<2015年春の伝道礼拝>第2回(5月17日)説教要旨

「真実」
哀歌3:19-24
フィリピの信徒への手紙4:4-8

荻窪教会副牧師 龍口 奈里子

<メッセージ>

 先週の伝道礼拝で北村慈郎牧師は、「真理」という言葉はギリシャ語の「アレセイア」で「覆いを取り除く」という意味があり、私たちの偽りを剥がしていくことによって「真理」に近づくと説明してくださいました。
 今日の題を私は「真実」としましたが、「真理」と「真実」とはどのような違いがあるのでしょうか。聖書のギリシャ語ではどちらも「アレセイア」が用いられています。英語、ヘブライ語では余り厳密な区別がなされていないようですが、ドイツ語では「真実」の語源が「真理」、つまり真理の中に真実が含まれるということが明らかです。
 では反対語はどうでしょうか。「真理」の反対語は「うそ」「偽り」でなく「誤謬」と辞書に書かれています。一方で「真実」の反対語が「うそ」「偽り」。つまり「真理」が普遍的な一致、抽象的な一致を意味するのに対して、「真実」は現実的な私たち人間の主体的な意思から出てくるもので、そうした違いがあるのです。

 さて今日読みましたパウロが述べる「真実」ですが、8節で「……すべて真実なこと」に始まり、「すべて何々のこと」という言葉が次々と出てきます。このような徳目は、いわば当時の定型的な表現であり、パウロのオリジナルの言葉でもなければ聖書固有のものでもありませんでした。パウロがフィリポの教会の人たちに宣べ伝えたい中心点はむしろ「徳目」の前後にあると思われます。4節の「主において喜びなさい……」で始まり、9節の「……そうすれば平和の神があなたがたと共におられます」で終わる部分で徳目の実行を勧めますが、決して自分独りでなく「主にある教会」を建てるために共に実行するよう勧めているのです。
 8節に出てくる複数の徳目でパウロが一番に「真実なこと」を挙げているのは意味あることだと思うのです。パウロにとって「真実」とは単なる人間的誠実さとか生真面目さではなく、「真理」に根ざす「真実な生き方」でした。

 伝道礼拝ですので、「真実な生き方」とはどういうことか、以前私が聞いた二つのお話をしたいと思います。
 一つ目はキリスト教系大学を出て公認会計士になった方でクリスチャンではない方のお話です。ある時ある会社の社長から粉飾決算を見逃してほしいと依頼されました。「真実で正しいこと」を報告書に書くと会社が倒産し社員が路頭に迷う可能性があるため、眠れないほど悩んだ時、大学の正門に創設者・新島襄の「良心碑」があり、そこに書かれていた「人間の目ではなく神の目を意識して初めて人間となる」という意味のことをふと思い出し、「本当のことを書こう、そして銀行や取引先から協力が得られるよう全力を尽くそう」と思い直したという話です。
 二つ目は、ご自分のお父さんの話として聞いた話です。自転車で青信号を渡ろうとした時にタクシーの前方不注意のため自分が大怪我を負ったのですが、謝罪に病院に来たまだ若い運転手を見てこの事故のため彼が仕事を失ってはこれから大変になると感じて警察署に出向いて「自分から車にぶつかった」と「うそ」の証言をしたそうです。
 この話をされた方は哲学が専門の先生で、ヨハネ18章38節でピラトが言う「真理とは何か。」を読む度に自分が幼い時に経験したお父さんの証言を思い出すというお話でした。
 神のまこと、神の真実こそが「真理」です。その「真理」とはまさにイエス・キリストの生き方の中にあります。主イエスに学び、従い、主イエスからの「真実」を受け止め「真実」に歩んでいきたいと思います。
(終わり)