教会、教師検定試験により牧師となり、東駒形教会牧師を経て、この4月から千代田教会で牧会される方です。神学生時代に歴史神学の大御所石原謙博士(元東京女子大学長)の書生をしていたこともあり、独学で日本キリスト教史研究をきわめ、元日本基督教団宣教研究所教団資料編集室長として5巻にも及ぶ画期的な『日本基督教団資料集』の編纂に当たり、現在では日本聖書神学校、農村伝道神学校、東京バプテスト神学校等でも教えておられる専門家でもあります。午後の教会全体修養会では「敗戦後70年の教団の宣教と課題」と題して講演していただきます。私たちの日本基督教団が、主イエス・キリストのからだなる教会として、ぶれない軸足で、対話的な群れを形成できるように、もう一度聖書の言葉に耳を傾けます。
 混迷するこの時代のただ中だからこそ、聖書の語る言葉に目を留め、立ちどまって考えてみませんか。

10月11日(日) 午前10時30分~
「駆け抜ける生」
千代田教会牧師 戒(かい)能(のう) 信生(のぶお)
 1947、愛媛県生まれ。深川教会、東駒形教会を経て、2015年4月から北支区千代田教会牧師。元・日本基督教団宣教研究所教団史料編纂室室長、日本聖書神学校、農村伝道神学校、東京バプテスト神学校講師、『時の徴』編集同人。著・編書『日本基督教団史資料集』第1‐5巻(教団出版局、1997‐2001年)、『ラクーア その資料と研究』(共著、キリスト新聞社、2007年)、『戦時下のキリスト教』(共著、教文館、2015年)

10月18日(日) 午前10時30分~
「たちどまる生」
荻窪教会副牧師 龍(りゅう)口(ぐち) 奈(な)里子(りこ)
 関西学院大学大学院修了後、塚口教会担任教師。
 1985年~ 東京女子大学キリスト教センター宗教主事として勤務。
 1993年~ 当荻窪教会副牧師。

10月25日(日) 午前10時30分~ 
「たちかえる生」 
荻窪教会牧師 小海(こかい) 基(もとい) 
 東北学院大学キリスト教学科、東京神学大学大学院修了、当荻窪教会牧師に就任」。
 1989年~1991年イーデン神学校留学。農村伝道神学校講師。小諸いずみ会理事長。「こどもさんびか」の作曲、「讃美歌21」編集、著書に「聖餐 イエスのいのちを生きる」(新教出版社 共著)、「牧師とは何か」(日本キリスト教団出版局 共著)などがある。

≪ミリアムの会 特別集会≫
10月18日(日) 午後1時~ 
「HIV/AIDSについて話したことがありますか ~HIV/AIDSの現状~」
講師 カトリック中央協議会HIV/AIDSデスクより
河野小夜子(2010年9月よりデスク委員、看護師、助産師)
伊藤和子(2003年4月より事務局)

東京バッハ合唱団コンサート「バッハの合唱音楽」を開催します。

東京バッハ合唱団<3.11 被災地訪問演奏=福島県・南相馬公演>
報告コンサート@すぎなみ
バッハの合唱音楽
[南相馬公演(第112回定期演奏会)の演目による。 日本語演奏・大村恵美子訳詞]

第1部:南相馬ツアー 報告ビデオ上映
第2部:Johan Sebastian Bachの合唱音楽

日時:2015年9月26日(土) 14時開演(13時30分会場、16時終了)
入場料:無料(被災地への献金を受け付けます)
場所:荻窪教会

主催・問い合わせ 東京バッハ合唱団
http://bachchor-tokyo.jp

<2015年春の伝道礼拝>第3回(5月24日)説教要旨

「自由」
申命記7:6-8
ヨハネによる福音書18:36-38b

荻窪教会牧師 小海  基

<メッセージ>

 今回の伝道礼拝は何よりも、北村慈郎牧師をお招きして先生の名誉回復のために共に祈りたかったということがあります。私たちの日本基督教団が主イエス・キリストの語られたように「真理」に基づく「自由」へと立ち帰る対話的な群れを形成できるように、もう一度聖書の言葉に耳を傾けます。 
 主イエス・キリストは「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31)と言われました。「真理」に基づかない偽りの「自由」は本当の「自由」ではありません。行く先の見えない現代社会の中で私たちは、私たちを本当に解放し「自由」にする「真理」に根差そうとしているでしょうか。なんとなく周りに合わせ流されていくのではなく、ひとりの自立した存在として、信念、信仰、ポリシーを貫いて「真理」を求め、生きぬいて行くという生き方にこそ「自由」が宿るのです。聖書の信仰は、いつの時代も「真理」に根差す「自由」への「決断」を求めます。
 新約聖書には「真理」に関連する言葉が全部で109回出てきます。その約85%がパウロの書簡とパウロの名による書簡、ヨハネによる福音書とヨハネの名がつけられた文書に出てきます。
 パウロの真理は「神の真理」、「キリストの真理」、「福音の真理」と属格の付加語が付いていますが、ヨハネ関係文書では圧倒的に「真理」が主格で書かれています。ヨハネのイエス・キリストは「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と、イエス・キリストそのものが神としての真理なのです。ヨハネが「真理」を主イエスそのものとして言いあらわそうとする工夫があります。それが最も明らかなのは「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)とユダヤ人に向かって語られた言葉です。
 「自由」ということこそ出エジプトの民ユダヤ人にとって永遠のテーマであり、キーワードです。自分たちは「奴隷の家」エジプトのファラオの家から出て、約束の地の自由の民となったところにイスラエルのイスラエルたる中心があるからです。「真理はあなたたちを自由にする」という言葉はユダヤ人たちとの討論の中で語られた言葉です。
 異邦人ローマ総督ポンテオピラトに「真理とは何か」と問われて、主イエスはお答えになりませんでした。「真理」とは、人間の言葉の中にとどめたり押し込めたりすることが出来ない。主イエス・キリストの「真理」は十字架によって成就されるのです。知識や知恵など人間の内側にあるものとして考えるのではなく、「真理」はイエス・キリストそのもの人格的なものなのだと伝えようとしているのです。

 ボンヘッファーは「真実を語るとは何か」という獄中の文章を書きました。ヒトラー政権下でキリスト者が苦しんでいたのは、十戒の「偽証してはならない」という戒めでした。ボンヘッファーは、一人の少年がアル中の父親のことを教師に問われて父はアル中ではないと自分の家庭の秩序を守ろうとして嘘をついたことに対して、「この嘘はより多くの真実を含んでいる」と述べています。嘘をつくか真実かの単純で教条的な二者択一ではなく、守るべき責任を負っている大切な家庭のためについた少年の嘘にこそより多くの「真実」があるとしたのです。
 私たちの救いのために十字架を負って下さった主という存在こそが「真理」であることを知っているキリスト者は、規範倫理の哲学者カントのように「真理」の教条化も律法主義化も出来ない、自由な神の民なのです。罪赦された罪人として自分の罪は主に委ね、自分の負うべき十字架を負って歩んでいく群れなのです。
(終わり)

<2015年春の伝道礼拝>第2回(5月17日)説教要旨

「真実」
哀歌3:19-24
フィリピの信徒への手紙4:4-8

荻窪教会副牧師 龍口 奈里子

<メッセージ>

 先週の伝道礼拝で北村慈郎牧師は、「真理」という言葉はギリシャ語の「アレセイア」で「覆いを取り除く」という意味があり、私たちの偽りを剥がしていくことによって「真理」に近づくと説明してくださいました。
 今日の題を私は「真実」としましたが、「真理」と「真実」とはどのような違いがあるのでしょうか。聖書のギリシャ語ではどちらも「アレセイア」が用いられています。英語、ヘブライ語では余り厳密な区別がなされていないようですが、ドイツ語では「真実」の語源が「真理」、つまり真理の中に真実が含まれるということが明らかです。
 では反対語はどうでしょうか。「真理」の反対語は「うそ」「偽り」でなく「誤謬」と辞書に書かれています。一方で「真実」の反対語が「うそ」「偽り」。つまり「真理」が普遍的な一致、抽象的な一致を意味するのに対して、「真実」は現実的な私たち人間の主体的な意思から出てくるもので、そうした違いがあるのです。

 さて今日読みましたパウロが述べる「真実」ですが、8節で「……すべて真実なこと」に始まり、「すべて何々のこと」という言葉が次々と出てきます。このような徳目は、いわば当時の定型的な表現であり、パウロのオリジナルの言葉でもなければ聖書固有のものでもありませんでした。パウロがフィリポの教会の人たちに宣べ伝えたい中心点はむしろ「徳目」の前後にあると思われます。4節の「主において喜びなさい……」で始まり、9節の「……そうすれば平和の神があなたがたと共におられます」で終わる部分で徳目の実行を勧めますが、決して自分独りでなく「主にある教会」を建てるために共に実行するよう勧めているのです。
 8節に出てくる複数の徳目でパウロが一番に「真実なこと」を挙げているのは意味あることだと思うのです。パウロにとって「真実」とは単なる人間的誠実さとか生真面目さではなく、「真理」に根ざす「真実な生き方」でした。

 伝道礼拝ですので、「真実な生き方」とはどういうことか、以前私が聞いた二つのお話をしたいと思います。
 一つ目はキリスト教系大学を出て公認会計士になった方でクリスチャンではない方のお話です。ある時ある会社の社長から粉飾決算を見逃してほしいと依頼されました。「真実で正しいこと」を報告書に書くと会社が倒産し社員が路頭に迷う可能性があるため、眠れないほど悩んだ時、大学の正門に創設者・新島襄の「良心碑」があり、そこに書かれていた「人間の目ではなく神の目を意識して初めて人間となる」という意味のことをふと思い出し、「本当のことを書こう、そして銀行や取引先から協力が得られるよう全力を尽くそう」と思い直したという話です。
 二つ目は、ご自分のお父さんの話として聞いた話です。自転車で青信号を渡ろうとした時にタクシーの前方不注意のため自分が大怪我を負ったのですが、謝罪に病院に来たまだ若い運転手を見てこの事故のため彼が仕事を失ってはこれから大変になると感じて警察署に出向いて「自分から車にぶつかった」と「うそ」の証言をしたそうです。
 この話をされた方は哲学が専門の先生で、ヨハネ18章38節でピラトが言う「真理とは何か。」を読む度に自分が幼い時に経験したお父さんの証言を思い出すというお話でした。
 神のまこと、神の真実こそが「真理」です。その「真理」とはまさにイエス・キリストの生き方の中にあります。主イエスに学び、従い、主イエスからの「真実」を受け止め「真実」に歩んでいきたいと思います。
(終わり)

<2015年春の伝道礼拝>第1回(5月10日)説教要旨

「真理による自由」
エレミヤ書28:12-17
ヨハネによる福音書8:31-32
               
船越教会牧師 北村 慈郎先生

<メッセージ>

 ご存知のように、私は2010年9月15日付で日本基督教団から免職処分を受けて、教師の身分や資格を剥奪(はくだつ)されている者です。そのような私を、敢えて説教者として招いてくださる教会があることは、私には嬉しいことです。

私の信仰歴

 私の名前「慈郎」の「慈」は慈愛の慈であり、慈しみとも読みます。キリスト教信仰とつながりのある言葉といえますが、私の家族の中には誰もクリスチャンはいません。中学校からバプテストの関東学院という学校に入学していましたが、高校3年の10月頃までは、どちらかというとアンチキリスト教だったと思います。ただ高校1年の後半頃から母が筋萎縮症で寝たきりになり、またちょうどその頃父が責任を持っていた薬の仲卸の会社が倒産しました。この二つの出来事が重なったことによって私は悩みを抱えざるを得ませんでした。悩みを抱えてからの私は、ある意味で二つの人間不信に陥っていたと思います。一つは自分に対してです。母は寝たきりでしたから、その世話を家族がしなければなりません。しかし友人に誘われたりすると、私がしなければならない時も、兄や妹に押し付けて出かけていきました。母が自分を必要としている時に、私は自分のことを優先して、母の思いを裏切っているという罪の感覚、自分は間違ったことをしているという思いです。もう一つの人間不信は他人に対してです。父の会社の倒産後、その薬を横流しして自分の懐に入れていた人もいたりして、父親だけが苦しんでいるように思え、人間って信じられないものという人間不信の思いが増幅していました。
 そのような時友人に誘われて、高3の11月初めの日曜日に初めて紅葉坂教会の礼拝に出席しました。そして強引にお願いしてその年のクリスマスに洗礼を授けてもらいました。1959年12月20日です。その時に洗礼を受けようとしたのは、人間は人を裏切るが、イエスは人を裏切らない、だからイエスに従って生きていこうという思い、ただそれだけでした。イエスとの出会いによって、私はこのイエスに最後までついて行こうと思ったのです。

最初の任地での出会い

 もう一つ私の個人史の中で大きな出来事は、神学生時代から最初の任地である足立梅田教会時代の10年間に関わった廃品回収を生業(なりわい)としていた人たちとの出会いです。当時そのような人たちを「バタヤさん」と呼んでいました。
 仕切屋という「バタヤさん」が集めてきた廃品を買い取るところがあり、その仕切屋さんが長屋を持っており、そこに「バタヤさん」が住んでいました。その長屋は、3畳ほどの部屋が並んでいる隙間風が入る劣悪な建物でした。「バタヤさん」の中に数人、洗礼を受けて足立梅田教会のメンバーになっていました。その一人が真冬に心不全で亡くなりました。相当目の不自由だった人ですが、私はその知らせを受けて長屋に行き、亡くなっている状態を見ました。集めたくずの山の中でかろうじてつくられている寝床で冷たくなっていました。猫がいて、布団の周りには猫の糞が散乱していました。
 私は、このような経験を通して、イエスは誰のために死んでくださったのかということを考える時に、「バタヤさん」のようなこの社会の中で最も小さくされている方々のためではないかと思うようになりました。そのようなイエスの生涯と死が、私への問いであり、そういう形で私のためでもあるのではないかと思うようになっていきました。
 「人間は人を裏切るが、イエスは決して裏切らない」ということと、イエスの生涯と死と復活はこの世で最も小さくされている人のためであり、そのことによって、私たちすべてのためのものではないかということとが、私のイエス理解の根幹になりました。

聖書の語る「自由」とは

 先ほどの聖書の箇所に、イエスは「わたしの言葉にとどまっているならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と語られたと記されています。それを聞いたユダヤ人たちは「今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と、イエスに言いました。
 このユダヤ人が陥った自己理解に私たちも陥りやすいのではないでしようか。自分たちはキリスト者として「真理と自由」をすでに持っている。それを何とか人に伝える伝道が大事なことであって、すでに自由な者が何故自由にならなければならないのかと。
 しかし現実は、ユダヤ人はイエスを殺そうとする自己絶対化に陥っていますが、それに気づけません。信仰に誠実であると思えば思うほど、信仰から遠ざかってしまうという逆説に気づかなければなりません。「信じます。不信なわたしをお助けください」と言った人の信仰でなければならないと思います。私たちはイエスによって真理と自由に招かれながら、真理を所有する者でも、自由な者でもありません。偽りと囚われの中で生きています。イエスとイエスの言葉にとどまっているならば、偽りと囚われの中にある己に恐怖し、そこから解き放ってくださるイエスに従って生きる希望と喜びに己を投げ出さないわけにはいきません。
 イエスの宣べ伝えた神の国は丸い円盤の上に、みんなが手をつないで一緒にいるというイメージではないでしょうか。権力を持った一部の人が上層にいて、差別抑圧されている人達が底辺にいる、そして圧倒的に多くの人々がその中間層にいる。そのような縦菱形の今の社会が、みんなが対等同等で、それぞれが大切にされる円盤の社会に変わっていくことが、神の国の到来に近づくことではないかと思います。神のみ国がこの世に到来していることを信じ、イエスに招かれ、その招きに応えて生きようとする者は、今ここで、それにふさわしく生きていこうとするのではないでしょうか。「真理はあなたがたを自由にする」とは、そのようなことではないかと思います。偽りの覆いがとりのぞかれた「真理」に立ち、さまざまな囚われから解放された「自由」をもって、イエスの後に従って共に歩んで参りたいと願うものであります。
(終わり)

2015年・春 伝道礼拝へのお招き

5月の伝道月間のテーマは〈真理と自由〉です。主イエス・キリストは「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31)と言われました。「真理」に基づかない偽りの「自由」は本当の「自由」ではありません。聖書の信仰は、いつの時代も「真理」に根差す「自由」への「決断」を求めます。  
今回の伝道礼拝には、横須賀にある船越教会の北村慈郎牧師をお招きします。先生は横浜の紅葉坂教会で牧師をされ日本基督教団常議員をしていた最中であった2010年1月26日の公告で、日本基督教団議長により一方的に「牧師免職」処分を受けます。先生の「処分撤回」と「名誉回復」を求める声が絶えることはありません。
主イエス・キリストの語られたように「真理」に基づく「自由」へと立ち帰る聖書の言葉に耳を傾けます。混迷するこの時代のただ中だからこそ、深く原点から語る聖書の言葉に目を留め、立ちどまって考えてみませんか。初めて教会を訪ねるという方、どなたでも参加できます。

◆ 5月10日(日)午前10時30分~
「真理による自由」 北村慈郎先生(船越教会牧師)
◆ 5月17日(日)午前10時30分~
「真実」      龍口奈里子先生(荻窪教会副牧師)
◆ 5月24日(日)午前10時30分~
「自由」 小海 基先生(荻窪教会牧師)

恒例の小沢さちさんによる無料コンサートを開催いたします。

荻窪教会で、下記の要領で入場料無料のコンサートが開催されます。
どなたでもお気軽にお立ち寄りください。

題目:リスト 十字架の道行き(Via Crucis)
日時:2015年3月29日(日) 午後4時30分開場、午後5時開演
場所:荻窪教会
入場料:無料
出演:小沢さち
出演者プロフィール:桐朋学園大学演奏学科ピアノ専攻卒業、弦学科伴奏研究員修了。
故江戸弘子氏、ラントシュ・イシュトヴァン氏に師事。
全日本学生音楽コンクール東日本大会3位入賞、NHKフレッシュコンサート出演。
府中市民講座にてオルガンを学び、その後、数々の学習会に参加。
東京ジングフェライエン専属ピアニストとして、主に宗教曲の合唱伴奏。
またバッハ平均律全曲演奏Ⅰ、リストの祈りシリーズ等の宗教曲分野でも好評を得ている。
桐朋学園大学付属音楽教室諏訪教室講師。

無料コンサート:声楽アンサンブル ラポール 第14回演奏会

下記の要領で、荻窪教会にて無料のコンサートが開催されます。
どなたでもご自由にご参加ください。

日時:2015年3月15日(日) 18時開場、18時30分開演
場所:荻窪教会
入場料:無料
曲目:
 H.L.ハスラー
  ミサ曲Ⅱ
  言葉は肉となりて
 G.P.テレマン
  モテット 神よ、私たちの主、イエス・キリスト
       幸いなるかな死す者は
  カンタータ 神よ私の内に清い心を創り
 J.S.バッハ
  カンタータ第61番 「いざ来たれ、異邦人の救い主よ」
出演:声楽アンサンブル ラポール
 指揮:高橋節子
 ヴァイオリン:大鹿由希・本郷幸子
 ヴィオラ:廣海史帆・後藤俊太郎
 ヴィオラ・ダ・ガンバ:櫻井茂
 オルガン:桒形亜樹子

バザーのご案内(2015年1月25日、12時30分~14時30分)

恒例の教会バザーを、下記の通り、開催いたします。
どなたでもお気軽にお立ち寄りください。

日時:2015年1月25日(日) 12時30分~14時30分
場所:荻窪教会

※好評のランチセットや手作り食品、衣類・雑貨などを販売いたします。
※エコバックをご持参ください。

<2014年秋の伝道礼拝>第3回(10月26日)説教要旨

<2014年秋の伝道礼拝>第3回(10月26日)説教要旨

若さゆえに軽んじられるな               

サムエル記上16:5b~7
テモテへの手紙Ⅰ 4:11~16

龍口奈里子先生

<メッセージ>
昔から人生のすべてを掛けた決心というのは、ある意味若さの象徴でした。しかし今日の若い世代の人たちから、「決断」という言葉は遠くに離れているとお感じになる方も多いのではないでしょうか。彼らは、自分の実現できる範囲内での夢、安定した就職とか結婚という目先の夢に向かっての人生設計は若いうちからきちんとたてているけれども、逆に冒険はしない、競争もしたくない、無茶はいやだ、と考える人が多いようです。
しかし聖書は、私たちの伝えようとしている信仰の世界は、それとは逆なのです。信仰とは主イエスに招かれて、そこから今まで知ることのなかった新しい歩みへと踏み出すことが求められます。そして踏み出した先には思いもかけない出会いや恵みがあることを、私たちは聖書のみ言葉を通して知らされます。

先々週の修養会で、小林先生から私たちはバルナバについて学びました。バルナバがパウロやマルコを見いだし、そこから自らの賜物を発見していった人物であったということ、若いパウロを受け入れる人など誰もいなかったときに、パウロの才能を見いだしパウロの言葉を聞き、それだけでなく年長者であるバルナバ自身もパウロとの出会いによって自分の賜物を再発見していったというのでした。そのような出会いこそが信仰の恵みだと思います。
テモテという若い伝道者は、パウロによってエフェソの教会の牧会を任されていました。パウロが教会の第一線から退くにあたり、後継者のテモテに引き継ぐためにテモテとエフェソの教会の人たちに向けて語っているのがこの手紙です。若いテモテに述べた言葉は、きっと今日の若い人たちにも響く言葉ではないかと思います。

今日の説教題に挙げた「若さを軽んじられるな」という言葉は、一つにはエフェソの教会の人たち、特に年長者たちに向けた言葉でもあります。若いという理由で、経験が足りないというただそれだけの理由で、若者たちを軽んじるなというのです。それと共に、若いテモテに対しても「あなたは軽んじられてはならない」と語るのです。
今の若い人たちは若さゆえに役に立たないと言われないように、資格や学歴で保険をかけることに一生懸命です。しかしパウロはそのように若さを軽んじるなというのです。資格や学歴ではなく、若さゆえの言葉や行動、そして信仰の賜物を生かして、自分自身を軽んじたりしないでそれぞれの光を放ちなさい、というのです。年齢や外見にとらわれず、その人が神の目から見たら一人の役立つ人間としてあるということ。そこから互いに励まし合い、支え合う関係へと変えられていく、それが信仰の交わりです。パウロはそうやってテモテを見ました。
フィリピの手紙の中でテモテについて述べているパウロの言葉からは、若いテモテを一人の同労者として支え、励ましあう同士としてとらえていることが伝わってきます。お互いに、年齢や立場を越えて認め合い、主にある兄弟としてみる。そこに新しい出会いや恵みの発見があるのだ、それが信仰の交わりなのだと訴えているのです。

若い人も老いた人も、主イエス・キリストを自分たちの心に受け入れ、主を信じる信仰によって私たちの人生を軽んじたりしないで謙虚に生きなさい、とパウロは勧めるのです。神から与えられている目に見えない言葉や愛や信仰を伝えていくこと。それが私たちの信仰の出発点です。私たちもパウロの言葉から、神様のみ前でなすべきことをこの世へと繋げていくことを使命としていきたいと思います。
(終わり)