<2017年春の伝道礼拝>第3回(5月28日)説教要旨

<2017年春の伝道礼拝>第3回(5月28日)説教要旨
「たとえ船は沈んでも」               

エレミヤ書第29章11節
使徒言行録第27章21節~26節、39節~44節

荻窪教会副牧師
龍口奈里子

<メッセージ)

 パウロは三回の伝道旅行の中で、三回「難船」したことがあるとコリントの信徒への手紙Ⅱで述べています。今日の箇所はこの三回の伝道旅行の後の出来事です。パウロは囚人として船でローマに護送される途上、暴風雨に巻き込まれました。船は座礁するのか沈むのか、誰一人助かる希望などない、死を覚悟した状態になりました。そのような状況の中、パウロはこう言ったのです。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失うものはないのです」。
 パウロにはこの時確かな根拠がありました。神の使いから次のように告げられていたのです。「恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべてのものを、あなたに任せてくださったのだ」と。パウロは自分の判断ではなく、主なる神が告げられた言葉への信頼を根拠にして、絶望の淵にいる囚人たちに励ましの言葉、希望の言葉を語りました。囚人だけでなく、護送する責任者であった百人隊長のユリウスもまた、このパウロの言葉に励まされました。船が陸地に難破した時、逃亡するのを防ぐために兵士たちが囚人を撃ち殺そうとしたとき、ユリウスはそれを止め、囚人は誰一人命を失うことはありませんでした。
 パウロが皆の前に立ち、「元気を出しなさい」「みんな助かります」と言えたのは、「どん底の只中にあっても」自分には神様の立てた計画があり、なすべき使命があって、それが果たされるよう主が導いてくださるという確信があった、ただそれだけなのです。たとえ自分の思い描くような希望や計画が絶たれたとしても、神が与えてくださる希望の計画は着々と前に進むのだという、その確信のみがパウロの励ましの言葉となったのです。
 東日本大震災で大きな被害を受けた新生釜石教会の牧師柳谷先生が「福音と世界」の今年の三月号に次のように書いておられます。「震災以降、『復興は進んでますか?』『教会が元通りになってよかったですね』といった言葉をかけられてきました。これを聞くたび、…『元通りってどういうこと?』『復っていうけどどこに戻るの?』と疑問に思っていました。神は…あれだけの悲しみ、あれほどの悲惨を見せつけて、それに負けず私たちが震災前の世界に戻ることを願っているのでしょうか?…しっくり来るのは次の預言です。『わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。未来と希望を与えるものである』(エレミヤ書29・11)。あのような大きな出来事を通して、神は平和の計画を実現しようとしています。…神が元通りを願っているとは私には思えません。逆に『あれがあったからこそ今がある』と思えるように成長することに着地点があるように感じます。」
 私たちは弱さゆえに愚かさゆえに、「元通りになりたい」「あのときがよかったのに」とつぶやきます。しかし神の計画は着々と前に漕ぎ出され、嵐の中をも進んでいくのです。私たちは経験した嵐や苦難や労苦を通して、神は平和の計画を「あのとき」から実現されようとしていたことを確信できるのです。嵐が吹き荒れ、沈みかけた小舟にいる私たちを主は、救いだし、使命を与えてくださり、共に船をこぎ続けてくださるのです。主への信頼を失わず一歩一歩進めていくことが何よりも大切であると、パウロの信仰を通して教えられるのです。主が約束される「平和と希望」を語りあい、この船をこぎ続けてまいりましょう。

<2017年春の伝道礼拝>第2回(5月21日)説教要旨

<2017年春の伝道礼拝>第2回(5月21日)説教要旨
「この船は沈まない」
出エジプト記第17章8節〜16節
ルカによる福音書第8章22節〜25節

立川からしだね伝道所牧師
道家 紀一(どうけ・のりかず)先生

<メッセージ>

 立川からしだね伝道所のためにいつもお祈り頂き、ありがとうございます。本日はとても良い時にお招き頂いたと感謝しております。というのは当初この伝道礼拝へのお話を受けた時はまだ決まっておりませんでしたが、先日ようやく土地・建物を取得することが出来、そのご報告を携えて本日の説教奉仕に伺えることになったためです。

私のこれまでの歩み

 ごく簡単に私のこれまでの歩みをお話します。私は1960年名古屋で生まれ、高校まで名古屋におりました。家庭には聖書、讃美歌と羽仁もと子著作集がある環境で育ち、母の影響でキリスト教に出会いました。大学は茨城県の茨城大学に進み、臨床心理学を学びました。大学在学中、水戸教会で洗礼を受けました。
 卒業後、就職せず献身を志し、牧師が同志社出身であったことから同志社大学に願書を送りましたが、提出が期限ぎりぎりであった上、大雪のため郵便が遅延して受理されない結果となりました。そのため郷里の名古屋に戻り、一年間地元の大学の聴講生として過ごしました。教会は金城教会に通い、献身を願い同志社への推薦を牧師に願い出たところ、牧師が東神大(東京神学大学)出身で東神大への進学を主張され、やむなく東神大に入学しました。入学は小海牧師の卒業と入れ替わりと記憶しています。東神大在学中は国立教会に通い、現在の西東京教区(当時西支区)との関わりが出来ました。1989年に卒業し、四国・徳島県の小松島教会で8年間、そのあと東京都杉並区の井草教会で17年間仕えました。
 その間に教団の仕事にも関わり、西東京教区では書記、開拓伝道委員長を務めたりして立川からしだね伝道所の主任牧師(兼務)になり、現在に至っています。このような人生の嵐を経験した中から御言葉を語りたいと思います。

主が「湖の向こう岸に渡ろう」と言われる意味

 ガリラヤでの伝道活動を弟子たちと続けておられた日々のある日、主イエスは突然、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われて船出したと聖書にあります。のちにその日々は〝ガリラヤの春〟と呼ばれるように平穏な日々の中でした。
 これは突然波風を立てるようなご発言でありました。今日の私たちにしてみればガリラヤ湖の向こう岸に行くとは何でもないことのように思われますが、当時は単純なことではありませんでした。向こう岸とは彼らユダヤ人の知らない別の世界、異邦人の国でした。そのような地へ渡るにはそれ相応の決心と覚悟が必要で、弟子たちは相当戸惑い、恐ろしさを感じていたかもしれません。

神様はなぜ眠られ、沈黙しておられたのか

 主イエスと共に船出した弟子たちに驚くべきことが起こります。主が眠ってしまわれたのです。これまでと同じ場所に移動する船旅ではなく異邦人の地に向かっているのです、それなのに眠ってしまわれたのです。
神を信じる者が必死になって行動している時に、神が眠って何も答えて下さらない時があります。神の沈黙とでも言いましょうか。
 遠藤周作の小説『沈黙』が映画化されましたが、主人公の宣教師はそのような決断の極みに立たされます。信仰を捨てる(棄教)ことによってキリシタンの信者を救ってやろうという役人の言葉に彼は激しく迷います。
 そんな時私たちの多くは「神よ、なぜお答えにならないのか」と眠れない夜が続き、待てなくなって神に代わって自分で答を出してしまいます。究極の場で自分が取った行動に何らかの評価がほしいからです。
 主が眠られたのは弟子たちを信頼し安心されているからです。神は私たちを抜きにしては行動を起こされない、これは真実です。神は神と共に働く私たちを召しておられるのですから、いささか厳しい言いようでありますが、私たちはその信頼に答えるべきです。神からの答えを急いで引き出そうと焦らず、むしろ神の信頼に応えて難局を歩み抜こうと努力すべきではないでしょうか。
 結果は神様が責任をとって下さると信じて、ひたすら祈り、なすべき務めを実行して歩み続けましょう。神は結果ではなく〝プロセス〟に目を留めて下さるお方です。

嵐の中にあっても漕ぎ続ければ船は決して沈まない

 主イエスが船で眠られている間に嵐となり、船に水が入り沈みそうになります。弟子たちは「先生、先生、おぼれそうです」と言います。主を信頼して従ってきたのにどうしてこんな恐ろしい目に遭わねばならないのかと弟子たちは考えたに違いありません。
 私たちは洗礼を受けて信仰の世界に入ったからといって嵐のない波風の立たない静かな世界に入ったということではありません。この世で嵐がなくなることはありません。嵐の時にそれをどう引き受けることができるか、それが神を信じる者に常に問われることです。「こんなにも悪いことが続いたら信仰どころではない」と言って信仰の世界を去ってゆく人は後を絶ちません。教会を去ってゆく人には、たとえ神が眠っておられるように思えても、神に信頼されている自分を信じて歩み続けるよう申し上げたいのです。
 主イエスは眠りから起きて風と荒波をお叱りになると静まって凪になり、弟子たちは平安を取り戻しました。この主イエスの行動は神が沈黙を破って答えられたという信仰の物語ではありません。信仰なき実に情けない弟子たちの、そして私たちの神への信頼のなさの現れ以外の何物でもありません。イエスが弟子たちに問われたことは嵐の中であっても、なぜ船を漕ぎ続けなかったかということです。
 主イエスは「あなたの信仰はどこにあるのか」と言われます。これは神を信じ、神に信頼されている人間として持つべき信仰とはどういうものであるか、よくよく考えなさいという意味です。
 弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう」と互いに言います。この答えはのちに主が死の眠りから甦られた時に弟子たちは悟ることになります。主の十字架と復活の歩みに思いを馳せて、全てを担われる主を信頼して船を漕ぎ出してまいりましょう。

<2017年春の伝道礼拝>第1回(5月14日)説教要旨

<2017年春の伝道礼拝>第1回(5月14日)説教要旨
「迷走船の行方」

ヨナ書第1章1~16節
マタイによる福音書第12章38~41節
荻窪教会牧師 
小海  基

<メッセージ>

 5月の伝道月間のテーマは、「航海」です。
 人生を航海に例えたり、教会のシンボルが船になったりするのは、砂漠の遊牧民の中から生まれたキリスト教にとってかなり後の時代となりますが(この砂漠の民はよほど海が恐ろしかったらしく、世界の終末を語るヨハネの黙示録第20章の終わりで早々と海は消えます。「パラダイス」というと南太平洋の島のようなイメージを抱きがちな私たちには意外なことですが…)、それでも旧約にも新約にもわずかながら「航海」の物語が残されています。
 その代表的なものとして伝道礼拝一回目で旧約聖書の預言書「ヨナ書」を読みましょう。
 預言者ヨナが神さまから「さあ、大いなる都ニネベに行って……呼びかけよ」と命令をうけたニネベは大きな都です。ここがアッシリア帝国の最後の首都となったのがセンナケリブ王の時代、紀元前700年前後で帝国の全盛の頃でした。
 預言者は神のことばをとりつぐ人です。宗教社会学者のマックス・ウエーバーは至福預言には人間は喜んでお金を払うが不吉なことを語っているとお金はとれないし、場合によっては石が飛んでくることもある。神さまから禍の預言を託されて語る預言者こそ本当のプロであると書いています。
 預言者ヨナは実在した人です(列王記下14章25節)。アミタイの子ヨナは神さまから世界超大国のアッシリア帝国の首都ニネベへ行って、ニネベは悪のゆえに滅びると禍の預言を語れと命じられます。
しかし権力の絶頂期のアッシリア帝国にこの言葉を伝えて何になろう、お金を貰うどころか逮捕され、殺されてしまうかもしれないと、ヨナは正反対に西へ地中海を船で渡って、スペインの南西タルシュシュ(現在のタルステ)へ逃げて行こうとしたのです。ヨナ書のテーマは、神のあわれみはヘブライ民族のみではなく、悔い改める全世界の異邦人にも及ぶということです。
 ヨナ書は寓話です。神さまの命令から人間は逃げられない。ヨナが主から逃れようと乗り込んだ船は迷走しはじめ、沈没しかねない時にヨナは船底で眠りこけています。船長はヨナを起こしてあなたの神に祈れと頼みます。ヨナも祈ったが何も変わらなかった。犯人探しのためにくじ引きをするとヨナに当たり、しぶしぶ告白します。私はヘブライ人で海と陸を創造された神をおそれる者です(よくも言えたものです!)が、主の命令に逆らって逃げています。私を捕らえて海にほうり込みなさい。彼らが主に祈りながらヨナの手足を捕らえて海にほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まりました。プロの預言者ヨナより異邦人の船員たちの方がよほど信仰的です。
ヨナは三日三晩大きな魚に飲み込まれ、陸地に吐き出されます(このヨナの物語は後のピノキオ物語となる)。
 ニネベは悔い改め救われます。

 迷走船は私たちの世界そのものではないでしょうか。ヘイトスピーチが世界中ではびこり、自国優先主義が流行して、アメリカや日本が迷走に加担している世界は今自分を見失って迷走船のようになっています。私たち自身もヨナそのものかもしれません。
 本当に神の言葉を聞いて共に生きていくことはどういうことでしょうか。迷走船の行方は神さまが示して導いて下さっていることをしっかりと心に受け止めて歩んでいきましょう。