<2019年春の伝道礼拝>第3回6月2日説教要旨

<2019年春の伝道礼拝>第3回6月2日説教要旨

愛するとき……ひとりよりふたりが良い

コヘレトへの言葉 4:9~10   ルカによる福音書 17:20~21

龍口奈里子

<メッセージ>
 来年の東京オリンピックを招致する時に、「おもてなし」という言葉があたかも日本特有の美学であるかのようなスピーチが話題になりました。
 しかし聖書にも「旅人をもてなすよう努めなさい」(ローマの信徒への手紙12章13節)など多く出てきます。英語ではhospitality。その語源のギリシャ語では、「見知らぬ人に友情を示すこと、愛を示すこと」という意味です。「旅人」や「寄留者」といった、自分たちがまだ出会ったことのない人、人が築いた枠の中から逸れてしまった人、排除されてしまった人と友となること、その人に愛を示すことが、聖書のいう誰かを「もてなす」こと、「おもてなし」ということです。
 ラルシュという施設の創設者ジャン・バニエ司祭は、知的な障碍を持つ人が施設や病院で、その存在を認められず、「誰かより劣るもの、ダメなもの」というレッテルを貼られて苦しんでいる姿に触れ、彼らと一つの家庭・家族として寄り添い、生活を分かち合いたいという思いから「ラルシュ」を始めました。
 この共同体の理念は、そこに住む人が互いにケアーしあうことでした。「ケアーする」は日本語に訳すと、「心を配る」、「人をもてなす」、いうなれば「おもてなし」です。
 語源のラテン語「クーラ」は「心を痛めること、誰かと一緒に叫ぶこと」です。私たちは誰かを「ケアーする」ことは、AがBに「心を配る」ことだと思いがちですが、語源の意味から考えると、単にAからBへの一方通行的な心配りではなく、時に入れ替わって、BがAに心を配る。だから、相手を励ましているようで励まされ、慰めているようで慰められている、そのような相互の関係が生まれることが「ケアー」「もてなし」の語源の意味なのです。
 創世記2章18節に「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とあります。主なる神は、アダムが「助ける者」としてエバを創造しただけでなく、逆にエバもアダムを「助ける者」として、互いに助け合い、励ましあい、ケアーする者として、人間を創造されました。
 今日の旧約箇所にも同じことが記されています。共に労苦しあう二人、どちらか一方が「倒れ」たら、もう一方が「助け起こす」そのような関係性の中で、「ひとりよりもふたりが良い」と言います。この先の12節に、「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」とあり、ここで糸が2本ではなく、3本の糸になっているのは、「わたしとあなた」そしてもう1本の糸は明らかに主なる神の介在を指し示しています。
 新約聖書ヨハネによる福音書15章「ぶどうの木」のたとえの中で、「わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」「わたしの喜びがあなたがたの内にあるとき、あなたがたの喜びが満たされるのだ」と主イエスは述べられています。
 キリストの愛が私たちの内に留まっているから、わたしたちはキリストにあってひとつとされ、互いに愛し合い、喜びに満たされる。まさに「三つよりの糸は切れにくい」と同じです。
 今日の新約箇所で、主は「私たちの内に」ではなく、「私たちの間に」とも語っておられます。「神の国」とは、神様の御心が現れるところです。それは遠い空の彼方でも、はるか地平線の彼方でもなく、「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と主イエスは言われました。
 私たちも「私たちの間に」宿って下さるキリストの愛から離れないようにして、互いに「助ける者」として、「ケアー」しあい、神を愛し、人を愛する者とされたいと思います。

<2019年春の伝道礼拝>第2回(5月26日)説教要旨

<2019年春の伝道礼拝>第2回(5月26日)説教要旨

愛するとき……–民族差別のない平和の奇跡が創られる

サムエル記上 25:32~35   
マタイによる福音書 5:9
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」
  
高麗博物館名誉館長、文化センター・アリラン副理事長
宋富子(ソン・プジャ)先生

<メッセージ>
はじめに

 アンニョン(安寧)ハセヨ! 皆さんおはようございます。
 この祝福され、恵まれた礼拝の時、異なった二つの民族の私たちの心が一つになって、イエス様の聖霊のみ力によって私たちの心が燃え、平和を創れるよう祈ります。

出会いは神様の摂理、李仁夏(イ・インハ)先生との出会い

 私は在日朝鮮人二世として生まれました。そのため小学校時代、周りの子どもたちからいじめられ、3年生からは死ぬことばかり考えていました。
 結婚して川崎市に住むようになり4人の子どもの親になりました。子どもが通う保育園で在日大韓基督教会、川崎教会の牧師で園長の李仁夏先生の父母会での挨拶の言葉「自分を愛するように自分の隣り人を愛しなさい。というみ言葉にそって保育します。自分を愛する意味で、韓国朝鮮人の方は民族名の本名を親子で使用して頂きます。今は植民地時代ではありませんので自由です」。
 私にとっては民族名など、とんでもないことです。植民地って何だろう。李先生の言葉が電流のように体に入ってきました。自分を愛するように隣り人を愛する。凄い凄い言葉です。その夜は朝まで眠れませんでした。私は社会の仕組みも、歴史も何も知らない。自分の無知に愕然としました。
 翌日、聖書研究会に出席しました。担当は、小杉尅次副牧師です。その声は初めて聞く優しい人間の声でした。今村秀子(60歳)おばあちゃんのお祈りにびっくりしました。
 両手で顔を覆い泣きながら「天の神様、どうか日本人の罪を赦して下さい。オモニ(母)さんたちが神様の聖霊のみ力によって本当の名前で生きられるようにして下さい」。指の間から涙がこぼれています。お二人の生き様を見て、6ケ月後31歳で受洗しました。

民族差別を無くして平和を創ることが使命と確信する

 私の生命は神様の愛で創られた。私は差別されるために生まれたのではない。自分を愛して隣人の日本人を愛するために生まれたのだ。「差別を無くして平和を創る」ために、イエス様は私を選んで下さったのだと確信しました。
 私は中学を卒業していても、漢字も読めない、割算、掛算も出来ない学力でした。
 夫の仕事は自動車修理工場を経営し、従業員が7人住み込みでしたので、家族も含め13人分の食事作りに追われる毎日でしたが、心が熱く燃えている私は夢中で聖書を読み、画用紙にみ言葉を書いて台所や柱、トイレ、天井に貼り、覚えました。
 「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11・13)。
 これからは神の子として気高く生きたい、人間らしく、やさしい気持で平和を創る人間になりたいと思いました。宝石と日本の高価な着物を処分して歴史の本を買って学びました。
 1970年、在日韓国人朴鐘碩(パク・チョンソク、19歳)が大企業の日立製作所を日本名で入社試験を受け合格したのですが、韓国人ということで不採用になり、裁判を起こしました。李先生や教会の青年も頑張り、多くの牧師、特に中平健吉弁護士の支援、キリスト者の支援は大きく、3年半で勝利しました。この運動は全国に広がり、民族差別撤廃運動の先駆けとなりました。
 私も初めてプラカードを持って銀座をデモして叫びました。社会の悪に抗い、正す生き方こそ平和を創る一歩と体で知りました。
 その後も、児童手当、川崎信用金庫融資問題や市営住宅入居、川崎市教育委員会との交渉など、数々の民族差別撤廃運動に関わりました。

日本は在日朝鮮人にとって人権では生き地獄

 日本人の一人一人は優しい良い方ばかりです。社会の差別の構造と制度は政権が作ります。しかし行うのは、加害の真実の歴史を学んでいないで、偏見を植え込まれている市民です。子どもは親を真似ていじめます。大切なのは愚民化(無知)政策に気づいて歴史を知り、神の愛に生きることです。
 日本の植民地政策で、日本に約230万人の朝鮮人が自分の土地を奪われたり、強制連行で働かされました。戦後、大半の朝鮮人は祖国に帰国しましたが、65万人が日本に残りました。神様が日本の平和を創るために残して下さったのだと信じています。戦後日本が在日朝鮮人に行った一番酷い事は1947年5月3日、日本国憲法が施行される前日の5月2日、突然に、天皇の最後の勅令として、台湾人、朝鮮人は外国人とみなすとしました。その意味は、朝鮮人は日本人とされて多くの者が戦死しましたが、軍属や負傷者、遺族に対して、保障や遺族年金等から除外するためでした。
 また外国人登録令を公布し、指紋を押捺させ厳しく取り締まりました。政府は植民地支配を反省して、日本に住む朝鮮人に対して、違いを認め合う共生共存でなく、治安対象と見、排除と同化政策を行いました。
 戦後74年を迎えた今も在日朝鮮人の85パーセントは日本名で出自を隠して生きています。ありのままで生きられない在日の心身症は日本人の5倍です。未だに特別永住外国人の朝鮮人に参政権も付与しません。先進国で付与していないのは日本だけです。これは人としての最低の権利です。納税は課せられています。
 大学で教員資格を取得しても、公立の小、中、高校の教員になれず非常勤講師です。現在も、結婚、就職、入居と多くの見えない差別と偏見のために日本名で日本国籍を取得します。日本国籍の姪は私に電話をかけてきて「長男が日本人と結婚するの。結婚式に民族衣装を着て来ないでネ。朝鮮語を絶対話さないでネ」と頼みます。

ぜひ文化センター・アリランの賛助会員に~1日28円、1年1万円~

 私は以前、高麗博物館に「一人芝居」をしながら20年間関わりましたが、2007年に文化センター・アリランの理事に就任し、現在副理事長をしています。アリランの目的は日朝の真実の歴史を伝えて、市民と在日が出会って交流し、信頼関係を築いて「民族差別のない平等で平和な社会を創る」ことにあります。韓国・朝鮮と日本に関する近現代史の歴史書や資料を5万点所蔵する私設図書館です。
 在日朝鮮人が出資し市民と共に運営する図書館は日本で初めてです。アリランは日本の歴史教育に欠けているところを補完する場であり、日本の中学、高校、大学のゼミの実習の場でもあります。日朝日韓関係を和解に導き、自由な交流を実現するためにも、なくてはならない場です。
 運営はすべて会員の会費と寄付で賄われています。1日28円、1年で1万円の賛助会員です。10万人の心に繋ぐと1年で10億円です。東京にすぐに建設できます。
 皆さん、美しいパンフレットの中の小海牧師の賛助会員へのお薦めの言葉を読んで下さい。イエスさまの愛に溢れています。
 この活動をぜひ霊的に受け容れて下さいませ。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」(コロサイ3・23)。
 皆さんの隣人愛を信じます。

<2019年春の伝道礼拝>第1回5月12日説教要旨

<2019年春の伝道礼拝>第1回5月12日説教要旨

愛するとき……光の中に留まり続ける

詩編   139:11~12    ヨハネの手紙Ⅰ 2:7~11

小海 基

<メッセージ>

 現在のように世界情勢が不安定になっている中、国境や文化や民族を超えて世界宗教が平和の担い手になることは大変重要です。戦争を起こしてしまえば地球という星が存在し続けることが出来るか否かの決定的危機を抱えています。
 かつては宗教やイデオロギーを超えて、人間の理性で何とかできると考えていた時もありました。哲学の時代といっても良いでしょう。
 宗教というのは、人間の力の限界を認めて人間の外にある創造者、絶対者に耳を傾けさせるものです。どんなに人間の言葉で感情に走り、熱を帯びていても、もう一度冷静にさせ、深く共に考えることに立ち戻らせるものです。
 ところが現在では、不幸なことに世界宗教さえも不信感をたきつけ、駆り立てる用い方がされているのです。本来成熟した国境、民族、文化を超えた「キリスト教」「イスラム教」「仏教」……と言った世界宗教こそが一民族一国家のいらだちや国益を超える視点をもたらすものであるはずなのに、昨今起こっている事件は、モスクや礼拝堂、シナゴーグがテロに遭い、報復が繰り返されています。もう一度私たちは神の言葉から聴いて冷静になり、原点に立ち戻らなければならない時にあると思います。
 今日はヨハネの手紙Ⅰを読みました。この手紙は紀元110年頃、キリスト教内部で、仮現論(グノーシス)といわれるイエス・キリストは肉を持たないという異端の考えが蔓延し、教会分裂をしかねない危機にあった時代に書かれた手紙です。
 分裂の危機を迎えると人間というのは実に愚かなものです。仮想の敵をでっちあげて敵対し、憎しみを向け一致しようとし始めるのです。この動きに対してヨハネの手紙Ⅰでは、イエス・キリストが私たちのもとに来られて、私たちの罪のために十字架にかかり、復活し、救いをもたらせてくださったという原点に立ち返れとすすめるのです。それが光の中を歩むということなのだと語るのです。
 光と闇と二つの対立概念で語られていますが等価値ではありません。光は圧倒的に闇にまさっているのです。兄弟姉妹を愛する中に光があると繰り返し語るヨハネの手紙Ⅰでは、「神は光」「神は愛」だと言い切っています。私たちを救うために来て下さったのは、憎しみ合うためではなく、私たちを兄弟姉妹として愛し合うために来てくださったのです。愛し合わなければ光の中に留まっていることにならないのです。創世記によれば、最初に神が創造されたのも光でした(創世記1章1~5節)。
 物理学者アイザック・ニュートンは早熟の天才でした。22歳で「万有引力の法則」をとなえ、微分積分を発明し、「ニュートン力学」は今でも自然科学の基本です。26歳でケンブリッジ大学の教授になりました。その後は初期の神の秩序の発見からそれて、錬金術、オカルティズムへと変わっていき、データを捏造して信用を失い、最後は精神的に異常をきたし、85歳で妹に看取られて寂しく亡くなりました。ウエストミンスター寺院に葬られたニュートンの墓碑銘は「自然と自然の法則は闇に留まっていた。神は言われた。『ニュートン出でよ』すべては光の中に現れた」。
 これは、イギリスの有名な詩人A・ホープの詩から引用された墓碑銘だと言われています。ニュートンの85年の後半生と、キリスト教のヨハネの手紙Ⅰの時代は、今日の日本のキリスト教の陥りかねない姿です。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す」(詩編139篇11~12節)神さまは夜の闇の中にも光を放っておられるのです。愛することは意志、決意を伴うことです。
 神のことばの原点に立ち返って、私たちは互いに愛し合う時に光の中に留まり続けることができるのです。ヨハネのことばを胸に刻み歩み続けましょう。