地図の無い旅<2013年春の伝道礼拝>第1回(5月12日)説教要旨

荻窪教会牧師   小海 基

 詩編119:18~19
ルカによる福音書10:30~37

 <メッセージ>

人生は「地図の無い旅」です。出かけないで引きこもっていれば安全で安心ですが、出かければ危険がある一方で素晴らしい恵みに出会うこともあります。ここで最大の問題は自分が人生という旅の正確な地図を持っているという思い込みです。

地図通り予定通りに目的地にたどりつけない時に、私たちは自分の不完全さを棚に上げて絶望し、行き詰まっているのが私たち人間の姿であることを忘れているということです。

人生には地図などあっても無いに等しいと考えて旅を楽しみ、思わぬ出会いを大切にできる旅があります。実は私たちが導かれている真実な旅は、そういうものです。

平時には気づきにくいことかもしれません。第二次世界大戦末期に強制絶滅収容所でピアノ線による絞首刑というむごい方法で処刑された神学者で牧師のディートリッヒ・ボンヘッファー(1906~1945)が残している言葉にハッとさせられます。

彼は神学的には天才であり、もし若い頃に自分が描いた人生の地図通りに歩いていたなら、師である神学者アドルフ・フォン・ハルナック(1851~1930)の愛弟子として国立ベルリン大学で大神学者になっていたことでしょう。しかし神様は彼の人生の地図を、ずたずたにされたのでした。彼は反ヒトラーの牧師の代表的存在として大学から追放され、説教壇から語ることも禁じられます。

米国の友人たちから米国への亡命を勧められますが帰国し、その後逮捕され、最終的にはヒトラー暗殺計画(ワルキューレ作戦)に加わった一人として処刑され、39歳の生涯を閉じるのです。何もかもが予定外の人生でした。

彼が残した黙想に詩編119編に関わるものがあります。119編はヘブライ語のアルファベットに合わせた日本流に言えばいろは歌のような詩で、聖書の中で一章の長さが最も長い詩です。彼はその19節の黙想で彼はアブラハムやヤコブの歩みを引用し、自分は地上で一人の旅人だと言っています。さらに18節について「神が私に示すものを見ようとする時、私は私の感覚の目を閉じなければならない。御言葉を私に見せようとなさる時、神は私の目を見えなくされる。目の見えない人の目を、神は開かれる。(中略)目の不自由な者のみが、開かれた目を求めて叫ぶ」と述べています。私たちはエリコの盲人バルティマイのように「見えるようになりたい」と叫び続けなければならないのです。

ルカによる福音書10章の「サマリア人のたとえ」も読みました。

『キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか』(モルデカイ・パルディール著松宮克昌訳)では、「サマリア人のたとえ」に突き動かされるようにして、あの時代にキリスト者がユダヤ人救済運動にどう関わったかの証言が記録されています。

「サマリア人のたとえ」が責任的応答、服従を促す大きな契機であったことをボンヘッファー自身も繰り返し語っています。

人生は地図の無い旅であり、手さぐり状態で導かれる旅なのです。地図が無くても導いて下さる方がおられ、見えなくても見えるようにして下さる方がおられるのだから、私たちは委ねて旅を進めることができるのです。