2022年 クリスマス・メッセージ 新しい歌を主に向かって歌え

2022年クリスマス・メッセージ(荻窪教会副牧師  龍口奈里子)
新しい歌を主に向かって歌え

<聖書>
新しい歌を主に向かってうたい 美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
(詩編33篇3節)

<メッセージ>
クリスマスおめでとうございます。教会暦ではすでにアドヴェントから新年に入りましたが、日本の暦では来週の日曜日が元旦となり、まさに新しい年を迎えます。
コヘレトの言葉に「かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こり、太陽の下、新しいものは何一つない」(1章9節)とありますが、たしかに私たちは時代の流行には目を留め、「目新しい」ものには飛びつきますが、本当の「新しさ」には心を留めないのかもしれません。
しかし今日、み子イエス・キリストの誕生を共にお祝いし、クリスマスを迎えて、私たちはこの幼な子の小さな命によって、永遠の命に生かされている存在であることを想起させられ、新しい思いと希望をもって、ここから押し出されてゆくのです。

2022年、私たちの教会は新しいオルガンを与えられました。このオルガンの制作者であるアンドレア・ゼーニ氏をお迎えして夏に修養会を持ちましたが、その中でゼーニ氏はオルガンの「音」について説明されました。オルガンはたくさん並んだパイプが完成しても音は出ない。小さな空気孔を一本一本のパイプに施した時、初めて「音」が鳴るのだと。その音色は男声的な音色、女声的な音色など様々な音色の違いが交ざりあって1つの曲となる「音」を作り上げることができると教えられました。それはまるで礼拝で賛美する私たちの「声」のようであり、教会の姿そのものであると心から感じることができました。
その「声」はいつも私たちを励ましたり、喜びにあふれたものとしてくれます。

詩編の作者が賛美の歌を「新しい歌」というのもそこにあります。詩編の作者は人々の神への信仰の証しとして新しい歌を歌い続けてきました。それらは決して「目新しい」過ぎ去ってゆく「歌」ではなく「主に向かって」歌われる「新しい歌」なのでした。
ルターは3節の言葉から「音楽は神から与えられたもっとも美しくすばらしい贈り物のひとつ」であると言っています。
新しい年、私たちも主に向かって「喜びの叫びをあげ」このオルガンと共に主を賛美していきたいと思います。一人一人の「声」がひとつの「歌」となって響きわたるよう賛美し続けていきましょう。

2022年イースター・メッセージ(荻窪教会牧師 小海基)

2022年イースター・メッセージ
神に対して生きる
荻窪教会牧師  小海 基

<聖書>
 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい (ローマの信徒への手紙第6章11節)。

<メッセージ> 
 パウロのこの言葉からは、「復活」が単にイエスご自身に留まるのでなく私たちに深く関わっていることを懸命に伝えようとしていることが伝わってきます。
 生前の主と共に歩んできたペトロや使徒たちにとっては、イエス・キリストを葬った墓が空であった事、釘跡の残った身体、目の前で天にあげられた姿……といったことの方が「復活」の何よりも印象深いことであったかもしれませんが、「復活」後にキリスト者となったパウロにとって、またエルサレムから遠く離れたローマに住む信徒たちにとっても、「復活」とはほかでもない自分自身に深く関わる出来事だと訴えかけるのです。
 キリストの死と共に「罪に対して死」に、キリストの「復活」と共に「神に対して生きる」者とされているのだ、と。

 ようやく「新型コロナ禍」新規感染者数が収まり始めたと思っていたら、今度はロシアの侵攻によってウクライナで戦争が始まってしまったという「受難節」を私たちは送っています。
 ロシアの作家トルストイが最晩年まで推敲を重ねたという『文読む月日』(ちくま文庫)を私は読み返しています。平和を熱く語っている言葉が多いことに改めて驚かされます。
 訳者の北御門二郎(きたみかど・じろう)は、旧制五高生時代にトルストイの『人は何で生きるか』に出会ってしまい、その後とうとう東大英文科を中退、誰もが戦争へと駆り立てられていたあの時代に徴兵を拒否し、故郷熊本の山奥でトルストイを読みながら農作業を続けて2004年に91歳で亡くなったと言う人です。かつてのロシアは、それほどまでに「平和主義」の発信源の一つでした。

 「ある人が川の向こうに住んでおり、彼の皇帝が私の皇帝と喧嘩しているため、わたし自身は彼と喧嘩をしているわけでもないのに、彼には私を殺す権利がある、などという理不尽な話がほかにあるだろうか?(パスカル)」とか「ヨーロッパ諸国の政府は1,300億の負債を抱えており、その中の1,100億は1世紀の間に溜まったものである。この巨額の負債は全部、もっぱら戦費調達のためのものであった。ヨーロッパ諸国の政府は、平時において400万人以上の軍隊を持っており、戦争となるとそれを1,900万まで増加させることができる。その政府予算の3分の2は、負債の利子と陸海軍の維持に消費しつくされている。(モリナール)」……と言った具合に、日露戦争(1904年)前後にトルストイの目に触れた言葉が引用されています。当時も今も人間の愚かさがちっとも変わらないことに気付かされます。
 「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きる」ことが許されている者が選ぶ道を、トルストイはこういう風に語っています。

 「多くの人々は神の教えに従わず、ただ神を崇めるだけである。別に神を崇めなくていいから、神の教えに従うがよい。」

 そうです。世界中の権力者たちが、軍拡ではなく、「神に対して」共に生きるということ、平和に従うということこそを聴かなければならないイースターです。

(終わり)

2021年クリスマス・メッセージ 静かな夜、きよい夜 

2021年クリスマス・メッセージ
静かな夜、きよい夜                          
荻窪教会牧師  小海 基

<聖書>
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、……」(ルカによる福音書第2章13~14節a)

<メッセージ>
 有名な「きよしこの夜」という賛美歌264番の由木康の訳については、かねがねヨーゼフ・モールの原詞と強調点が違うのではないかと思ってきました。あれは「静かな夜、きよい夜」と、まず「静けさ」が歌われるからです。
 「新型コロナ禍」の感染者数が治まりつつあるものの、今年のクリスマス・イヴの「キャンドルサーヴィス」は歌うことはせずに楽器演奏で持つことにしました。
 一番初めのクリスマスの晩にならって、「静かに」守ろうというわけです。最初の「静けさ」を再体験しようというわけです。
 そうです。最初のクリスマスは「静かな夜」に特徴があったのです。
 「夜通し羊の群れの番をしていた」羊飼いたちは天使の知らせと、天の大軍の賛美にさぞかし圧倒されたことでしょうが、「いと高きところに……」とグロリアを歌ったのは天使たちだけでした。
 そもそもルカの伝えるクリスマス物語は、神の救いの出来事が、神のひとり子が肉をとった真の人間として誕生するという「受肉の神秘」の前に私たちはおそれて沈黙せざるを得ないことを強調しています。幼子イエスの誕生に先立つ洗礼者ヨハネの誕生の時には、父ザカリヤの口をきけないように天使がしたことを報告しますし(1章20節)、イエスの誕生後も母マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らし」(2章19節)たと記しています。神の出来事に人間の側はただただ圧倒されて口をつぐむほかなかった、そうした「沈黙」、「静けさ」に特徴があったのです。
 ですから古代の「聖ヤコブ典礼」に由来するクリスマスの賛美歌255番「生けるものすべて」の歌詞も、「生けるものすべて おそれて静まり、世の思い捨てて みめぐみを思え。神のみ子は 生まれたもう、ひとの姿にて」と歌うのです。
 今年は最初の「沈黙」に立ち返ってみましょう。神であられた方が救いのためにその座を捨て、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられ」、更には「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」となられた(フィリピの信徒への手紙2章6~8節「キリスト賛歌」)という「受肉の神秘」の前に、「おそれて静まる」クリスマスです。

<2021年イースター・メッセージ>

<2021年イースター・メッセージ>
「♯わきまえない女」たちの証言
荻窪教会副牧師  龍口奈里子

(聖句)
「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。……婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、信徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」
(ルカによる福音書24:8~12節)

<メッセージ>
 イースターおめでとうございます。皆さんは福音書が伝える復活の記事と言えば、どの場面を思い出されるでしょうか。
 例えば、「エマオ途上での2人の弟子への顕現」の場面(ルカ24:13~35)、「イエスとトマス」の場面(ヨハネ20:24~29)、また4福音書すべてに記されている主イエスの弟子たちへの顕現の場面などがあります。主イエスが「焼いた魚を1匹」食べられた個所(ルカ24:36以下)などはその情景が目に浮かぶようです。
 ただこれらの場面には残念ながら女性たちは登場しません。しかし別の角度から見ると、福音書の復活の場面には女性が出てきます。
 例えば、「空っぽの墓」を最初に発見したのは「マグダラのマリアともう一人のマリア」(マタイ28:1)でした。ヨハネだと女性は1名ですが、マルコだと「サロメ」を入れて3名、ルカは「ヨハナ」や「ガリラヤから従ってきた女性たち」もいたと記していますので、ここから多くの女性たちが主の復活の証言者であったことが窺えます。しかもどの男性の弟子たちよりも先に、主イエスはマグダラのマリアに近寄り、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」(ヨハネ20:15)と声をかけられるのでした。
 このように主の復活はまず女性たちに告知され、この女性たちこそが復活された主イエスの最初の目撃者であった、と4福音書が一致して触れているのは重要な点だと思います。
 彼女たちは主の十字架の死を最後まで見届け、3日後に「空っぽの墓」を見て「途方に暮れ」ました。しかしその驚きと恐れから立ち直った時、「3日目に復活することになっている」という「イエスの言葉を思い出」すのでした。そしてそのことをペトロたち男性の使徒たちに急ぎ知らせました。
 しかし彼らはそれを「たわ言」というのでした。自分たちの信仰を自分の言葉で語った女性たちの証言は、ペトロたちからすれば、いわゆる「#わきまえない女」の発言であったのかもしれません。この女性たちの言動は、やがて成立してゆく初代教会形成においても決して揺らぐことはなかったとルカは記しています。
 私たちの群れも、いつも先立つキリストに従い、語るべきことを語る復活の証人でありたいと思います。

<2020年4月12日イースター・メッセージ>

<2020年4月12日イースター・メッセージ>
復活の希望を伝える
小海 基

聖書の言葉:
「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」
(テモテへの手紙Ⅱ1:10)

<メッセージ>
 今年のレント(受難節)は、中国の武漢で始まった新型コロナウイルス感染がヨーロッパも含めて世界中に広がる「パンデミック」と重なった、例年になく重苦しい日々となってしまいました。
 マスク、消毒薬が町中の売り場から消え、死が私たちの日常のすぐ隣り合わせにある不安を意識せざるを得ず、様々な活動中止を余儀なくされました。
 西東京教区でさえも全体研修会や立川からしだね伝道所の夕礼拝が無くなり、いくつかの(特に幼稚園等の付属施設を持つ)教会は礼拝を中止しました。
 荻窪教会では、「緊急事態宣言」が出されたことに伴い、4月12日の礼拝から宣言が解除されるまで、礼拝と諸集会を中止することを決定しました。この原稿を書きながらもまだ出口は見えてきません。
 「信徒の友」誌4月号の特集「マタイ受難曲を聴こう」の原稿を書くために、バッハの同曲のCDをいくつも聴きながら過ごすレントの日々でした。「死の脅威、不安」と普段口にすることはあっても、まさか医療従事者用のマスクが買い占められネットで高額で売買され、経済のダメージは広がり……と、弱みと不安に付け込んだあさましいまでの人間の欲と罪の姿に翻弄されることだったのだと知らされました。
 
 そのような日々の中でイースター(復活祭)を私たちは迎えます。聖書は、キリストの復活がキリストご自身に留まる話ではなくて、私たちを取り巻き脅かしているこの「死」を滅ぼし、死にまつわりついていた欲望、罪……といった一切を価値なき物とされたのだと宣言します。
 コロナウイルス騒ぎも、予防薬、治療薬が開発され、流行の出口が見えたら、人間の欲望の道具にされたマスクや消毒薬といった物の価値が暴落していくのでしょう。
 聖書が語るのは、それ以上の大転換がキリストの復活によって、既に私たちには、もたらされていて、私たちの生きていく「価値転換」が起きていたことだったのだと、改めて思わされます。
 世の暗闇の中に動ぜず、「不滅の命」に生きていることを確かに輝かせる群れとして、私たちキリスト者が立たされていることを改めて知らされます。不安もそうですが、ささやかでも確かな希望、信頼は、伝染でもするように周囲に伝わっていくものです。そうやってキリストの復活は伝えられてきたのです。

<2020年2月23日 2019年度信徒講座Ⅱ・講演要旨>

<2020年2月23日 2019年度信徒講座Ⅱ・講演要旨>
2020年10月開催の第42回教団総会の争点

聖書の言葉:「平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩編34:15)
小海 基
 
<メッセージ>

密接に繋がっている北村牧師免職問題と沖縄問題

〇北村慈郎牧師の戒規免職問題が起こってもう10年経過したことになる。当初は裁判闘争という形で解決の道が探られたのであったが、司法はこの問題は宗教団体内で解決すべきと判断し、不受理・棄却となった。
〇そもそも北村牧師が言質を取られるきっかけとなったのは日本基督教団第35回総会の聖餐式で、「2002年の第33回教団総会の幕切れに『距離を置く』と宣言されて以来、関係回復のめども立たず、沖縄教区を欠いたままでパンと杯を取れるか」と陪餐拒否したのを神奈川教区選出の信徒常議員(「全数連記」投票にあぐらをかいて今も平然と常議員を継続中!)に見とがめられたことがきっかけであった。
〇つまり、北村牧師免職問題と沖縄問題は、密接に繋がっているのだ。沖縄との合同のとらえ直しもそうなのだが、現在の教団執行部は、たった1つのアプローチがストップしただけに過ぎないのに、そこですべての議論を止めてしまって平気を決め込み、塩漬けにして放りっぱなしにしている。つまり、北村牧師の件では司法判断に頼れないということ、合同のとらえ直しで言えば「名称変更案」が「審議未了廃案」となったに過ぎない!のに、である。

空白の10年の間に出てきた多くの諸問題

〇10年前に、教団内で何が起きたのかを知らない世代の牧師、伝道師も生まれている。この人たちが「空白の10年」の「被害者」ではないのかと言えば、そんなことは全くない。教師検定試験で、教会現場で……と、様々なハラスメントが噴出したこの10年間でもあったと言える。
〇「負担金未納」でありながら「宣教委員長」や「教師検定委員長」の席にふんぞり返り、総会時の常議員選挙の際に、「全数連記」で口を封じられている私たちの納めた負担金を用いて「教憲・教規を守れ」と叫ぶ異様な光景が日常化したのだ。
〇こんなことでは、教会現場が委縮し、教勢も減少し、献金・負担金にも影響するのは当然である。

殊に深刻、危機状況にある出版局の現状と伝道

〇そのため日本基督教団はこの秋の教団総会で負担金を減らすための、大規模な「機構改定」を決議しようとしている。
〇2月3~4日に行われた常議員会で一番深刻だったのは、出版局理事会報告である。
〇出版不況と言われるが、過去5年間続いた赤字は特に深刻で、直近の2018年度に約3,800万円、2019年度に更に1,700万円の単年度赤字決算を出したほかに、何と3億円分もの在庫を抱えてしまっている。
〇これまで繰り返し標的として煽り立ててきた『讃美歌21』元凶説には全く根拠がなく、むしろ賛美歌・音楽部門だけが好調!ということも明らかになった。
〇このため新藤出版局長が7月末で辞任。第41総会期監査委員会からは12月5日付けで、「緊急意見」が出され、出版局直近の現金残高で抵当設定条件とされている「銀行借入残」3,400万円を割り込み、レッドゾーンに入っていることが指摘された。
〇民間なら「倒産」というところだが、かろうじてそれを免れているのは、同じ「日本基督教団」名で積み立てられている年金資産があるおかげである。
〇万一倒産にでもなったら、この年金資産に赤紙が張られかねないのである。
〇思い出してもいただきたい。この10年間、全数連記で教団の出版局のヘゲモニーを握った人たちが何をしてきたか。
〇「信徒の友」誌や単行本の執筆者に対して「違法聖餐」を口実に検閲まがいの攻撃を繰り返し、編集部を委縮させてしまった。
〇かつて「信徒の友」誌では三浦綾子の『塩狩峠』を連載し、教団に連なるほぼすべての家庭に1冊と言われたほど広く読まれた時期もあった。荻窪教会で長年長老を務められた高見澤潤子さんが長年編集委員長でもあった。
〇ちなみに、『塩狩峠』の連載は、宗教界で評判になったという点で、創価学会の横山光輝『三国志』連載と並ぶ宗教界の「伝説的」連載!と言えるものであった。
〇そうした一時期には、カトリックの『あけほの』誌や福音派の『百万人の福音』誌まで含めても、キリスト教界最大の購読者数を誇った時期もあった!
〇そうした「信徒の友」さえも、現在は内容の陳腐化で部数が大幅減となってしまっている。
〇最近の「信徒の友」誌で言えば、各教区から選ばれた2つの「祈りに覚える教会」が挙げられ、集中的に祈り支援するという、どうしようもない企画も始まった。
〇たった「2教会」に推薦教会を絞ることの困難さを訴える声が各教区から噴出している(京都教区から反対の「意見表明」も出された)。こうした形で「伝道」が「熱く」推進されると考える方がどうかしている。
〇常議員会や教団レベルで考えるべきなのは、もっと巨視的な視点、構造的格差問題に対する方策であるべきなのである。根本的に何も考えず、何も見ようとしていないで、おざなりに「伝道」を振りかざし続けているところにも、現場から挙がっている声に一切耳を傾ける姿勢が感じられない。「一に伝道、二に伝道……」、「青年伝道決議」、「伝道に熱くなる」……等と豪語したところで内実がついていかない。
〇自称「教団改革勢力」を豪語し、「全数連記」選挙で議席をとってきたグループである「日本基督教団福音主義教会連合」紙の新年号、第511号(2020年1月刊)巻頭の長山信夫牧師(安藤記念教会)の説教が、まるで「敗北宣言」じゃないかと巷では話題になっている。
〇説教では次のように書かれている(要旨)。
〇「今年4月28日に福音主義教会連合は創立43周年記念日を迎える。3年前40周年であったことになるが、その年、誰も記念集会を持とうと提案しなかった。荒野の40年を経ても約束の地に到達することはなかったのである。一見正常化しているかに見える日本基督教団であるが、信仰告白によって一致しているはずの我々の中に分裂が生じ、同志的結合が薄れてしまった。ワンチームはラグビーの世界のこととなってしまっている。教勢の衰退が叫ばれて久しい。かつては造反のせいにしていたが、会議の正常化が成った今も低落傾向を止めることが出来ない」。
〇なるほどここ数年の同紙の「献金感謝報告」を見ると、かつては2頁にわたって、びっしりと並んでいた献金者、献金教会名が4分の1頁にも満たないスカスカのものになり果てており、特に教会からの献金が激減していることが分かる。
〇結局、今年10月の教区総会までには、教団総会議員と常議員の半数削減案でお茶を濁すという、まことにお粗末な結末となりそうだ。
〇「教団ジャーナル 風」紙に載せられた大阪教区選出議員の述べていた通り「本気度が見透かされてしまう」と批判されても仕方ない。

この出版局と伝道の危機の「空白の10年間」をこの秋で終え、教団は今度こそ「平和を尋ね求め、追い求め(詩編34・15)」る群れとならなければならない。

<2020年2月2日創立記念日礼拝・説教要旨>

<2020年2月2日創立記念日礼拝・説教要旨>
わたしがあなたを選んだ
聖書
ハガイ書2:20〜23
マタイによる福音書1:12〜17

小海 基

<メッセージ>

 1933(昭和8)年2月5日に創立された私たち荻窪教会の創立記念日礼拝の本日、旧約聖書の連続講解説教の一環としてハガイ書の終わり部分を読みました。

最後の部分が異様な終わり方となっているマルコとハガイ

 旧新約聖書66巻の中で、最後の部分、終わり方があまりに突然で異様なため、一体何が起こったのだろうと訝しく思わざるを得ない書物が少なくとも2つあります。
 1つがマルコによる福音書です。ご存知のようにマルコは16章8節でこう終わります。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。……そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
 ここには復活も出てきません。9節以下に復活の記事がありますが、これは明らかに後世になって付け加えられたもので最古の写本には出てきません。そのため脱簡説つまり初期段階で一部が失われたという説や、教会当局に不都合なことが書かれていたために破り棄てられたという説が出たりしました。
 しかし現在では荒井献(あらい・ささぐ)先生以来、世界中でほぼ定説化しつつありますが、この終わり方はマルコの記者の最初からの意図であり、読者はマルコの出だしに戻り、循環して思い巡らす効果を挙げるためにマルコは敢えてこのように終えたのだというのです。
 もう1つがハガイ書の最後です。新共同訳では翻訳の仕方のため緊迫感や異様さが余り伝わってきません。ここの預言はハガイにとって4番目の預言ですが、これまでの3つの預言と違って、4番目の預言は「同じ日の24日」つまり10節からの預言と同じ日だということです。それなら前の預言とひと続きで良いのではとも思うのですが、この最後の預言はとても一つには出来ない相当違った性格をもつものです。
 10〜19節は改めて心に刻むような励ましと祝福に満ちたものでしたが、20節からは突然激しい口調に変わるのです。さらに最後の23節は新共同訳では「万軍の主は言われる」「主は言われる」「万軍の主は言われる」とおとなしい訳になっていますが、岩波訳やフランチェスコ会訳では「万軍のヤハウェの言葉」「ヤハウェの言葉」「万軍のヤハウェの言葉」と名詞止めが念を押すように、短いところで繰り返される異様な文体で訳されています。
 預言者ハガイが神様の言葉をひとつずつ取り継いでいるこの預言は「自分が」でなく「ヤハウェ、神様からなのだ」と言い訳をしながら、ぶるぶると体を震わせながら預言している感じなのです。
 ハガイによるこの部分の預言は次のゼカリヤに引き継がれますが、ゼカリヤ書の第一声、冒頭は「ダレイオス第2年の8月」つまり一カ月前にさかのぼります。
 ということは、ハガイとゼカリヤは預言者として1カ月ダブっているわけです。しかしながら不思議なことに、ハガイ書のどこにもゼカリヤの名が出てこないし、ゼカリヤ書のどこにもハガイの名が出てこないのです。これも実に異様な不思議な話です。二人の間に一体何があったのでしょうか。

ハガイ書の最後はゼルバベルに告げるものだった

 ハガイ書の最後の預言は「ユダの総督ゼルバベル」に告げるものでした。乱暴で政治的な内容であり、聴いたユダヤの民ならともかく、エズラ記4章11~16節にあったようなペルシャ帝国への反逆の進言の確かな証拠にもなりかねない預言です。
 エズラ記では、アルタクセルクセス王宛に、神殿が再建されると王に次々と損害を与えることになるに相違ないという告発状を送っていました。
 しかしハガイは2章21節b~22節で「わたしは天と地を揺り動かす。わたしは国々の王座を倒し異邦の国々の力を砕く。馬を駆る者もろとも戦車を覆す。馬も、馬を駆る者も互いに味方の剣にかかって倒れる」と述べ、結びの23節で主の名を3回も繰り返して突然ハガイ書が終わり、その後、何も記録がなされていません。
 また、なぜ同時代、同時期に同じ場所で同じような内容の預言をしながらゼカリヤはハガイの名を口にしなかったのでしょうか。この理由については諸説ありますが、旧約学者は、ハガイは抹殺、処刑されたのであろうと言います。ゼルバベルもそうです。この説に従えば、ハガイが実質4カ月しか預言しなかった理由もこれで理解できます。

選ばれたゼルバベルの役割は系図をつなぐことだった

 今日はハガイ書と併せてマタイによる福音書1章12節以下の系図の部分を読みました。ハガイ書の最後の預言が告げられたゼルバベルは、ユダの王ヨヤキン(エコンヤ)の2代あと、つまり孫であったことをマタイ1章12節は伝えています。ユダの王ヨヤキン(エコンヤ)については、列王記下25章27節以下に次のように記されています。「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって37年目の月の27日に、バビロンの王エビル・メロダクはその即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。」
 預言者ハガイは、北イスラエル、サマリヤを神殿再建から除外させ、敵に回し、そして、このハガイ書の結びの激しい預言ではイスラエルの「独立」さえも示唆しました。ペルシャ全土が政治的に混乱しているこの時に乗じて、今がチャンスだと、神は言われるわけです。しかし歴史はそれを許しませんでした。恐らく旧約学者が推測する通り、ゼルバベルもハガイも、殺されたか処刑されるわけです。
 ハガイの後を継ぐゼカリヤの預言はハガイと違って幻を見ることです。その幻については来週以降、飛び飛びに読み進むことになります。
 「わたし(神)があなたを選んだ」(2・23)という神様の声にゼルバベルはペルシャ王の政権によって「総督」にも任じられましたが、ダビデ王朝の復興という形では役割を果たせませんでした。しかしそれは失敗だったのでしょうか。
 決して失敗ではありませんでした。マタイの系図が告げるのは、ゼルバベルという人は、本人がそう自覚していたかどうかは分かりませんが、「系図をつないだ人」だということであり、そしてその系図、血筋こそが救い主イエス・キリストにつながるのです。
 私たちも、「わたしがあなたを選んだ」という神様の声を聴く一人一人です。確かなのは、神の業に参与する一人一人として選ばれているということです。このことを忘れず歩んで参りましょう。

<2019年秋の伝道礼拝> 第3回(11月24日)説教要旨

<2019年秋の伝道礼拝>
第3回(11月24日)説教要旨
新しく生まれる
創世記 11:1~9  エフェソの信徒への手紙 2:14~22
荻窪教会副牧師  龍口 奈里子

<メッセージ>

 イスラエルが占領下に置くパレスチナ暫定自治区には450キロにも及ぶ21世紀最大の壁があります。また聖書の時代のエルサレム神殿には、ユダヤ人と異邦人を仕切る数十センチの壁があったようです。エフェソは異邦人が多い場所で、エフェソの教会にはユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者もいました。かつてはそれぞれ信仰する神は違ったけれども今は同じ主イエスを信じ、兄弟姉妹として一つの教会で共に礼拝を守っていました。しかしいまだに「一つ」にはなれない、見えない「隔ての壁」「溝」がありました。
 ユダヤ人たちには最初から「神の民」とされてきたという自負があり、異邦人が福音を信じて教会に入ってくるならば、モーセの慣習に従って身を清めるとか割礼を受けるなどの条件付きでなければならない、としていました。パウロは「隔ての壁」を取り壊したのは律法ではなく、主イエスご自身であり、ユダヤ人にならなければ救われないと異邦人に言うならば、それは主イエスの福音に反するものだと言うのです。
 13節の「キリスト・イエスにおいて造られた」の「おいて」というのは英語で言うとイン、つまりキリストを信じるとはキリストの中に入るということです。また「御自分において一人の新しい人に造り上げる」の「おいて」もインです。人種や性別や身分や性格がどんなに違っても、私たちは主イエスの十字架によって「新しく生まれ」「一つの体」の中に入れられ、キリストにあって一つとされ、互いの「隔ての壁」を取り壊して、平和を作ってゆきます。
 しかし私たちの教会が、そのようにして「隔ての壁」を取り壊しているでしょうか?17節で、キリストが再びおいでになるとき「遠く離れているあなた方」にも「近くにいる人々」にも、「平和の福音が告げ知らされる」とパウロは述べます。遠くにいるクリスチャンではない人々から、あるいはもはやキリストを信じないであろうと私たちが思い込んでいる人たちから、福音はまず最初に伝えられ、遠くに離れていると思われた人たちの方が、永遠の命の希望にあずかることがあるということではないでしょうか。
 
 先日NHKの番組で、東洋英和女学院の校長だったハミルトン宣教師のドキュメントがありました。戦前日本で教鞭をとり校長になったミス・ハミルトンは、太平洋戦争の勃発により敵性外国人として日本で収容され監視され、そして帰国を余儀なくされました。カナダに帰国後、収容所に強制的に移住させられた日系カナダ人の教育の為に立ち上がり、高校開校のための資金や教師の要請を強く政府に要望しました。ハミルトンは、カナダでも日本でも、どちらの国の間でも「壁」の間にありましたが、両方の差別を体感する中で、平和を創りだす支援をやめることはなかったのです。「良き隣人となる」というイエスの教えをいつも学びながら、日々新たにされてその生涯を終えたのです。
 
 旧約聖書のバベルの塔の出来事は、一つの民、一つの言語、一つの文化にこだわって、かたくなであったユダヤ人に対して、神が「罰」を与え、言葉を混乱させ、民はみな全地に散らされたという物語です。しかしそれは単なる神の罰ではなく、全地に広がった民がまたさらに自分たちの信仰や文化を広げてゆき「新しい人」へと造りかえられていったことを表わしている物語でもあります。最初は混乱するけれども、多くの言葉や民族によって、互いに「壁」を取り壊して認め合う、そのような「新しい人」となることを、神様の祝福として伝えている物語なのだと思います。混乱から多様性を生んでいく、それが私たちの信仰であり、そのような人たちが集う場所が私たちの教会なのです。

<2019年秋の伝道礼拝> 第2回(11月17日)説教要旨

<2019年秋の伝道礼拝>
第2回(11月17日)説教要旨
わたしが引き上げた
出エジプト記2:1~10  ヘブライへの手紙3:1~6
鶴川北教会牧師 田中 雅弘先生

<メッセージ>

名前の重さ、大切さ

 生まれてきた人には、皆、誕生日があります。親が最初に子どもにしてあげることは、名前を付けることです。わが家に子どもが生まれた時に知らせが来て、取り急ぎ病院に駆け付けました。わが子との初対面を果たしても、まだ名前が付けられていないので足に付けられたタグに「たなかあかちゃん」と記されているのみでした。これでは「物」と同じで呼ぶに呼べないため大いにとまどったことを覚えています。名前の重さ、大切さが実感された体験でした。
 今日の旧約の聖書個所ですが、あるヘブライ人の家庭に男の子が生まれました。この赤ちゃんには「モーセ」と言う名が付けられました。古代では生まれてきた子に名前を付けることは、親がこの子を育てると決断を表明することでもありました。名前を付けることで、その子は、他人と区別され、かけがえのない、ただひとりの人となるのです。
 聖書の神は、呼びかける神であります。人間が呼びかける前に、先に呼びかけて下さるのです。人にはみな、神に呼びかけられる時が必ずあります。モーセもそうでありました。神から呼びかけられたそのときには「はい」と答えられるように、心を真っすぐにしていたいと思います。

 人さまざまな名前の由来

 私は長らく教会の講壇と、学校の教壇に立って仕事をしてきました。学校では生徒を相手に、聖書の授業をするわけです。授業は一方通行では成り立ちませんので、生徒を指名して聖書や教科書を読んでもらったり、質問に答えてもらったりするわけで、その時、生徒の名前を呼ぶ訳です。
 以前、漢字ひと文字で「男」と書く生徒がいました。名前は「ダン」君かと聞くと、違うという。「当ててみて下さい」と言うので複数の名前を言ってみたのですが、全部違うと言われ降参すると、「アダム」とのことでした。確かに創世記で、最初の人「アダム」は「男」という意味があります。まさかクリスチャンホームの生徒ではなかろうとは思いますが、こんな名前もありました。
 私の名は「マサヒロ」です。1957(昭和32)年生まれですが、当時この「マサヒロ」は流行りの名前だったようです。因みに、この教会の龍口奈里子副牧師は、関西学院大学時代に同窓・同学年でしたが、いつか名前の由来を伺ったところ、「奈里」とは「奈良の里」のことだそうで、随分と奥ゆかしい名前だな、と感心した思い出があります。

 モーセの誕生と命名の背景

 さて今日の聖書個所は、出エジプト記2章です。私はこれまで主日礼拝は、教団の聖書日課、「日ごとの糧」の聖句個所を取り上げて説教しております。教会暦では「降誕前節」、クリスマス前の「準備」の時に、旧約のみ言葉に目を注ぎ、神の遥かな救いの計画に心を向けようという趣旨です。モーセの誕生、そして生い立ちが記されており、特に今日のテキストでは彼の「命名」についての背後の物語が語られています。
 出エジプトの立役者は、その名を「モーセ」と名付けられました。名前にはみな「意味」が込められていますが、「モーセ」と言う名前は古代エジプトの言葉に遡るとされており、その意味は「誕生・生まれる」あるいは「生まれた子」、赤ん坊にふさわしい名前で、エジプトでは、「太郎」や「花子」のようなごく一般的な命名であったようです。
 ところがヘブライ人は、その名前の持つ音を、ヘブライ語として聞き、ヘブライ語として再解釈し理解しました。10節「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げたのですから』」。「引き上げる、引き出す、マーシャー」。こういう所に、古代の文学の語り手の技巧を読み取ることができます。「水の中から引き出す」、皆さんは何を思い起こされるでしょうか。
 出エジプト記のクライマックスともいうべき場面は、「紅海渡渉」を置いて他にありません。イスラエルの民は、実に、水の中を引き出されて、救いへと導かれたのです。奴隷の呻き、苦しみの叫びを聞かれる神は、モーセの誕生から、すでに大いなる救いのみわざを、既に準備、計画されていたのです。
 
 両極の意味を持つ「水」

 「水」は、人間の生命に必要不可欠なものには違いありませんが、同時に恐るべき脅威でもあります。ノアの箱舟の「40日40夜」ではありませんが、聖書の人々にとって「水」は両極の意味を持っています。「生命を育むもの」ばかりでなく「生命を容赦なく奪うもの」でもあります。だから「水」は、聖書の人々にとってまず「死」の象徴です。
 モーセは「水から引き出された」。まさしく死から引き出されたのです。ここに神の救いのみわざが示されています。このテキストを「赤ちゃん救出リレー」と呼んだ牧師がいます。ひとりの赤ん坊の小さな生命のために、いくつもの手が動かされて、働いて、バトンタッチされて、「救出」劇が遂行された、というのです。
 第一走者は、ヘブライ人の助産婦たち。彼女たちはファラオ、上からの命令に従わなかった。生まれ出た小さな生命を殺さなかった、否、殺せなかった。それを責められると「エジプト人と違い、ヘブライ人の母親は健康で、自分たちが行く前に生んでしまいます」、見事な大嘘ですが、そこに神の「大きな祝福」があったと伝えています。次にモーセの母親、「その子がかわいかったのを見て、三カ月の間隠しておいた。しかしもはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、その中に男の子を入れ、葦の茂みの中に置いた。さらにその赤ん坊の姉、後の女預言者ミリアムは心配して遠くから見ている。エジプトの王女が籠を拾ったのを見て、すかさず言う「この子に乳を飲ませる乳母を呼んでまいりましょうか」。なんと機転が利くことでしょうか。そしてアンカーにバトンが渡る。「その子は王女の子になった。王女は彼をモーセと名付けて言った。『わたしが水の中から引き上げたのだから』」。
 
 居合わせるは、「共に」

 そこに居合わせた人々、たまたま居合わせたひとり一人、それと知らず生命のバトンを受け取り、担った人たちは、皆、女性たちでした。神の救いのみわざの種明かしを見るようです。
 長崎で原爆に被爆した歌人、竹山広さんは阪神大震災の時、「居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ」と詠みました。たまたまそこに居合わせたばかりに、不測の事態に巻き込まれ、犠牲になった人を悼んだ名高い一首です。
 そこに居合わせることを通して、神はそのみわざをあらわにされるのです。私たちは今、教会暦で「降誕前節」を過ごしています。神のひとり子、主イエスが誕生されたことは、そこに居合わせるためです。居合わせる、つまり「共に」というあり方によって、私たちを水から引き上げ、みわざのために引き出されるのです。赤ん坊は非力です。しかし決して「無力」ではありません。その非力な赤ん坊に、私たちは生命へと引き出されるのです。

<2019年秋の伝道礼拝>第1回(11月10日)説教要旨

<2019年秋の伝道礼拝>
第1回(11月10日)説教要旨
生まれ出づる悩み
ヨブ記 2:3~10 3:1~4 ヤコブの手紙 5:11
荻窪教会牧師 小海 基

<メッセージ)
 11月の伝道月間のテーマは、「誕生」です。キリストの誕生を祝うクリスマスを目前にし、1年前に出版された新しい翻訳の「聖書協会共同訳」誕生をめぐっても検討が始まっています。新しい命への「誕生」とは何なのかについて聖書から聞くべき時であるでしょう。 
 聖書、讃美歌の翻訳が「宿命的」に抱えてしまう問題、課題に〈差別語〉、〈問題用語〉があります。最初に使われた時は「差別」性、「問題」性を持っていなくても、時代の経過とともに増幅、強調されて「母語」となって用いられ、より深刻な影響力をもってしまいます。
 ドイツのプロテスタント教会の讃美歌が1993年に40年ぶりに改訂を行った際に、ユダヤ人差別の観点から、ルターをはじめとする従来のコラールの歌詞をそのまま継承して良いのかという問題提起がなされました。
 アブラハムの「子孫」(ドイツ語で「ザーメン」)等がユダヤ人に対するあからさまな「卑猥なはやし言葉」として用いられた歴史から、「改訂」訳の併記という形で出版されました。20世紀以降聖書翻訳の是正もなされていますが、社会の「差別」にメスを入れる課題は今も残されています。こうした一つに医学的にはすでに解決されているにもかかわらず今日まで差別されているのが〈らい〉の問題です。
 医学的にはどのような疾患であるかも明確でない「ツァラアト」(旧約ヘブライ語)、「レプラ」(新約ギリシャ語)を、「らい病・ハンセン氏病」と翻訳してしまったことで、旧キリスト教社会から始まって全世界で、患者があたかもレビ記に記された「汚れた病」を負う者、社会的に「隔離されるべき」、「不治の病」、「遺伝」するという偏見を持たれ、家族、親族にまで人権侵害が広まってしまいました。これが明らかに聖書翻訳によって人工的に生み出された「差別」であることが分かるのは、キリスト教国のハンセン病施設の多くが「隔離型」であったからです。
 このあたりの歴史を詳しく報告した名著が、荒井英子著『ハンセン病とキリスト教』(岩波書店1996年)。同書の中で「『小島の春』現象」と名づけた被害は深刻です。1932~1938年に岡山県長島愛生園に医官として在職した小川正子医師の映画で、小川自身を神話的存在にまで持ち上げられた現象です。「救う側」の小川医師たちが「天使」、「聖女」として賞賛される一方で、「救われるべき側」の患者や家族が追い詰められ、「生まれてきた意味は何のためだったのか」とヨブのように悩み、絶望に放って置かれました。2019年7月にようやく元患者と家族への賠償を国に命じましたが、「法的責任」は言及しないままです。

 ヨブ記は、最後に主がどのようにして下さったかに目を注ぐように語っています。ヨブ記のすさまじい世界を正面から見なければなりません。ヨブは全財産を奪われ、重い皮膚病を患い、最愛の妻からも、「あなたは神を呪って死んだ方がましだ」と言われ、共に泣いてくれた友人からも、「あなたの気づかない罪があるのだ」と言われました。ヨブは無垢で神さまを信じ、罰を受けるような罪は犯していないのにもかかわらず、自分の生まれた日を呪うまで絶望しました。しかし神さまを呪いませんでした。生ける神さまの答えをずっと待ち続けました。神さまから、あなたの病は因果応報のためでは無いと語られてヨブは満足します。
 イザヤ書53章では自分の生まれた日を呪うまで追い詰められた人のために、神さまは苦難の僕として重い皮膚病になり、差別、偏見の姿をとって救いをもたらせてくださったのだと語られています。旧約聖書の救いを心に刻み、クリスマスを待ちましょう。