<2017年春の伝道礼拝>第2回(5月21日)説教要旨

<2017年春の伝道礼拝>第2回(5月21日)説教要旨
「この船は沈まない」
出エジプト記第17章8節〜16節
ルカによる福音書第8章22節〜25節

立川からしだね伝道所牧師
道家 紀一(どうけ・のりかず)先生

<メッセージ>

 立川からしだね伝道所のためにいつもお祈り頂き、ありがとうございます。本日はとても良い時にお招き頂いたと感謝しております。というのは当初この伝道礼拝へのお話を受けた時はまだ決まっておりませんでしたが、先日ようやく土地・建物を取得することが出来、そのご報告を携えて本日の説教奉仕に伺えることになったためです。

私のこれまでの歩み

 ごく簡単に私のこれまでの歩みをお話します。私は1960年名古屋で生まれ、高校まで名古屋におりました。家庭には聖書、讃美歌と羽仁もと子著作集がある環境で育ち、母の影響でキリスト教に出会いました。大学は茨城県の茨城大学に進み、臨床心理学を学びました。大学在学中、水戸教会で洗礼を受けました。
 卒業後、就職せず献身を志し、牧師が同志社出身であったことから同志社大学に願書を送りましたが、提出が期限ぎりぎりであった上、大雪のため郵便が遅延して受理されない結果となりました。そのため郷里の名古屋に戻り、一年間地元の大学の聴講生として過ごしました。教会は金城教会に通い、献身を願い同志社への推薦を牧師に願い出たところ、牧師が東神大(東京神学大学)出身で東神大への進学を主張され、やむなく東神大に入学しました。入学は小海牧師の卒業と入れ替わりと記憶しています。東神大在学中は国立教会に通い、現在の西東京教区(当時西支区)との関わりが出来ました。1989年に卒業し、四国・徳島県の小松島教会で8年間、そのあと東京都杉並区の井草教会で17年間仕えました。
 その間に教団の仕事にも関わり、西東京教区では書記、開拓伝道委員長を務めたりして立川からしだね伝道所の主任牧師(兼務)になり、現在に至っています。このような人生の嵐を経験した中から御言葉を語りたいと思います。

主が「湖の向こう岸に渡ろう」と言われる意味

 ガリラヤでの伝道活動を弟子たちと続けておられた日々のある日、主イエスは突然、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われて船出したと聖書にあります。のちにその日々は〝ガリラヤの春〟と呼ばれるように平穏な日々の中でした。
 これは突然波風を立てるようなご発言でありました。今日の私たちにしてみればガリラヤ湖の向こう岸に行くとは何でもないことのように思われますが、当時は単純なことではありませんでした。向こう岸とは彼らユダヤ人の知らない別の世界、異邦人の国でした。そのような地へ渡るにはそれ相応の決心と覚悟が必要で、弟子たちは相当戸惑い、恐ろしさを感じていたかもしれません。

神様はなぜ眠られ、沈黙しておられたのか

 主イエスと共に船出した弟子たちに驚くべきことが起こります。主が眠ってしまわれたのです。これまでと同じ場所に移動する船旅ではなく異邦人の地に向かっているのです、それなのに眠ってしまわれたのです。
神を信じる者が必死になって行動している時に、神が眠って何も答えて下さらない時があります。神の沈黙とでも言いましょうか。
 遠藤周作の小説『沈黙』が映画化されましたが、主人公の宣教師はそのような決断の極みに立たされます。信仰を捨てる(棄教)ことによってキリシタンの信者を救ってやろうという役人の言葉に彼は激しく迷います。
 そんな時私たちの多くは「神よ、なぜお答えにならないのか」と眠れない夜が続き、待てなくなって神に代わって自分で答を出してしまいます。究極の場で自分が取った行動に何らかの評価がほしいからです。
 主が眠られたのは弟子たちを信頼し安心されているからです。神は私たちを抜きにしては行動を起こされない、これは真実です。神は神と共に働く私たちを召しておられるのですから、いささか厳しい言いようでありますが、私たちはその信頼に答えるべきです。神からの答えを急いで引き出そうと焦らず、むしろ神の信頼に応えて難局を歩み抜こうと努力すべきではないでしょうか。
 結果は神様が責任をとって下さると信じて、ひたすら祈り、なすべき務めを実行して歩み続けましょう。神は結果ではなく〝プロセス〟に目を留めて下さるお方です。

嵐の中にあっても漕ぎ続ければ船は決して沈まない

 主イエスが船で眠られている間に嵐となり、船に水が入り沈みそうになります。弟子たちは「先生、先生、おぼれそうです」と言います。主を信頼して従ってきたのにどうしてこんな恐ろしい目に遭わねばならないのかと弟子たちは考えたに違いありません。
 私たちは洗礼を受けて信仰の世界に入ったからといって嵐のない波風の立たない静かな世界に入ったということではありません。この世で嵐がなくなることはありません。嵐の時にそれをどう引き受けることができるか、それが神を信じる者に常に問われることです。「こんなにも悪いことが続いたら信仰どころではない」と言って信仰の世界を去ってゆく人は後を絶ちません。教会を去ってゆく人には、たとえ神が眠っておられるように思えても、神に信頼されている自分を信じて歩み続けるよう申し上げたいのです。
 主イエスは眠りから起きて風と荒波をお叱りになると静まって凪になり、弟子たちは平安を取り戻しました。この主イエスの行動は神が沈黙を破って答えられたという信仰の物語ではありません。信仰なき実に情けない弟子たちの、そして私たちの神への信頼のなさの現れ以外の何物でもありません。イエスが弟子たちに問われたことは嵐の中であっても、なぜ船を漕ぎ続けなかったかということです。
 主イエスは「あなたの信仰はどこにあるのか」と言われます。これは神を信じ、神に信頼されている人間として持つべき信仰とはどういうものであるか、よくよく考えなさいという意味です。
 弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう」と互いに言います。この答えはのちに主が死の眠りから甦られた時に弟子たちは悟ることになります。主の十字架と復活の歩みに思いを馳せて、全てを担われる主を信頼して船を漕ぎ出してまいりましょう。