無料コンサート:BACH オルガン演奏による

下記の要領でコンサートを開催いたします。

題目:BACH オルガン演奏による 平均律クラヴィーア曲集Ⅱ(全曲、繰り返しなし)
日時:2014年12月23日(火) 13時30分会場 14時開演
入場料:無料
会場:荻窪教会

演奏:小沢さち
桐朋学園大学演奏学科ピアノ専攻卒業、弦学科伴奏研究員修了。
故江戸弘子氏、ラントシュ・イシュトヴァン氏に師事。
全日本学生音楽コンクール東日本大会3位入賞、NHKフレッシュコンサート出演。
府中市民講座にてオルガンを学び、その後、数々の学習会に参加。
東京ジングフェライエン専属ピアニストとして、主に宗教曲の合唱伴奏。
またバッハ平均律全曲演奏Ⅰ、リストの祈りシリーズ等の宗教曲分野でも好評を得ている。
桐朋学園大学付属音楽教室諏訪教室講師。

秋の午後のひとときを 男声アンサンブルとともに楽しみませんか?(無料)

アンサンブル・ハイブリッジ
第5回ミニコンサート
入場無料

2014年11月24日 14時30分会場 15時開演
場所:荻窪教会

第1部 男声合唱愛唱曲 (希望の島、お爺さんの古時計、三羽の烏他)
第2部 ロシア民謡など世界の民謡から (ともしび、モスクワ郊外の夕べ、ステンカラージン他)
第3部 古楽の響き (バード作曲「3声のミサ」より Kyrie Agnus Dei 他)
第4部 バロックでスイングします (Swing the ‘Prelude’, Swinging’, Anne Magdalene, 他)

合唱指導・指揮:高橋康人

ふれあいコンサートの開催(2014年11月8日(土)、荻窪音楽祭の一環として)

2014年の荻窪音楽祭の一環として、以下の要領でコンサートを開催します。入場無料です。どなたでもお気軽にお出でください。

会場:当教会
タイトル:ふれあいコンサート
時間:13時30分~16時(13時開場)
演奏者と曲目:
第1部(13時30分~)
 兼氏規雄(Cl)、西内真紀(Vl)、柴貴子(Vl)、大柴里枝(Vla)、穴田貴也(Vc) 曲目=モーツァルト「クラリネット五重奏曲イ長調 K.581
第2部(14時30分~)
 宮崎真哉(Fl)、島崎英也(Ob)、松岡将法(Cl)、柴山千秋(Hrn)、石川恭世(Fg) 曲目=F.ダンツィ「木管五重奏曲op.67-3」
 山口恵三子(Vl)、鈴木道子(Vl)、高橋何奈(Vla) 曲目=A.ドヴォルザーク「テルツェットop.74,B.148より」他
 相原雅美(Cl)、古角圭和(Fl)、和田紗季(Fg) 曲目=D.ミヨー「パストラールop.147」他
 中島麻紀子(Msop)、長野充(Vl)、岡野雅一(Guit) 曲目=C.グノー「アヴェ・マリア」他

東北学院大学グリークラブ東京OB合唱団による無料コンサートの開催(2014年10月26日12時30分開演)

以下の要領でコンサートが開催されます。
参加費無料です。どなたでもどうぞ。

日時:2014年10月26日(日)12:30開演
タイトル:東北学院大学グリークラブ東京OB合唱団 演奏会 ~恩師ビクター C.セアル先生を偲んで~
演目:宗教曲(Requiem Aeternam 他)愛唱歌(箱根八里 他)黒人霊歌(Balm in Gilead 他)
指揮:竹花秀昭

特別集会のご案内

10月19日(日)礼拝後(12時ごろから)、以下の要領で特別集会を開催いたします。
参加費無料です。どなたでもどうぞ。

ミリアムの会 特別集会
タイトル:「お口の健康を通してQOLの維持を」 
講師:当教会会員 歯科医師 佐藤和正先生 ・ 佐藤恵子先生

《2014年・秋の伝道礼拝へのお招き》

 2014年10月の伝道月間のテーマは〈若い魂への志の継承〉です。
ひとりの自立した存在として、他の人はどうであろうと、信念、信仰、ポリシーを貫いて生きぬくという在り方が、私たち日本人にはどうしても弱い所があります。島国で、なんとなく周りに合わせ、流されていく…。聖書の信仰は、いつの時代も自由の中で「決断」を求めます。人生を賭けた「決断」です。
今回の伝道礼拝は、日本聖書神学校校長の小林誠治牧師による若き預言者エレミヤの召命の記事を始めとして、旧約と新約聖書から若い日々に志、信念、信仰、ポリシーに出会い、生涯を賭けてそれを貫いて行った人生を学びます。これからの世代に何を伝えていくかという大きな問題です。
合わせて12日の礼拝後には教会修養会を持ち、二人の牧師への献身者を抱える私たちの教会のあり方を、使徒パウロの高弟バルナバと重ねながら、「バルナバの人格に学ぶ」と題して小林校長から聴くひと時を持ちます。
行く先が見えず、混迷し、見定まらないこの時代のただ中で、聖書の語る言葉に目を留め、立ちどまって考えてみませんか。
 10月12日「魂を揺さぶる主の言葉」小林誠治牧師 (日本聖書神学校校長)
 10月19日「青春の日々にこそ創造主に心を留めよ」小海 基牧師(荻窪教会牧師)
 10月26日「若さゆえに軽んじられるな」龍口奈里子副牧師(荻窪教会副牧師)
※その他イベントがあります。本ウェブサイトに掲載いたします。

8月3日(日)の平和聖日に行われた、牧師の説教を掲載いたします。

平和聖日説教「正義と平和」        
2014年8月3日      
小海 基
「そのとき、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。『直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。彼に告げよ。』」(列王記上第21章17~18節)

 今年の平和聖日を取り巻くこの国の情況はまことに緊張しています。何も悪いことをしていないのに、恨みも何も無いのに殺されてしまう。実質的クーデターのような「解釈改憲」が押し通され「平和憲法」がなし崩しにされる。青少年や実の親による身震いするような殺害事件が続く。ガザで、ウクライナで戦火が上がり、幼い魂が失われる…。
 北イスラエルのアハブ王が、ならず者を使ってイズレエルの農民ナボトを、身に覚えのない「神と王を呪った」という冤罪で石打ち刑に処してしまい、彼のぶどう畑を奪った事件も、ただ単に「別荘の隣にあるぶどう畑が欲しかった」というだけの実にくだらない理由で起こりました。何も殺さなくてもと思うような不条理の殺人事件です。
 さすがに総てがうまく行き過ぎて、ここまでやって良かったのだろうかとアハブ王にも良心の呵責にとらわれたのか、迷いひるむ気持ちがあったと見えます。
 しかし、悪妻イゼベル王妃は間髪入れずアハブ王をたきつけます。「あのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです」(21・15)。一国の王、国の頂点なのだから、当然なのだ。相応の銀を支払うと申し出ているのに、それを拒んだナボトの方が自業自得なのだというわけです。
 ここでしたり顔で、「世の中というのはこのぐらいの不条理がまかり通るところなのだ」と、当時の北イスラエルの民のように殻に引きこもってしまったなら、「山上の説教」で「幸いである」とイエス・キリストから称えられる「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」(マタイ5・9~10)ではありません。預言者エリヤはこういう時、いつもたったひとりで神様から遣わされます。カルメル山でバアルとアシェラの預言者たちと勝負をした時もたったひとりでした。こちらはたったひとりで、850人と勝負したのでした。今回もたったひとりで、北イスラエルの絶対君主アハブに立ち向かうことが求められるのです。
 キリスト者の「地の塩」の働きというのは、たったひとりで遣わされるところに担われるのです。
 最近「福音と世界」誌に書評を書くように求められて、D・ボンヘッファーの『共に生きる生活』を読み返しました。そしてこんな風に書きました。
「『共に生きる』とか『交わり』という魅力的なタイトルに魅かれて本書を開く者は、誰もが冒頭から冷や水を浴びせられる。『イエス・キリストは敵のただ中で生活された。…イエスは十字架の上で、…ただひとりであった。彼は神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だからキリスト者も、修道院的な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活する。そこにキリスト者は、その課題、その働きの場を持つのである。…「〔その現実に耐えようとせず、友人たち、敬虔な人たちとだけ共にいようとする者〕、ああ、汝ら神を冒涜し、キリストを裏切る者たちよ!もしキリストがそのようになさったとしたら、いったい誰が救われたであろうか」(ルター)』(10~11頁)。『ひとりでいることのできない人は、交わり〔に入ること〕を用心しなさい』(109頁)と、中ほどでもだめ押しされる。時代の圧倒的な流れに抗して少数者として戦う中で生まれた記録なのである。キリスト教国で生まれた書であるが、日本のようなキリスト者そのものが社会の少数者であるようなところで、励ましと自覚をいつも与える書である。
『非暴力不服従』をインドのガンジーから学ぶことを断念し就任した、フィンケンヴァルデの告白教会の牧師研修所と兄弟の家(ブルーダ―ハウス)における二年半の共同生活を元に本書は書かれている。生前に出版されたボンヘッファーのわずかの著作の一つである。描かれているのは少数者であろうとも『外的奉仕』という使命を担うための『内的集中』する群れの実践記録。強制収容所で非業の最期を迎えた著者の生涯を支え続けた者が見えてくる。日本の今の憂うべき政治情況の中でこそ本書の響きを改めて聴くべき内容だ」。
アハブ王は最初こそ「わたしの敵、わたしを見つけたのか」と、北イスラエルの王の前で虫けらのようなエリアごときがどれほどの存在と、見下しています。しかしたったひとりで王の前に立つエリアは、人間としては力は無いのかもしれないけれど、全能の神の言葉を担っています。アハブ王は見る間に神の人場の前に力なく打ち砕かれてしまいます。ヨナの預言に思いかけず悔い改めたニネベの人々のようです。聖書を読んでいる私たちにも不思議に見えるほどです。
「アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた」(21・27)。
わたしたちもひとりのエリヤです。どんな時代の荒波であろうと、キリスト者が「平和を実現する」ひとり、「義のために迫害される」ひとりとして立つところから、神の国は始まっていくのです。神はその空の鳥のような、野の花のような「ひとり」の働きを決してないがしろにはされません。
(終わり)

2014年5月25日 春の伝道礼拝「わたしは道である」(龍口奈里子・荻窪教会副牧師)の説教を掲載いたします。

<2014年春の伝道礼拝>第3回(5月25日)「わたしは道である」
荻窪教会副牧師 龍口 奈里子 先生
詩編 86: 11
ヨハネによる福音書 14:1 ~ 7

<メッセージ>

今回の伝道礼拝のテーマは「道」です。
人生の道の途上において、「自分はどこから来て、今、どこにいて、これからどこへ行けばよいのかわからなくなる」迷子のような状態に陥ったとき、私たちには「帰る場所」である「故郷」があると主イエスは述べられています。
14章から始まる主イエスの最後の説教は、弟子たちへの遺言の言葉がちりばめられています。その冒頭に、「帰る故郷」もなく不安や動揺でいっぱいであった弟子たちに主イエスは、「心を騒がせるな」と言われたのです。そして次に語られたのが、まさに「道」についてでした。「あなたがたのために場所を用意しに行く」とは、主イエスが十字架にかけられ、復活され、昇天されることです。これは、主イエスが私たちと神様との間をつなぐ「道」を整え、準備してくださることです。
しかし、十二弟子のひとりのトマスは主イエスの言葉に反論します。ヨハネ福音書には、トマスは三度登場しますが、いずれの言動もどこか懐疑的で、場違いな発言をします。しかし、このトマスの発言を通して、主イエスの大切な言葉が述べられています。

一度目は、11章16節、ベタニアの村で、すでに死んだとされている「ラザロのところに行こう」と主イエスが言われたとき、トマスは「我々も行って、一緒に死のうではないか」と場違いな答えをします。しかし、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる……このことを信じるか」という大切な言葉を述べられるのです。
そして、二度目が今回のところです。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」という主イエスの言葉を受けて、トマスが「主よ、どこへ行かれるのか私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言うのです。このトマスの懐疑的な言葉を受けて、主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
 
「道」という言葉は、ヘブライ語で「デレク」といいます。この言葉の語源は「踏みつける」という意味の動詞です。主イエスが「私が道」だと言われるとき、私は、大勢の人から踏みつけられ、十字架にかけられるために、この世に来た。そのことによって、さまようあなたたちが、帰るべき「故郷」、永遠の命に至る「道」が用意されていると言われるのでした。主イエスの言葉に、弟子たちはどう理解したのか、ヨハネ福音書は、トマスに焦点をあてて、イエスの復活後に、三度目の登場をさせるのです。20章以下です。自分以外の弟子たちは、復活された主イエスに会って喜んでいるのを見て、トマスは、釘のあとに指を入れてみるまで主イエスの復活を信じないと言うのでした。突然目の前に復活の主が現れ、「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われた時、ようやくトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をするのでした。このあと「わたしを見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである」と主イエスの最も大切な言葉が語られます。

私たちも、どこに向かっているのか分からなくなる時があります。不安になり、動揺し、心を騒がせるのです。そしてトマスのように見える物だけを頼ろうとするのです。しかし、主は、ご自分を通って父のところに行かれたように、私たちも、主イエスを通って、主のもとへ、そして、父のもとに帰る、その「道」があることを信じて歩んでいきたいと思います。

2014年5月18日 春の伝道礼拝「いのちの道を歩く」(佐原繁子・日本基督教団教師)の説教を掲載いたします。

<2014年春の伝道礼拝>第2回(5月18日)「いのちの道を歩く」               
日本キリスト教団牧師 佐原繁子先生

詩編    16:1~11
使徒言行録 2:29~31

<メッセージ>

復活の証人が裏付けとして引用した詩編16編

イエス・キリストは十字架につけられた後、3日目によみがえられました。初代教会の証人達はこのキリストの勝利を目撃しました。その事実を裏付けるために、彼らは今日読んで頂いた詩編16編を引用して、この中にイエス・キリストの復活の事実が既に予告されていることを主張したのです。
10節にこう歌われています。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」と。イエス・キリストの復活の事実を証明するために引用されたこの詩編16編とは、どのような詩なのでしょうか。
「陰府」とは死んで行く場所であり、地下の暗い場所であり行ったら最後、決して戻ることのない場所だとこの時代の人々は考えていました。死とは私たち現代人が考えているような「肉体の働きが停止する」というような単純な意味ではなかったのです。
聖書が言う「いのち」とは、たとえ人生にいろいろな苦難や悲哀があろうとも、やがて年老いて肉体の死がやってくることがあっても、決して終わることのない「いのち」です。その「いのち」はどこまでも続く、永遠に至るところの「道」でなければなりません。一本の道が自分の前を通っている。そしてどんな嵐が襲って来ようが、決してその道はなくならない。
命に至る道は穴だらけのでこぼこ道かもしれません。しかし一見ぬかるみの泥道であっても、キリストが示す道の終着点には、絶対確実な神の支配する国が待っているのです。それが天国です。示される道は、キリストご自身です。それこそが聖書の言っている「いのちの道」であり、その道を歩く人は生きていくのです。
ルターは言っています。「私はどんなことがあってもキリストについて行く。たとえそこが地獄のような場所であっても、そこにキリストがおられるなら、私にとってそこが天国なのだ」と。

教会に導かれ、「地獄からの脱出」をして以来の私の歩み

私たちの人生という道では必ずどこかで分かれ道に遭遇します。幅の広い道と狭い道。そこで私たちは踏み誤ってしまいます。狭い道は誰も選びたくない道です。ある時には困難に耐え、ある時には孤独をこらえて歩かなければなりません。しかし歩き通す人のみが「安息・平安」に到達すると約束されているのです。
ところが私たちクリスチャンといえども、広い安楽な道を選びがちです。私も若かりし頃、道に迷い続け、まるで「精神の安楽死」状態だったと言えるかも知れません。見るに見かねた神様は18歳の私を教会に招いて下さいました。兄が行っていた近所の教会に通うようになりました。それが私にとって「地獄からの脱出」だったのかも知れません。それ以来約50年、キリスト者としての道を歩み続けております。
ルーテル学院大学神学科に入学したのは50代後半でした。その後ルーテル神学校で、牧師となるべく4年間勉強に明け暮れました。日本キリスト教団に在籍したまま、ルーテルに転籍しないで、ルーテルでの学びを続け通しました。その間、私はまるで異邦人のようでした。教団教師試験を受けたのは65歳の頃でした。
なぜか私はルーテルの牧師にはなりませんでした。日本基督教団のどこに魅力を感じていたのかは分かりません。この道は決してなだらかな道とは言えませんでした。息切れし、呼吸困難に陥り、いつ落下するかも知れない危機にしばしば遭遇しました。それが伝道者に向けての歩み始めでした。
今でも寄せては返す荒波のように危機が襲って参ります。牧師を志願した頃と同様に、「明日はどうなるか分からない」感覚が私の心の中に暗雲のように立ちこめております。それはどうしてなのか、自己理解の及ばないところです。
しかし私に今言えることは「今日、私は、伝道者としてこの世にある」ということだけです。明日もその一歩を神が支えて下さり、変わらず私でいることを願っていますが、それは神のみ手の内にあることだと思っています。

イエスご自身が「その道」

人はいつ病気になるか分かりません。いつしか老いがしのび寄り、だんだん孤独になっていきます。このような不安定な人生において、どうしたら揺るがない神の平安に守られ、御許に至れるのか、しみじみと思うことです。
しかし今日与えられた御言葉から素晴らしい慰めが与えられます。イエスご自身が「その道」であると言われるのです。主イエスは、この道を「あちらだ、こちらだ」と示すのではなく、「私がその道」なのだと言われるのです。そこを歩く私たちに同伴し、間違いなく目的地へ連れて行って下さるのです。この世は私たち人間を暗闇と飢え、偽りと死の中に放り出したままです。しかしイエスはこの暗闇の中へ一条(ひとすじ)の光のように入って来られ、彼を信じる者の手を取って、確実に永遠の命へと導いて下さるのです。
初代教会の信者達は、周りの人々から「この道に従う者」と呼ばれました。キリスト教という言葉はなく、ただ「道」と呼ばれたのです。
この詩編16編の詩人がどのような危機にあったのか、その詳細は一切書かれていません。しかし彼は、人生の危機か、危険か、病か、何かしらの不幸から「いのちの道」に入ることが出来たと、はっきり書いています。つまりこの詩人は、神との交わりを与えられたのです。そして出会ったその時、神さまが「いのちの道」を示してくださったと告白しているのです。
「あなたは私の主。あなたのほかに私の幸いはありません」(2節)。「主はわたしに与えられた分、私の杯。主は私の運命を支える方」(5節)。 
人生の重荷は昔も今も何ら変わらないと思います。労苦、老い、死、どんな試練に対しても、主は大きな突破口を開けてくださいます。それが主の復活です。神は、イエス・キリストを私たちに遣わし、彼を信じる者にとこしえのいのちを約束されました。そして私たちを決してお見捨てにならないと約束してくださいました。私の前に、あなたがたの右に、主は付き添い、私たちと共に歩んでくださるのです。

2014年5月11日、春の伝道礼拝「荒れ野に道を備えよ」(小海基・荻窪教会牧師)の説教を掲載いたします。

<2014年春の伝道礼拝>第1回(5月11日)「荒れ野に道を備えよ」
荻窪教会牧師 小海 基 先生

イザヤ書40:3〜8
マタイによる福音書 7:13~14
<メッセージ>

聖書の信仰で「道」は大きな意味を持っています。道が定まっていない砂漠地帯で生まれた旧約聖書、道が整備されて「すべての道はローマに通ず」と言われた新約聖書においても道は特別の意味を持つキーワードです。
聖書の語る歴史は循環的なものでなく、単なる地上の一本道でもなく救いの道、救い主を迎える道、真理へ至る道、永遠の命に至る道だと語るのです。マタイ7章の言う命への細い道です。
今日読んだイザヤ書40章は預言者イザヤのお弟子さんの預言の第一声、それも70年間のバビロニア捕囚で奴隷であった日々が終わる時に響いた第一声です。「荒れ野に道を備えよ」の個所はアドヴェントの季節によく読まれる個所ですが、今日は春の伝道礼拝のテーマ「道」に即して読みたいと思うのです。

この部分の解釈で、私が最も深い解釈と思うのは、D・ボンヘッファーがベルリンのテーゲル刑務所の獄中で書いた未完の『倫理』という最後の書物に出て来る解釈です。死が近い時にあって倫理についてどんなことを書くのかだけでも非常に興味深いところですが、彼はここで、〈究極のもの〉と〈究極以前のもの〉という非常に厳しい問いを考察するのです。
ボンヘッファーが生きていたような全体主義の中で真実のために殉教も決断しなければならない時代では何を捨てても〈究極のもの〉を追求するという急進的な考えと、命のために〈究極以前のもの〉に留まるかという妥協的生き方がまるで二者選択のように迫ってくる大きな問題であったわけです。
ボンヘッファーは「急進主義者は時間を憎み、妥協主義者は永遠を憎む。……急進主義は中庸を嫌い、妥協主義は測り知れないものを嫌う。急進主義は現実にあるものを嫌い、妥協主義は御言葉を嫌う」と言い、さらに「この対立から明らかになることは、両者の態度・生き方がいずれもキリストに反するものであり、対立的に考えられていることはキリストにおいては一つとなっているからである。あらゆる急進主義と妥協主義の彼方にある出会いをこのイザヤ書40章は語っている」と言うのです。またボンヘッファーは、道備えとは悔い改めなのだ。神様は私たちを人間的であるように造られたのに、私たちはなぜ逸れているのか。もう一度主を迎えるにふさわしい悔い改めを必要としていると言っています。
ボンヘッファーはこういうことをテーゲルの獄中でいつ死が襲いかかるか分からない30代の時にずっと考え、差し入れられたクッキーや葉巻の包み紙の裏にひたすら書き綴っていたのです。
〈究極的なもの〉が達成される日が必ず来ると思い願っているからこそ、〈究極以前のもの〉に責任を持っていく、それが私たちの道備えです。

子どもの説教で、谷川俊太郎の最新刊の絵本『かないくん』を読みました。
どんな人も自分がやがて一人で死を背負わなければならないと知っています。普段は考えなくとも死の問題はバトンタッチのようにリレーされてその問いは引き継がれています。この問題に実は聖書の語る救いが関わっているのです。死という別れが最後の言葉でなく命なのだと聖書は意外なことを語るのです。
人は皆、クリスチャンであろうとなかろうと狭い命に至る道を歩んでいます。だからこそ私たちは、教会の外にいる人たちと共に助け合いつつ、主を知っている私たちが〈究極以前のもの〉に責任を持って歩んでいかなければなりません。それが道を備えることになるのです。