<2018年秋の伝道礼拝>第2回(10月21日)説教要旨

<2018年秋の伝道礼拝>第2回(10月21日)説教要旨

「私の羊を飼いなさい」
鶴川教会牧師 瀬戸 英治

ヨナ書4:1~10
ヨハネによる福音書21:16~18

<メッセージ>

はじめに

 私は北海道の釧路で生まれ育ち、高校卒業まで釧路におりました。高卒後、飛行機のパイロットを目指して海上自衛隊の養成学校に入隊したものの気質が合わず1年で除隊し、札幌で予備校に入りました。キリスト教と出会ったのはこの頃で、米国の宣教師が経営する伝道喫茶でキリスト教の網にかかり、洗礼を受けました。
 その後、紆余曲折がありましたが、召命を受けて農村伝道神学校(以下、農伝と略)に入学し、教団の補教師になり、当時まだ西支区時代、東中野教会に伝道師として赴任し、小海先生とはその時以来のお付き合いとなります。
今日の説教題は「私の羊を飼いなさい」とし、私自身の牧会への考え方、教会論をお話します。

農伝在学中の様々な出会いによる課題を抱えて牧会現場へ

 私は牧師の他に、いくつかの団体の責任を持っております。主なものは横浜市中区で精神障がい者の地域での生活を支援するNPO団体「ろばと野草の会」理事長、同じ地域で身体・知的・精神の三つの障がい者を一括して支援する地域活動拠点「みはらしポンテ」を運営する社会福祉法人理事長、在日外国人の子どもたちへの教育相談・支援を行っているNPO法人「信愛塾」副理事長、町田市にある「朝鮮学校を支える町田市民の会」代表などです。
 教会関係では、市民ボランティアによる傾聴を中心とする電話相談を立ち上げたり、5年前からは教会集会室を利用して毎月第一・第三水曜日に「水曜カフェ倶楽部」と称して私の手作りのケーキを出したりしています。
 これらは一つとして自分がやろうとして始めたものではなく、ほとんどが出会いから必然として関わらざるを得なくなったものばかりです。農伝の会報「後援会だより」第113号(今年6月発行)に神学生時代に出会った事柄について書かせて頂きました。在日朝鮮韓国人差別問題、沖縄問題、女性差別や性差別、部落差別、アイヌ差別などは習ったのではなく、すべて学生の当事者から問題を指摘され問われ知らされた問題ばかりです。農伝は学生自らが課題を持って解放を求めてやってくる場所だと思います。全てが未解決のまま卒業し、現場に放り出されるという表現が適切かもしれません。私も放り出された一人です。
 幸い私は東中野教会で伝道師として2年の猶予を頂くことができ、その間に小海先生をはじめ多くの同年代の牧師たちと知り合い、多くを学ぶ機会を与えられ、神様の恵みであったと感じています。

Aさんとの出会いが牧師としての自分の姿勢に決定的影響

 東中野教会、まぶね教会でそれぞれ2年を過ごし、その次に赴任したのが川和教会です。ここで私はその後の自分の牧師としての姿勢に決定的に影響をもたらした人に出会いました。その人を仮にAさんとします。Aさんは中程度の脳性麻痺を持つ高齢女性でした。手と足に麻痺があり、そばから見ればかなり危ない状態ですが歩行は可能。手は硬直していて自由に動きませんが判読が困難ながら字も書くことが出来ます。言語にも若干障がいがあり、時々聞き取れなくなる状態でした。私と出会った時には同じく脳性麻痺の男性と結婚し、教会近くの公団のアパートに住んでおられ、熱心に教会に通われていました。お連れ合いの生存中Aさんを詳しくは知りませんでしたが、お一人になられてから様々なことを知らされました。
 Aさんは生まれた時から麻痺があり、私立の養護学校に行くまで寝かされて育ったこと。埼玉の整形外科医師と出会い、幾度かの手術によって歩行が可能となり、勤務に出ることも出来たことなど。
 Aさんはその医師がおられなければ自分は、寝たきりの生活だったが、先生のお蔭で普通の女性のように買物、恋愛も出来るようになったと言われています。
 彼女は一般男性と結婚し先妻の子どもたちを育てて幸せに暮らしていたそうです。最初のお連れ合いとは死に別れとなり、次に障がい者と再婚されました。お連れ合いを亡くされてから一人で生活しておられましたが、高齢で次第に筋力が落ちて家の中でも転ぶことが多くなり、度々救急車を呼ぶ状態になりました。緊急連絡先が私になっていたため、その度に私は夜中に呼び出されることも度々でした。
 その後、入居された老人ホームでは自分が出来ることも、させてくれない状況になり、私に抗議してこられたり、別のホームに移ってからは、自分は認知症ではないのに、強制的に睡眠導入剤らしき薬を飲まされそうになり服薬を拒否するなどしてその抗議をし、私が施設に掛け合って了解を取り付けたこともありました。
 ある時、Aさんが一度経験したいことがあると言われました。それはお寿司屋さんのカウンターに座って好きなお寿司を食べたいというのです。親しい寿司屋に依頼して店の休憩時間に出向きました。Aさんは震える手でお寿司を掴み、頬張りました。ほとんどは口からごぼれてしまいましたが、それでもおいしい、おいしいと心から喜んでくれたことが忘れられません。人は人との出会いによって変えられて行くのだと思います。それに法則はありません。一人の人に向き合うこと、一人ひとり違うようにそれぞれの出会いも多様です。

「あなたはあなたのままでいい」と伝えるのが本当の福音

 今日の新約の聖書個所でイエスはペトロに三回も「私を愛しているか?」と聞きます。ペトロはこのイエスの質問に対し、しつこいと感じて三度目には「私が愛しているのは、あなたがよく知っているでしょう」と返すくらいでした。しかしイエスは単に三回繰り返したのではありません。
 最初の2回の「愛している」はギリシャ語では「アガペー」つまり無償の愛、神の愛です。それに対するペトロの返答は、「フィレー」すなわち「人間の愛、友情」です。この個所がイエスに遡るのかどうかは分かりません。ヨハネ福音書の著者が人間であるペトロにあえて「アガペー」を使わなかったのかも知れません。しかし、3度目にイエスは「フィレー」で私を愛するか?と聞かれています。私はこれによってイエスは現実を理解されて、人間つまりペトロの現実にまで降りてきて下さった結果の言葉と思っています。

 人には完璧な愛などありません。私たちはそれぞれの現実と限界の中で人と関わってゆく以外にないのです。それだからこそ、一期一会の人との出会いを大切にしなければならないし、十人いたら十通りの関わり方があるのが当然なのです。教会もまた、一人ひとりに寄り添おうとするならば様々な顔を持って当然と思います。
 出会い、寄り添い、共に変えられていく。まさにこれこそがイエスが示される「福音」ではないでしょうか。
 教会も個人も、もっと個性的であって良いと思います。そのように個性的になる時、Aさんのように、私は皆とは違うと引いている人に、「あなたはあなたのままでいいよ」と伝えることが出来るように思うのです。神様はそのままで受け入れて下さるのです。