<2016年秋の伝道礼拝>第1回(11月13日) 説教要旨

「あきらめの悪い神」               

エゼキエル書 第34章6~12節
ルカによる福音書第15章1~7節

カンバーランド長老・めぐみ教会牧師   荒瀬牧彦先生

<メッセージ>

三人がグループ家出をした忘れられない事件

東大和市で二十三年前に開拓伝道を始め、そこで牧師をしています。十年以上前のことですが、忘れられない事件があります。
教会にTちゃんという軽い知的障がいがある20歳代の女性がいました。養護学校時代のクラスメートのA君とB君と一緒にグループ家出をしました。知的障がいはごく軽いがワルのA君が、優しいB君とTちゃんを誘ったようでした。
探し回っても見つからず、数週間後の夜遅くに、寒さに耐えきれなくなってB君とTちゃんが、しぶるA君を引っ張って教会に助けを求めてやってきました。多摩川の河川敷の草むらの中に、シートでテントを作って暮らしているということでした。
夜中でしたがTちゃんの母親はすぐに駆けつけてきました。B君のお父さんは朝まで仕事でしたが、留守録を聞いて勤務明けに飛んできました。しかしA君を迎えに来る人はいませんでした。余りにも悪さを繰り返してきたので、家族とは絶縁状態だったのです。
私は不良のA君から弱い二人を守らなくてはと思い、A君を猛烈に怒りました。二度と彼らには関わるな、と。その時A君の気持には思い至りませんでした。B君のジャンパーを取りに河川敷に行き、ブルーシートのテントを見た時、これは「家」なんだと分かりました。「A君は自分の『家』が欲しかったのではないか」と思いました。私も含め周りの大人は誰も彼に寄り添おうとはしなかったし、誰も立ち直りを助けることはできませんでした。これまでの成育歴が彼を屈折させてしまい、彼は自分でもどうしようもできないものを抱えていました。
 家庭が不遇な少年たちに関わる仕事を長くされてきた方が、このように言ったことがあります。「人間には生まれてきたときから負わされてきた、運命があるんでしょうか。もうそれは変えられないんでしょうか。」私は何も答えられませんでした。「愛に不可能はない」と偉そうに説教しているけれど、現実には、A君はどうしようもないと内心考えている、と思いました。幼少期の育ち方は人格形成に重大な要素なので、そこで健全に愛を受けなかった人のことについて、楽観的な見通しを持つことができませんでした。

神に愛されていると知って人生を立て直したティム

 それからしばらくしてティム・ゲナールというフランス人の書いた自伝『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』という本を読みました。まだ十代だった彼の母親は、3歳のティムを電信柱にくくりつけて逃げてしまった。父親は階段の上から蹴り落とし、それから二年以上ティムは病院のベッドで過ごしました。その蹴り落とされた日は五歳の誕生日だったそうです。その後も虐待され九歳までに二度自殺未遂をし、少年院に入れられては脱走を繰り返していました。十六歳でボクシングに出会い、力をぶつけるところを見出しますが、孤独で空しく、暴力と性的衝動に駆りたてられる日々でした。
 ところがその頃から不思議な人々に出会い始めます。最初は荒くれ労働者たちの中で、一人神様の話をしているジャン・マリーという青年でした。ティムのことを「友達」だといって自分の家の仲間に紹介します。家というのはラルシュ(箱船)という名前の共同体で、障がいを持つ人とそうでない人が共同生活をするところでした。トマという神父は会うたびに、「イエス様の赦しがほしいですか」と言って祈り、徹底的にティムと付き合います。家の鍵を渡して「いつでも来ていいよ」と言う。ティムは朝四時に行って騒いだりするけれども、「イエス様の赦しをあげましょう」と言って神父は祈る。ティムはこの神父から、無条件の受け入れ、赦し、そして希望の三つの宝物をもらったといいます。
彼の妻となる素晴らしい女性は、彼をとことん受容してくれた。そのような人たちを通して、彼は自分が神様に愛されていると知って、人生を立て直したのです。彼は今、キリスト者として、家庭人として幸せな暮らしをしているそうです。養蜂業をしながら、やはり家庭に恵まれなかった、苦しんでいる青少年たちの相談にのり、よいカウンセラー、アドバイザーだといいます。
 私はこの本を読んで、「生まれてきた時から負わされている定めはもうどうしようもないものなのか」という問いに対して、「人が幼少期に受けるべきものを受け取れなったら、あとが本当に大変だ。でも、どうしようもなくはないのだ」という答えをもらったように思いました。人が見捨てても、神様は見捨てない。そしてどんな地点からでも、人はやはりやり直せるのです。
 ティムが大切な人たちに出会ったということを、キリスト教的な視点でとらえると、「やはり神様が彼のことを追いかけ続けていたんだ」ということが見えてきます。ジャン・マリー、変わり者の神父、連れ合いとなる女性など。この人たちにとって、神を信じるというのは抽象的な観念ではなくて、ティムという荒くれ者の人間を神が愛しておられる、と信じることでした。神様はあなたのことを本当に愛しているよと、僕も私もあなたのことが大好きだよ、あなたが必要だよ、と言葉や行動で表現することでした。
神様はこの人たちをメッセンジャーとして遣わして、「あなたをあきらめていないよ」と伝えてくださったのです。私はA君に再び会えたら「あなたが必要なんだよ」と話したい。これから出会う一人一人にはティムさんに出会った色々な人のうちの一人のようでありたいと思います。
 
見失った一匹の羊のたとえ

イエス様のたとえ話で有名なのが「見失った一匹の羊のたとえ」でしょう。百匹の羊のうち一匹がいなくなってしまった。一匹を見失ったら、羊飼いは見つけ出すまで探し回るというたとえです。数の論理で動く我々の社会だったならば、この一匹は切り捨てられることになります。一匹を追いかけて、九十九倍の経済価値がある羊を危険にさらすなんてことは馬鹿げています。しかしイエス様が九十九匹を野原に残して、と敢えて言ったのは、その一匹が百分の一という数ではなくて、「あなた」なんだ。一%なら、切り捨ててよい数字になりますが、「あなた」はかけがえがないのです。
 一人の人が神様から離れている。孤立している。それは神様の目から見たら、大切な存在が失われているということです。必死で探す。見つかり取り戻す。「見つかった!」という喜びが爆発する。周りの人たちにも「一緒に喜んでほしい」と呼びかけて大パーティーをする。一人の再発見は、神様の喜びであり、神様が他の人たちにも「喜んでくれ」と呼びかけることです。
イエス様がこのたとえで示されたのは「あきらめの悪い神様」だと思います。あきらめの悪い神様は、あなたをあきらめていない、それを告げるためにイエス様はこの世に来られ、十字架の死にまで至り、復活されたのです。