宿題の旅<2013年春の伝道礼拝>第2回(5月19日)説教要旨

荻窪教会副牧師 龍口奈里子
詩編 121:1~8
ヨハネによる福音書 21:1~14

<メッセージ>

 皆さんは、「さとり世代」と称される世代をご存じでしょうか。この世代は、「ゆとり世代」のあとの世代で、現在10代から20代半ばの人たちを指しています。彼らが生まれた時代というのは不景気の真っ只中で、頑張っても仕方がない、夢や目標を持つのは無駄だと、あきらめ気味に悟る姿から、「さとり世代」と名づけられたようです。

大学で若い世代と接している私が、このさとり世代に特徴的なことに気づいて、それを同僚に話してみると、同様に感じている方が多くて驚きました。一言で言えば、自分で出来る範囲の課題を先回りして無理なく失敗しないように対応するという生き方なのです。例えば今年の新入生はスマートフォン元年世代でもあり、ツイッターやフェイスブックを駆使して入学前から連絡を取り合う友だちが出来ていて入学式前に名前と顔が一致する友だちができている人が少なくありません。

また計画的で目標も持っています。講義に必要な参考書を事前に尋ねて来たり、入学したばかりの4月というのに、はやばやと、ボランティアや留学に関わる問い合わせを多く受けました。

しかし問題は、仮に大学の4年間がうまく過ごせたとしても、もっと長い卒業後の人生はそんな風にはいかないということです。それは人生という旅には「宿題」があるからです。人生の宿題となると、まず自分の宿題を自力で見つけることが出来ず、計画的に終わらせることも出来ません。なぜなら人生を積み重ねていくなかで新しい人や出来事に出会い、そのたびに新しい発見や変化があり、その次にまた新たな宿題が出てくるからです。私たちの人生は、いわば「宿題の旅」なのです。

本日の聖書のヨハネ21章に登場する主イエスの弟子たちは今日読んだ場面の3、4年前に初めて主イエスと強烈な出会いを経験し、第2の人生、旅が始まっていたのでした。不思議な力、オーラを持ったイエスに従っていけば、かつての漁師時代よりも自分の思い描く人生を歩めるかもしれないと思ってイエスとともに旅を続けていたのです。しかしイエスはその後逮捕され、十字架に架けられてしまい、弟子たちにとっては、それ以降の人生がひっくり返ってしまったのでした。

落胆の弟子たちに復活のイエスが3度現れます。弟子たちは3度目にようやく、それがイエスだと気づいたのでした。その時イエスは「何か食べる物があるか」(5節)と問い、元漁師であったペトロに網を打つ場所を教え、網を引き上げることが出来ないほどの魚がとれたのでした。

ペトロに初めて出会った時に、主から「ケファ」「岩」という名前まで与えられたシモン・ペトロでしたが、彼は何度も挫折や失敗を重ねてきていた弟子です。そうしたペトロに復活のイエスは、み言葉を伝え、人を漁ること、そして揺るがない土台の上に教会を建てなさいという命令、宿題を与えたのです。私たちの信仰生活でも似たようなことがあると思います。

私たちの人生も失敗と挫折の繰り返しです。そのたびに主は新しい宿題を与えられるのです。詩編121編の詩人は「主はあなたを見守る方」(5節)と歌っています。

私たちは、私たちに眼差しを向けて下さる方を見上げ、よろめきそうな足を主に向け、耳を主からの問いかけに向けて、託されている「宿題」に応えていけるよう、祈りながら人生の旅路を一歩一歩、歩んでいきたいと願います。