<2018年春の伝道礼拝>第3回(5月27日)説教要旨
「日毎の糧を今日も」
龍口奈里子
出エジプト記16:4~8
マタイによる福音書6:11~13
<メッセージ>
今回のテーマである「主の祈り」くらい、私たちにとって不自然で難しい祈りはないのではないでしょうか。主イエスは、「アッバ」と、本当のお父さんに呼びかけるように祈りなさいと教えられましたが、私たちは神様をそんな風に、親しげに、自然に呼びかけることができているでしょうか。子どもがお父さん、お母さんに全幅の信頼を寄せるように、私たちが心から神様を信じて従いますという、確かな信仰の応答でもってこの祈りを始めなければ、とても言えない「アッバ、父よ」であり、「主の祈り」なのです。
今日の説教題の「日毎の糧」あるいは主の祈りでは「日用の糧」ですが、その「日毎」「日用」とは、「必要な」「無くてはならぬ」「今日一日の」「日々の」という意味です。イエス様からこの祈りを教えられた当時の人たちがこの祈りをするとき、必ず思い起こす場面、出来事がありました。それはエジプトを脱出して約束の地へと向かうイスラエルの民が、荒れ野の旅の中で食べ物がなくなった時、神様から「天からのパン」であるマナによって養われたという出来事です。
神は彼らに一日分ずつ集めなさいと命じられました。欲を出して明日や明後日の分もと集めておいたものは腐って食べることができませんでした。ただし金曜日だけは翌日の安息日の分も集めることが許されました。マナはたった一日しか持たない食料ではなくて、神様が特別に「今日一日の分」「日毎の糧」としてイスラエルの民に、一日一日与えられたものであり、荒れ野での旅路の中で、民たちはそれによって養われて生きることができたのでした。
だから人々はいつも先祖たちに与えられた「天からのパン」のことを思い起こし、自分たちも神様によって今日一日を養われていくことを祈り求めたことでしょう。「今日」という一日を生きる、それが「アッバ、父よ」と呼びかけるようにして神様を信じて生きることなのだと、心深くに味わったのだと思います。
「糧」と訳されたアルトスというギリシャ語は、新約聖書に多く用いられています。イエス様がサタンから「石がパンになるように命じなさい」と言われた「パン」も「2匹の魚と5つのパン」の奇跡物語のパンも、同じアルトスで、「食べるパン」のことです。一方、主イエスが「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない」と言われた「パン」もアルトスですが、これは「ただ口から食べるパン」ではなく、「命のパン」です。同様のことが「主の祈り」の「日用の糧」にも言えます。私たちが神様から与えられる「糧」は空腹を満たすための「口から食べるパン」のことだけではなく、神様によって一日一日を養われている「命のパン」のことでもあるのです。
私たちはこの「命のパン」を求めて教会の門をたたいているのではないでしょうか。誰もがこの「命のパン」を求めて主イエスのもとへ行き、主イエスに出会っていきます。しかし主イエスによって今日一日の満腹を得たにもかかわらず、主イエスの元から離れようとしない群衆のように、自分たちの明日の飢え渇きを満たすために、誰かを踏みつけてしまうこともあるでしょう。だからこそ主は、「他人の糧を奪いませんから、私たちの今日一日のパンをお与えください」と祈りなさいというのです。私たちは祈るごとに、主のもとへいって「命のパン」をいただきます。さらに心と体を隣人へと向けて、それぞれの「いのち」を互いに分け与えていきます、という思いを持ってこの世へと出かけてゆくのです。