<2018年春の伝道礼拝>第2回(5月20日)説教要旨

<2018年春の伝道礼拝>第2回(5月20日)説教要旨
「御心が天にも地にも」

小海  基

ヨブ記       42: 1~ 6
マタイによる福音書 26:36~46

<メッセージ>

 岡田先生の伝道礼拝の直前に開かれた英語聖書を読む会で、「主の祈り」で一番大切なのはどの部分か、という面白い質問がありました。「主の祈り」が記録されているマタイ6章とルカ11章で主ご自身が解説されていることから推測して、「赦して下さい」「必要な糧を与えて下さい」が該当すると思います。
 困ったことに今日とりあげる「御心が天にも地にも行われますように」はマタイ6章にしか出てきませんし、主ご自身の解説もないのです。余り大切ではないのでしょうか。
 むしろ逆の発想をすべきだと思います。「主の祈り」には含まれていなかったかもしれないけれど、主イエスがいつも口癖のように祈っていたこの「御心が天にも地にも行われますように」が欠ければ「主の祈り」にならないと考えてマタイが6章に書き足したのだ。それは、今日読んだマタイ26章では十字架につけられる直前のゲッセマネでの祈りの中で3度もこの言葉を祈られたと記録されているからです。このことはマルコ14章、ルカ22章にも記録されています。そばにいた三人の弟子たちが眠ってしまったのになぜこの言葉が記録されたかと言えば、それはイエスが本当にいつも祈っていて、弟子たちは、そばで眠りに落ちながらも、先生はまたあの言葉を祈っている、と思っていたに違いないからです。
 考えてみれば、この祈りくらい不思議な言葉はないのかもしれません。ボンヘッファーは牧師研修所で講義がまだ出来た時期に神学生に次のように語りました。
 「イエスの弟子たちは、何よりも先ず神のみ名、神の国、神のみこころを祈らねばならない。神はこの祈りを必要とし給うことはないけれども、弟子たちの方はこの祈りによって、自分たちが乞い求めているみ国の宝にあずからねばならない。彼らはまた、このような祈りによって、約束を一層早く招きよせるのを助けることが許されるのである」。
 この講義はナチス時代に行われ、この講義を聞いた神学生の3分の2以上は戦死しています。ボンヘッファーはやがて逮捕されますが、獄中で、甥にあたるベートゲの息子の幼児洗礼のお祝いに書いた書簡が残されています。それには「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」とあります。
 昨年6回目の来日をされたクラッパート先生が指摘されたことですが、バルトの未完に終わった「教会教義学」の最後の断片の講義原稿では、「御国をきたらせたまえ」という主の祈りの部分の結びに、「義がなされよ」という言葉が書かれているが、これはボンヘッファーのこの書簡の言葉への応答なのだというのです。
 祈りにある「御国」とは天国ではなくイエスご自身であり、「マラナ・タ」(主よ来てください)の祈りであり、その応答が正義のために闘うことだというのです。
 最近、「本のひろば」6月号に翻訳家の小宮由(こみや・ゆう)氏が書いた「北御門二郎とトルストイとの出会い」という文章に引用されている、トルストイが執筆・編集した『文読む月日』の言葉とそれはつながります。
 「一羽の燕が春を呼ぶのではないと言われる。しかし、たとえ一羽の燕では春を呼べないとしても、すでに春を感じた燕としては、飛ばないでじっと待っているわけにゆこうか?」。
 私たち少数派のキリスト者の存在は、春を告げる一羽の燕のような存在でありたいと思うのです。