2017年12月24日(日)18時から キャンドルサービス 

キャンドルサービス
2017年12月24日(日)18時から
於:荻窪教会

※ クリスマス礼拝:12月24日(日)午前10時30分
※ 教会学校の祝会:12月17日(日)午後2時~4時
                   (献金をご用意ください)

※東京バッハ合唱団クリスマス特別演奏会:12月16日(土)午後14時より
≪ロ短調ミサ曲≫より抜粋  カンタータ≪待ちのぞむ みななれを≫
 入場無料

どなたでもご自由におこしください。 

<2017年秋の伝道礼拝>第3回(10月22日)説教要旨

<2017年秋の伝道礼拝>第3回(10月22日)説教要旨
 「自分の家に帰りなさい」

申命記  34:1~4
ルカによる福音書 8:32~39

荻窪教会副牧師
龍口 奈里子

<メッセージ>

 今回の伝道礼拝のテーマは「選択」です。そこで今日は2人の人物の「選択」について考えてみたいと思います。この2人は自分の人生の目標を自分自身で選択することが許されなかった人たちです。
ひとりは、主イエスと一緒に伝道することを願ったけれども、「自分の家に帰りなさい」と言われた男、もう一人は、40年の旅路の最後に、約束の地を見たいと望みながらも、ついに約束の土地に足を踏み入れることが叶わないまま死んだモーセです。
「未完成の人生」を余儀なくされた2人から、それぞれに託された「選択」について考えてみたいと思います。
主イエスたち一行は向こう岸にある「ゲラサ人の地方」に着きました。そこはデカポリス地方と呼ばれる都市でした。豚しかいないような町ではなく、文明の進んだ、異邦人の住む町でした。その地方に主イエスが来るやいなや、悪霊に取りつかれた男がやって来ました。この男は長い間、衣服を身に着けず、墓場を住まいとしていて、いわゆる「普通の」人間関係が保てないために、誰も近づけない「墓場」をねぐらにして、人々との交わりを避けて生きていたのかもしれません。しかし、町の人々は、この世の常識や秩序の中に繋ぎ止めようとして、彼に「足枷をはめさせ、監視していた」のでした。主イエスは、この男に取りついた沢山の悪霊に名を尋ねると、「レギオン」と答え、「頼むから苦しめないでくれ」と主に必死に願うのでした。こうやって悪霊たちは、自分の方から主イエスに近づき、主イエスの力によって滅ぼされてゆくのでした。
町の人々がその出来事を見ようとやって来ると、正気を取り戻した男が服を着、主イエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなり、主イエスにゲラサ地方からすぐに出て行ってほしいと願いました。そこで主イエスたちが舟に乗って帰ろうした時、悪霊たちを追い出してもらった男は、自分もお供をしたいと願うのでした。しかし、主イエスの答えは「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」ということでした。彼の「選択」した道は、自分の願いではなく、主イエスの考えに従うことでした。自分の力ではなく、たとえ弱さを抱えながらも、主イエスから託された「選択」を受け入れ、これからの人生を歩み始めるのでした。
出エジプトの指導者として、神に立てられたモーセ。彼は約束の地を目指して荒野の40年の旅路をいよいよ終えようとしていた、そのとき、神様から、約束の地に入ることは出来ないといわれるのでした。それはかつてモーセがカナンの地に入ることを切に望んだのに、主なる神がモーセに告げられた言葉と同様であります。
「もうよい。この事を二度と口にしてはならない」(申命記3章26節)。新共同訳の前の口語訳聖書では「おまえはもはや足りている……」と記されています。モーセはこの言葉を胸に留めながら、40年の旅路を旅してきたのです。だからこそ、自分の選択する道、自分の選択する時、自分の選択する願いを神から与えられたものとして、その意味を問い、その託された命を燃やし続けて生きることができたのでしょう。
私たちも、託された命を生きる時、「あなたはもはや足りている」という主のみ声を聞く者でありたいと思います。主によって「選ばれ」、主と隣人と共に生きる者とされたいと思います。

<2017年秋の伝道礼拝>第2回(10月15日)説教要旨

<2017年秋の伝道礼拝>第2回(10月15日)説教要旨
「向こう岸へわたろう」
八王子ベテル伝道所牧師
千原  創(はじめ)
申命記  7:6-8
マルコによる福音書4:35-5:20

<メッセージ>

湖の「向こう岸」とは知らない新しい世界

イエス様は、基本的に湖のこちら側で宣教活動をしておられました。そこでは、いつもおびただしい群衆が集まり、語られる福音に誰しもが耳を傾けていた状況がありました。であるならば、もっとそうした群衆のために語り続けてもよかったでしょうし、湖のこちら側の別の場所で、また別の群衆を集めて神様の愛を語り続けてもよかったのです。
しかし、イエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言われ、あちら側へと向かわれたのでした。向こう岸は「ゲラサ人の地方」であり、ユダヤ人の地方ではありません。つまりあちら側は、こちら側のユダヤの人々からすると、生活習慣、文化や価値観も違う人たちが住む、知らない新しい世界なのです。
しかも向こう岸に渡るためには激しい突風の中、船に乗って航海に乗り出さないといけないのです。このあたりの個所は、春の伝道礼拝で語られた部分ですので端折らせていただきます。
さらに、向こう岸に行くには船のチャーターも必要でしょうし、見知らぬ地でどうなるかわからない状況のため、ある程度のお金も必要でしょう。また弟子たちも一緒ですから、なおさら経費が必要なはずです。しかし地元にはイエス様に従う多くの群衆がいましたから費用の調達はカンパや献金などで、すぐにまかなえたのかもしれません。
そうした中で実際に向こう岸に着いてみるとどうでしょうか。穢れた霊に取りつかれた一人をイエス様が救われるという出来事が起こったのです。つまり、まだ宣教されていない、新しい地に自ら赴き、そこで出会う人々にも新規に宣教活動をされておられたということになります。
 
私の伝道所体験を含め、様々な形がある福音宣教の業

 少し私自身のお話をさせていただきます。私は、両親がクリスチャンの家庭に生まれ育ちました。高校まで山口県で生活をしていました。毎週日曜日には欠かさず教会にも通っていましたが、そこはいわゆる地方の小規模教会です。幼少期に出席していた教会は、記憶もわずかですが、礼拝出席が20名もいかないような教会でした。後に通った別の伝道所は借家で開拓伝道をしているところでした。そうした小規模教会・伝道所には、子どもの礼拝などもありませんから、基本的に大人の礼拝に出る形の教会生活です。そうした教会生活の中で大人になりましたから、私にとっての教会は、そうした地方の小規模教会であって、荻窪教会のような規模の教会は私にとっては落ち着かない場所です。
よく、開拓伝道で大変ですねとか、よく北海道の興部(おこっぺ)に赴任されましたね、とか言われるのですが、私にとっては、そうした教会が当たり前の教会なのです。
 福音宣教の働きというのは、都会の人口の多い場所で、ある程度の規模の教会として活動していくこともあれば、人口が少ない地域にあっても、またキリスト教を受け入れることの難しい土地柄にあって地道に細々と行われていたりと、様々な形で、その場その場で行われていくのです。
 
「向こう岸」での伝道活動の実際は一人が救われただけ

今日の聖書ではどうでしょうか。イエス様は、あえて向こう岸へ渡ろうとおっしゃいました。船をチャーターし、向こう岸での宣教活動がどのくらいの期間になるのかも誰も分からない中で、ある程度の費用をもって出かけたと思われます。しかし実際は、一人の人が救われただけです。湖のこちら側、つまり地元での宣教活動のようにおびただしい群衆がイエス様を求め、神様の話を聞きに来たわけではありません。むしろ町の人々は、イエス様に詰め寄り、5章17節にあるように、「人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言い出した。」というのです。イエス様に対し、ここから出ていってほしいと、地元住民は要求したのです。イエス様は、そうした地元住民の要求になすすべもなく、向こう岸での宣教活動を中止し、撤退を余儀なくされるのです。
 皆さんは、このイエス様の向こう岸への伝道活動をどう総括されるでしょうか。結局、たった一人を救っただけで、すぐに舞い戻ってきたイエス様。向こう岸でも、おびただしい群衆の中で神さまを讃美する人々が起こされるような宣教活動を期待して、支援してきた人たちは、どのような思いだったのでしょう。
 このように目に見える事柄だけに意識がいくと、人間の心には様々な不信な思いが起こるのです。しかし、聖書の神様は、目に見えない私たちの思いに寄り添い、その命を支え守ろうとされるのです。5章19節で救われた人に対して、イエス様が語りかけます。
「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」主があなたを憐れまれたと、イエス様はおっしゃいました。
イエス様は、この一人の男を憐れまれるために、わざわざ時間と、費用と労力をかけて、しかも嵐の湖で航海するという命を懸けて向こう岸へと渡られたのです。費用対効果の面から考えると無駄の多い業ですし、たった一人を救っただけで、住民の反対運動に遭い、撤退せざるを得なくなるのです。しかし、それでもその一人の男を神様は憐れまれるために必死になって向こう岸へと渡られるのです。そして、これこそが聖書の神様が示す愛の業なのです。
 本日お読みいただいた旧約聖書、申命記7章には、「あなたたちを選ばれたのは……他のどの民よりも数が多かったからではない。……他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、……救い出されたのである」と記されています。
主イエスは、誰よりも貧弱だった向こう岸にいるこの一人の男に心惹かれ、主の愛のゆえに救い出されました。そして、人々が見捨て、墓場に捨て置き、相手にしないこの男を、主イエスは主の聖なる民である、宝の民だと語られるのです。
 神様は、いつも私たち一人一人に目を留めておられます。そして私たちがくじけそうになる時、立ち止まり、うずくまる時、命を懸けて私たちのもとに来られ、励まし力づけ、私はあなたを選び、あなたを愛し、あなたを憐れむとおっしゃられるのです。そして、私たちの事を、主の聖なる民である。宝の民だと宣言してくださるのです。神様は、そのように私たちの命を守り、この命が祝福され、尊ばれ、生かされることを望んでおられるのです。
 この現実の社会の中で生きていくときに、私たちはたくさんの、重荷や弱さを担います。し
かし主イエスは、そうしたレギオンから、私たちを解放し、神様の恵みの中で生かすために導
かれます。そうした神が私たちの味方となって、いつもそばにおられることを信じ、主イエス
を見つめ、神様の愛の中で生きる者でありたいと願います。

<2017年秋の伝道礼拝>第1回(10月8日)説教要旨

<2017年秋の伝道礼拝>第1回(10月8日)説教要旨
「主によって旅立ち、主によってとどまる」
民数記    9:15~23
コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:1~13

荻窪教会牧師
小海  基

<メッセージ>

星野香(かおる)神学生が昨年度1年間牧会実習をされたひばりが丘教会は、ご自身も卒業された日本聖書神学校でキリスト教教育を教えておられた山田稔(みのる)牧師が40年以上、プレハブの礼拝堂で開拓伝道を続けていた教会です。教会員も増えて伝道所から第二種教会、第一種教会へと成長しても、昔ながらのプレハブ礼拝堂で礼拝を守り続けていました。
そして私たちの会堂建築より少し前に、荻窪教会と同じ設計者の田淵諭(さとし)先生による礼拝堂が完成したのです。私は献堂式に出席したのですが、山田牧師は説教でまさに今日の民数記を引いて次のように語られました。

「うちのプレハブの礼拝堂は西支区一のボロボロ礼拝堂だった。教会員、近隣牧師からも早く建て直しを、と言われ続けてきた。しかし教会は建物じゃない。この世の荒れ野を旅する群れなのだと自分は語り続けてきた。
建築費用の事情もあるが、神の群れは民数記の民のように、神様の示される昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて旅を続けなければならない。自分たちの目から見て、『今日は旅立ちにふさわしい日だ』と思えても、雲がとどまり続けている限りは、絶対に動いてはならない。そして神様が動け、と命ぜられたので、私たちはこの会堂建築に踏み切って今日を迎えたのだ」。

この10月の伝道月間のテーマは「選択」です。「旅立つ」か「とどまる」か。「渡る」のか「帰る」のか。その「選択」の根拠を何に置くのか。
今日配布された教会報「つのぶえ」234号に、5月の伝道礼拝にお呼びした道家紀一(どうけ・のりかず)牧師が開拓伝道されている立川からしだね伝道所と、来週お呼びする千原創(ちはら・はじめ)牧師が開拓伝道されている八王子ベテル伝道所の写真と記事が掲載されています。
どちらも教区総会で開拓伝道が決議され、一つは教区を挙げての開拓伝道、もう一つは親教会群伝道としての開拓伝道が続けられています。
今日の聖書の個所は初めての過越祭を荒野で祝った直後に神様が語られた言葉です。本来なら1年1カ月ほどで出エジプトの旅は終わって、約束の地での新しい生活が始まるはずだったのです。ところが偵察隊の報告(14章)の結果、出エジプトの荒れ野の旅路は、何と40年間もお預けになってしまうわけです。
神様の雲の柱、火の柱に頼らず、人間の判断で最短距離を行けば1カ月ちょっとの旅路で済むかも知れないのに、それを40年かけることの意味は何なのかということです。
二伝道所とも、必ずしも順調な歩みではありません。
立川では最初、南口のレンタルスペースで始まり、次に北口の1階に楽器屋があるビルの2階で礼拝を守りつつ、新たな礼拝場所を求め続け、このほど立川で伝道しているどの教派よりも駅から最も近くで、しかも文教地区に土地と建物を購入できたのです。
八王子は、八王子教会・金井直治牧師の私設礼拝堂でスタートし、早い一人立ちが可能と思われていましたが、金井牧師が急逝され、相続問題が起こり、現在地に移らざるを得なくなりました。しかし移転以降、受洗者が一人また一人と与えられています。
神の幕屋と共に歩んだイスラエルの民、二つの開拓伝道所の歩みを通して知らされることは、「停滞」や「回り道」の中に、むしろ神の恵みがあるということです。神によって旅立ち、とどまることで、与えられた人生の旅を歩んでまいりたいと思います。