<2017年秋の伝道礼拝>第1回(10月8日)説教要旨

<2017年秋の伝道礼拝>第1回(10月8日)説教要旨
「主によって旅立ち、主によってとどまる」
民数記    9:15~23
コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:1~13

荻窪教会牧師
小海  基

<メッセージ>

星野香(かおる)神学生が昨年度1年間牧会実習をされたひばりが丘教会は、ご自身も卒業された日本聖書神学校でキリスト教教育を教えておられた山田稔(みのる)牧師が40年以上、プレハブの礼拝堂で開拓伝道を続けていた教会です。教会員も増えて伝道所から第二種教会、第一種教会へと成長しても、昔ながらのプレハブ礼拝堂で礼拝を守り続けていました。
そして私たちの会堂建築より少し前に、荻窪教会と同じ設計者の田淵諭(さとし)先生による礼拝堂が完成したのです。私は献堂式に出席したのですが、山田牧師は説教でまさに今日の民数記を引いて次のように語られました。

「うちのプレハブの礼拝堂は西支区一のボロボロ礼拝堂だった。教会員、近隣牧師からも早く建て直しを、と言われ続けてきた。しかし教会は建物じゃない。この世の荒れ野を旅する群れなのだと自分は語り続けてきた。
建築費用の事情もあるが、神の群れは民数記の民のように、神様の示される昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて旅を続けなければならない。自分たちの目から見て、『今日は旅立ちにふさわしい日だ』と思えても、雲がとどまり続けている限りは、絶対に動いてはならない。そして神様が動け、と命ぜられたので、私たちはこの会堂建築に踏み切って今日を迎えたのだ」。

この10月の伝道月間のテーマは「選択」です。「旅立つ」か「とどまる」か。「渡る」のか「帰る」のか。その「選択」の根拠を何に置くのか。
今日配布された教会報「つのぶえ」234号に、5月の伝道礼拝にお呼びした道家紀一(どうけ・のりかず)牧師が開拓伝道されている立川からしだね伝道所と、来週お呼びする千原創(ちはら・はじめ)牧師が開拓伝道されている八王子ベテル伝道所の写真と記事が掲載されています。
どちらも教区総会で開拓伝道が決議され、一つは教区を挙げての開拓伝道、もう一つは親教会群伝道としての開拓伝道が続けられています。
今日の聖書の個所は初めての過越祭を荒野で祝った直後に神様が語られた言葉です。本来なら1年1カ月ほどで出エジプトの旅は終わって、約束の地での新しい生活が始まるはずだったのです。ところが偵察隊の報告(14章)の結果、出エジプトの荒れ野の旅路は、何と40年間もお預けになってしまうわけです。
神様の雲の柱、火の柱に頼らず、人間の判断で最短距離を行けば1カ月ちょっとの旅路で済むかも知れないのに、それを40年かけることの意味は何なのかということです。
二伝道所とも、必ずしも順調な歩みではありません。
立川では最初、南口のレンタルスペースで始まり、次に北口の1階に楽器屋があるビルの2階で礼拝を守りつつ、新たな礼拝場所を求め続け、このほど立川で伝道しているどの教派よりも駅から最も近くで、しかも文教地区に土地と建物を購入できたのです。
八王子は、八王子教会・金井直治牧師の私設礼拝堂でスタートし、早い一人立ちが可能と思われていましたが、金井牧師が急逝され、相続問題が起こり、現在地に移らざるを得なくなりました。しかし移転以降、受洗者が一人また一人と与えられています。
神の幕屋と共に歩んだイスラエルの民、二つの開拓伝道所の歩みを通して知らされることは、「停滞」や「回り道」の中に、むしろ神の恵みがあるということです。神によって旅立ち、とどまることで、与えられた人生の旅を歩んでまいりたいと思います。