平和聖日説教「正義と平和」
2014年8月3日
小海 基
「そのとき、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。『直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。彼に告げよ。』」(列王記上第21章17~18節)
今年の平和聖日を取り巻くこの国の情況はまことに緊張しています。何も悪いことをしていないのに、恨みも何も無いのに殺されてしまう。実質的クーデターのような「解釈改憲」が押し通され「平和憲法」がなし崩しにされる。青少年や実の親による身震いするような殺害事件が続く。ガザで、ウクライナで戦火が上がり、幼い魂が失われる…。
北イスラエルのアハブ王が、ならず者を使ってイズレエルの農民ナボトを、身に覚えのない「神と王を呪った」という冤罪で石打ち刑に処してしまい、彼のぶどう畑を奪った事件も、ただ単に「別荘の隣にあるぶどう畑が欲しかった」というだけの実にくだらない理由で起こりました。何も殺さなくてもと思うような不条理の殺人事件です。
さすがに総てがうまく行き過ぎて、ここまでやって良かったのだろうかとアハブ王にも良心の呵責にとらわれたのか、迷いひるむ気持ちがあったと見えます。
しかし、悪妻イゼベル王妃は間髪入れずアハブ王をたきつけます。「あのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです」(21・15)。一国の王、国の頂点なのだから、当然なのだ。相応の銀を支払うと申し出ているのに、それを拒んだナボトの方が自業自得なのだというわけです。
ここでしたり顔で、「世の中というのはこのぐらいの不条理がまかり通るところなのだ」と、当時の北イスラエルの民のように殻に引きこもってしまったなら、「山上の説教」で「幸いである」とイエス・キリストから称えられる「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」(マタイ5・9~10)ではありません。預言者エリヤはこういう時、いつもたったひとりで神様から遣わされます。カルメル山でバアルとアシェラの預言者たちと勝負をした時もたったひとりでした。こちらはたったひとりで、850人と勝負したのでした。今回もたったひとりで、北イスラエルの絶対君主アハブに立ち向かうことが求められるのです。
キリスト者の「地の塩」の働きというのは、たったひとりで遣わされるところに担われるのです。
最近「福音と世界」誌に書評を書くように求められて、D・ボンヘッファーの『共に生きる生活』を読み返しました。そしてこんな風に書きました。
「『共に生きる』とか『交わり』という魅力的なタイトルに魅かれて本書を開く者は、誰もが冒頭から冷や水を浴びせられる。『イエス・キリストは敵のただ中で生活された。…イエスは十字架の上で、…ただひとりであった。彼は神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だからキリスト者も、修道院的な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活する。そこにキリスト者は、その課題、その働きの場を持つのである。…「〔その現実に耐えようとせず、友人たち、敬虔な人たちとだけ共にいようとする者〕、ああ、汝ら神を冒涜し、キリストを裏切る者たちよ!もしキリストがそのようになさったとしたら、いったい誰が救われたであろうか」(ルター)』(10~11頁)。『ひとりでいることのできない人は、交わり〔に入ること〕を用心しなさい』(109頁)と、中ほどでもだめ押しされる。時代の圧倒的な流れに抗して少数者として戦う中で生まれた記録なのである。キリスト教国で生まれた書であるが、日本のようなキリスト者そのものが社会の少数者であるようなところで、励ましと自覚をいつも与える書である。
『非暴力不服従』をインドのガンジーから学ぶことを断念し就任した、フィンケンヴァルデの告白教会の牧師研修所と兄弟の家(ブルーダ―ハウス)における二年半の共同生活を元に本書は書かれている。生前に出版されたボンヘッファーのわずかの著作の一つである。描かれているのは少数者であろうとも『外的奉仕』という使命を担うための『内的集中』する群れの実践記録。強制収容所で非業の最期を迎えた著者の生涯を支え続けた者が見えてくる。日本の今の憂うべき政治情況の中でこそ本書の響きを改めて聴くべき内容だ」。
アハブ王は最初こそ「わたしの敵、わたしを見つけたのか」と、北イスラエルの王の前で虫けらのようなエリアごときがどれほどの存在と、見下しています。しかしたったひとりで王の前に立つエリアは、人間としては力は無いのかもしれないけれど、全能の神の言葉を担っています。アハブ王は見る間に神の人場の前に力なく打ち砕かれてしまいます。ヨナの預言に思いかけず悔い改めたニネベの人々のようです。聖書を読んでいる私たちにも不思議に見えるほどです。
「アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた」(21・27)。
わたしたちもひとりのエリヤです。どんな時代の荒波であろうと、キリスト者が「平和を実現する」ひとり、「義のために迫害される」ひとりとして立つところから、神の国は始まっていくのです。神はその空の鳥のような、野の花のような「ひとり」の働きを決してないがしろにはされません。
(終わり)