<2016年秋の伝道礼拝>第3回(11月27日) 説教要旨

「他人は救ったのに自分を救えない神」

イザヤ書第53章3〜5節
マルコによる福音書第15章25〜32節

荻窪教会牧師  小海  基

<メッセージ>

秋の伝道月間のテーマは「逆説の神」です。聖書が予定調和、順説表現をあえてとらない時は、ひとひねりの表現でしか語り切れない特別な意味があると思うのです。
本日の説教題は十字架につけられた主イエスに投げつけられた侮辱の言葉です。先ほど
読んだマルコによる福音書が一番古い記録ですが、このことはマタイ(27章)、ルカ(23章)にも記録されています。いずれも注目されるのは、イエスがその侮辱の言葉を訂正されていないことです
ルカでは一緒に十字架にかけられた犯罪人の一人が「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と繰り返します。もう一人の犯罪人はたしなめて「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない」と告白します。「自分を救わない」でなく「救えないメシア」と侮るのです。

今日はアドベント第一礼拝でもあります。教会暦の色として紫色を用います。紫は悲しみの色であり、最近は赤色でなく、紫色のロウソクを用いるキリスト教国もあります。楽しいクリスマスというよりも、断食をするような思いでこの四週間を過ごすというクリスマスの迎え方が復興しつつあります。
それは「飼い葉桶と十字架」という言い方で表現されることですが、この救い主は神の座におられるのに、私たちを救うために地上に降りてこられ、生まれた最初の晩も、王宮のベッドではなく飼い葉桶に寝かされ、枕する所もない日々を送り、十字架という形(単に死んだのではなく政治犯として殺された)を通して罪深い私たちを救われた方だということをこのアドベントの四週間、深く心に刻みながら救い主の誕生日を待つべきだということなのです。
今日はマルコに加えてイザヤ書53章、苦難の僕(しもべ)の個所を一緒に読みました。まるで受難節に読むような個所です。私が神学生の時に二年間過ごした吉祥寺教会で竹森満佐一牧師はアドベントに入ると、このイザヤ書53章を説教で採り上げることをならいとされていました。先生は「ここは大変暗い話だが、神の前に苦難を使命として遣わされた僕としての救い主の姿が画かれている」と語られ、クリスマスを浮かれて迎えてはいけないと強く言われていました。
最も絶望の中にいる人こそが、主の十字架の出来事を最も身近に感じることが出来ます。そうした一人が、ヒトラーの暗殺計画に関わったことで捕えられ処刑されたボンヘッファーです。獄中で暗殺計画が失敗であったことを知らされたあとに彼が獄中で書いた文章は、ドイツばかりか世界中のキリスト者に衝撃を与えました。
彼は、マルコ15・34(エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ)、イザヤ書53章を踏まえて、「神の苦しみにあずかることが、キリスト者を作る。これが、悔改め(メタノイア)なのだ。それは自分自身の窮乏や問題、罪や不安を先ず考えることではなく、イエス・キリストの道に、イザヤ書53章が今成就されるというメシアの出来事に、自分がまきこまれることだ!」と書いています。
「自分は救えない」という形で、救い・希望・赦しを私たちに与える神の姿を聖書は伝えています。予定調和、順説の表現では言い表し得ない出来事、主イエスキリストの救いのメッセージを私たちが広く宣べ伝えていきたいと願います。

<2016年秋の伝道礼拝>第2回(11月20日) 説教要旨

「黙していられない神」
エレミヤ書第4章19節
マタイによる福音書第18章21〜35節

荻窪教会副牧師  龍口 奈里子

<メッセージ>
エレミヤの時代(紀元前6・7世紀頃)、イスラエルは政治的不正や異教の神々への祭儀が蔓延し、荒廃していました。エレミヤ書全52章は厳しい滅びの預言と希望の預言の両面が交互に語られているのが特色です。1-30章には神の怒りと裁きの言葉が、31-52章には神の痛みと悲しみの言葉が綴られています。
4章19節では滅びと希望という、相対する神の思いがとてもよく描かれています。「はらわたよ、はらわたよ」と2回続けています。「はらわた」というと、腹がたって怒りを堪えることが出来ない状態を「はらわたが煮えくり返る」と表現しますが、「はらわた」という言葉には別の意味もあります。ギリシャ語の「スプランクノン」は「内臓・はらわた」という言葉ですが、動詞にすると「スプランクニゾマイ」となります。31章20節「わたしは彼を憐れまずにはいられない」の「憐れむ」に「スプランクニゾマイ」が用いられています。腹の底から痛む・苦しむという意味です。
日本語にも、はらわたがちぎれるほど辛く悲しい思いを表す「断腸の思い」という言葉があります。4章27節で「わたしは滅ぼし尽くしはしない」と神は言われました。つまり神の怒りは「はらわたが煮えくり返る」というよりも「断腸の思い」という意味に近いのではないでしょうか。痛みを伴う赦し、「断腸の思い」で神は愛する民の罪を赦そうとされるのです。「はらわたよ、はらわたよ」と呼びかけて、もだえ苦しんでいる神の姿は、怒りではなく民を憐れみ苦しんでいる姿なのです。怒りながらも苦しむ神、裏切られようとも愛する神、悔い改めの心を待ち望みながらも一方的に赦す神、黙っていられない神、それが「スプランクニゾマイ・神の憐れみ」なのです。
 
新約聖書のたとえの中にも動詞「スプランクニゾマイ」が出てきますが、そこでは他人の苦しみを自分の苦しみのように苦しむ事、共に痛む事、共に悲しむ事という意味合いがあります。ギリシャ語「スプランクノン」(はらわた・内臓)は日本語で「同情・共感」と訳します。ドイツ語のミットライデンはミット=共に、ライデン=苦しむ。英語のシンパシーはシン=共に、パシー=苦しみ・感情という言葉からなります。主イエスのたとえでは「共に」ということが強調されていると思います。
 今日の「仲間を赦さない家来」のたとえで、王が最後に言った「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の「憐れむ」が動詞「スプランクニゾマイ」です。ペトロの「兄弟の罪を何回赦すべきですか、7回までですか」という問いに、主イエスは「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と言われました。何回その人を赦せるかではなく、主イエスが私たちの苦しみや悲しみに寄り添って赦してくださったように、私たちも自分から赦しなさいという事です。
このことがどれほど難しいかを私たちはよく知っています。だからこそ「自分の仲間を憐れむ心」が大切なのです。神さまからただ一方的に赦され、その赦しの道を私たちもまた歩む時、それが「共に生きる」道なのだと思います。
 「黙していられない」と厳しく語る神は、厳しく裁く神であると同時に憐れみの、赦しの神でもありました。そして主イエスは私たちと共にいて、同じ心をもって私たちを憐れみ「互いに愛し合い・赦し合い・共に生きる」道へと導いてくださっています。

<2016年秋の伝道礼拝>第1回(11月13日) 説教要旨

「あきらめの悪い神」               

エゼキエル書 第34章6~12節
ルカによる福音書第15章1~7節

カンバーランド長老・めぐみ教会牧師   荒瀬牧彦先生

<メッセージ>

三人がグループ家出をした忘れられない事件

東大和市で二十三年前に開拓伝道を始め、そこで牧師をしています。十年以上前のことですが、忘れられない事件があります。
教会にTちゃんという軽い知的障がいがある20歳代の女性がいました。養護学校時代のクラスメートのA君とB君と一緒にグループ家出をしました。知的障がいはごく軽いがワルのA君が、優しいB君とTちゃんを誘ったようでした。
探し回っても見つからず、数週間後の夜遅くに、寒さに耐えきれなくなってB君とTちゃんが、しぶるA君を引っ張って教会に助けを求めてやってきました。多摩川の河川敷の草むらの中に、シートでテントを作って暮らしているということでした。
夜中でしたがTちゃんの母親はすぐに駆けつけてきました。B君のお父さんは朝まで仕事でしたが、留守録を聞いて勤務明けに飛んできました。しかしA君を迎えに来る人はいませんでした。余りにも悪さを繰り返してきたので、家族とは絶縁状態だったのです。
私は不良のA君から弱い二人を守らなくてはと思い、A君を猛烈に怒りました。二度と彼らには関わるな、と。その時A君の気持には思い至りませんでした。B君のジャンパーを取りに河川敷に行き、ブルーシートのテントを見た時、これは「家」なんだと分かりました。「A君は自分の『家』が欲しかったのではないか」と思いました。私も含め周りの大人は誰も彼に寄り添おうとはしなかったし、誰も立ち直りを助けることはできませんでした。これまでの成育歴が彼を屈折させてしまい、彼は自分でもどうしようもできないものを抱えていました。
 家庭が不遇な少年たちに関わる仕事を長くされてきた方が、このように言ったことがあります。「人間には生まれてきたときから負わされてきた、運命があるんでしょうか。もうそれは変えられないんでしょうか。」私は何も答えられませんでした。「愛に不可能はない」と偉そうに説教しているけれど、現実には、A君はどうしようもないと内心考えている、と思いました。幼少期の育ち方は人格形成に重大な要素なので、そこで健全に愛を受けなかった人のことについて、楽観的な見通しを持つことができませんでした。

神に愛されていると知って人生を立て直したティム

 それからしばらくしてティム・ゲナールというフランス人の書いた自伝『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』という本を読みました。まだ十代だった彼の母親は、3歳のティムを電信柱にくくりつけて逃げてしまった。父親は階段の上から蹴り落とし、それから二年以上ティムは病院のベッドで過ごしました。その蹴り落とされた日は五歳の誕生日だったそうです。その後も虐待され九歳までに二度自殺未遂をし、少年院に入れられては脱走を繰り返していました。十六歳でボクシングに出会い、力をぶつけるところを見出しますが、孤独で空しく、暴力と性的衝動に駆りたてられる日々でした。
 ところがその頃から不思議な人々に出会い始めます。最初は荒くれ労働者たちの中で、一人神様の話をしているジャン・マリーという青年でした。ティムのことを「友達」だといって自分の家の仲間に紹介します。家というのはラルシュ(箱船)という名前の共同体で、障がいを持つ人とそうでない人が共同生活をするところでした。トマという神父は会うたびに、「イエス様の赦しがほしいですか」と言って祈り、徹底的にティムと付き合います。家の鍵を渡して「いつでも来ていいよ」と言う。ティムは朝四時に行って騒いだりするけれども、「イエス様の赦しをあげましょう」と言って神父は祈る。ティムはこの神父から、無条件の受け入れ、赦し、そして希望の三つの宝物をもらったといいます。
彼の妻となる素晴らしい女性は、彼をとことん受容してくれた。そのような人たちを通して、彼は自分が神様に愛されていると知って、人生を立て直したのです。彼は今、キリスト者として、家庭人として幸せな暮らしをしているそうです。養蜂業をしながら、やはり家庭に恵まれなかった、苦しんでいる青少年たちの相談にのり、よいカウンセラー、アドバイザーだといいます。
 私はこの本を読んで、「生まれてきた時から負わされている定めはもうどうしようもないものなのか」という問いに対して、「人が幼少期に受けるべきものを受け取れなったら、あとが本当に大変だ。でも、どうしようもなくはないのだ」という答えをもらったように思いました。人が見捨てても、神様は見捨てない。そしてどんな地点からでも、人はやはりやり直せるのです。
 ティムが大切な人たちに出会ったということを、キリスト教的な視点でとらえると、「やはり神様が彼のことを追いかけ続けていたんだ」ということが見えてきます。ジャン・マリー、変わり者の神父、連れ合いとなる女性など。この人たちにとって、神を信じるというのは抽象的な観念ではなくて、ティムという荒くれ者の人間を神が愛しておられる、と信じることでした。神様はあなたのことを本当に愛しているよと、僕も私もあなたのことが大好きだよ、あなたが必要だよ、と言葉や行動で表現することでした。
神様はこの人たちをメッセンジャーとして遣わして、「あなたをあきらめていないよ」と伝えてくださったのです。私はA君に再び会えたら「あなたが必要なんだよ」と話したい。これから出会う一人一人にはティムさんに出会った色々な人のうちの一人のようでありたいと思います。
 
見失った一匹の羊のたとえ

イエス様のたとえ話で有名なのが「見失った一匹の羊のたとえ」でしょう。百匹の羊のうち一匹がいなくなってしまった。一匹を見失ったら、羊飼いは見つけ出すまで探し回るというたとえです。数の論理で動く我々の社会だったならば、この一匹は切り捨てられることになります。一匹を追いかけて、九十九倍の経済価値がある羊を危険にさらすなんてことは馬鹿げています。しかしイエス様が九十九匹を野原に残して、と敢えて言ったのは、その一匹が百分の一という数ではなくて、「あなた」なんだ。一%なら、切り捨ててよい数字になりますが、「あなた」はかけがえがないのです。
 一人の人が神様から離れている。孤立している。それは神様の目から見たら、大切な存在が失われているということです。必死で探す。見つかり取り戻す。「見つかった!」という喜びが爆発する。周りの人たちにも「一緒に喜んでほしい」と呼びかけて大パーティーをする。一人の再発見は、神様の喜びであり、神様が他の人たちにも「喜んでくれ」と呼びかけることです。
イエス様がこのたとえで示されたのは「あきらめの悪い神様」だと思います。あきらめの悪い神様は、あなたをあきらめていない、それを告げるためにイエス様はこの世に来られ、十字架の死にまで至り、復活されたのです。