2022年イースター・メッセージ(荻窪教会牧師 小海基)

2022年イースター・メッセージ
神に対して生きる
荻窪教会牧師  小海 基

<聖書>
 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい (ローマの信徒への手紙第6章11節)。

<メッセージ> 
 パウロのこの言葉からは、「復活」が単にイエスご自身に留まるのでなく私たちに深く関わっていることを懸命に伝えようとしていることが伝わってきます。
 生前の主と共に歩んできたペトロや使徒たちにとっては、イエス・キリストを葬った墓が空であった事、釘跡の残った身体、目の前で天にあげられた姿……といったことの方が「復活」の何よりも印象深いことであったかもしれませんが、「復活」後にキリスト者となったパウロにとって、またエルサレムから遠く離れたローマに住む信徒たちにとっても、「復活」とはほかでもない自分自身に深く関わる出来事だと訴えかけるのです。
 キリストの死と共に「罪に対して死」に、キリストの「復活」と共に「神に対して生きる」者とされているのだ、と。

 ようやく「新型コロナ禍」新規感染者数が収まり始めたと思っていたら、今度はロシアの侵攻によってウクライナで戦争が始まってしまったという「受難節」を私たちは送っています。
 ロシアの作家トルストイが最晩年まで推敲を重ねたという『文読む月日』(ちくま文庫)を私は読み返しています。平和を熱く語っている言葉が多いことに改めて驚かされます。
 訳者の北御門二郎(きたみかど・じろう)は、旧制五高生時代にトルストイの『人は何で生きるか』に出会ってしまい、その後とうとう東大英文科を中退、誰もが戦争へと駆り立てられていたあの時代に徴兵を拒否し、故郷熊本の山奥でトルストイを読みながら農作業を続けて2004年に91歳で亡くなったと言う人です。かつてのロシアは、それほどまでに「平和主義」の発信源の一つでした。

 「ある人が川の向こうに住んでおり、彼の皇帝が私の皇帝と喧嘩しているため、わたし自身は彼と喧嘩をしているわけでもないのに、彼には私を殺す権利がある、などという理不尽な話がほかにあるだろうか?(パスカル)」とか「ヨーロッパ諸国の政府は1,300億の負債を抱えており、その中の1,100億は1世紀の間に溜まったものである。この巨額の負債は全部、もっぱら戦費調達のためのものであった。ヨーロッパ諸国の政府は、平時において400万人以上の軍隊を持っており、戦争となるとそれを1,900万まで増加させることができる。その政府予算の3分の2は、負債の利子と陸海軍の維持に消費しつくされている。(モリナール)」……と言った具合に、日露戦争(1904年)前後にトルストイの目に触れた言葉が引用されています。当時も今も人間の愚かさがちっとも変わらないことに気付かされます。
 「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きる」ことが許されている者が選ぶ道を、トルストイはこういう風に語っています。

 「多くの人々は神の教えに従わず、ただ神を崇めるだけである。別に神を崇めなくていいから、神の教えに従うがよい。」

 そうです。世界中の権力者たちが、軍拡ではなく、「神に対して」共に生きるということ、平和に従うということこそを聴かなければならないイースターです。

(終わり)

2021年クリスマス・メッセージ 静かな夜、きよい夜 

2021年クリスマス・メッセージ
静かな夜、きよい夜                          
荻窪教会牧師  小海 基

<聖書>
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、……」(ルカによる福音書第2章13~14節a)

<メッセージ>
 有名な「きよしこの夜」という賛美歌264番の由木康の訳については、かねがねヨーゼフ・モールの原詞と強調点が違うのではないかと思ってきました。あれは「静かな夜、きよい夜」と、まず「静けさ」が歌われるからです。
 「新型コロナ禍」の感染者数が治まりつつあるものの、今年のクリスマス・イヴの「キャンドルサーヴィス」は歌うことはせずに楽器演奏で持つことにしました。
 一番初めのクリスマスの晩にならって、「静かに」守ろうというわけです。最初の「静けさ」を再体験しようというわけです。
 そうです。最初のクリスマスは「静かな夜」に特徴があったのです。
 「夜通し羊の群れの番をしていた」羊飼いたちは天使の知らせと、天の大軍の賛美にさぞかし圧倒されたことでしょうが、「いと高きところに……」とグロリアを歌ったのは天使たちだけでした。
 そもそもルカの伝えるクリスマス物語は、神の救いの出来事が、神のひとり子が肉をとった真の人間として誕生するという「受肉の神秘」の前に私たちはおそれて沈黙せざるを得ないことを強調しています。幼子イエスの誕生に先立つ洗礼者ヨハネの誕生の時には、父ザカリヤの口をきけないように天使がしたことを報告しますし(1章20節)、イエスの誕生後も母マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らし」(2章19節)たと記しています。神の出来事に人間の側はただただ圧倒されて口をつぐむほかなかった、そうした「沈黙」、「静けさ」に特徴があったのです。
 ですから古代の「聖ヤコブ典礼」に由来するクリスマスの賛美歌255番「生けるものすべて」の歌詞も、「生けるものすべて おそれて静まり、世の思い捨てて みめぐみを思え。神のみ子は 生まれたもう、ひとの姿にて」と歌うのです。
 今年は最初の「沈黙」に立ち返ってみましょう。神であられた方が救いのためにその座を捨て、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられ」、更には「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」となられた(フィリピの信徒への手紙2章6~8節「キリスト賛歌」)という「受肉の神秘」の前に、「おそれて静まる」クリスマスです。

緊急事態宣言発出(2021年7月12日)に伴うお知らせ

7月12日〜8月22日まで、第4回目の「緊急事態宣言」が出されました。
この間は、公共交通機関を用いないで礼拝堂に来れる近隣の方に限定して小礼拝を10時30分から30分程度で行います。
Zoomでも配信します。
教会学校は行いませんが、小礼拝の中で「子どもの礼拝」を行います。

以上

<2021年イースター・メッセージ>

<2021年イースター・メッセージ>
「♯わきまえない女」たちの証言
荻窪教会副牧師  龍口奈里子

(聖句)
「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。……婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、信徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」
(ルカによる福音書24:8~12節)

<メッセージ>
 イースターおめでとうございます。皆さんは福音書が伝える復活の記事と言えば、どの場面を思い出されるでしょうか。
 例えば、「エマオ途上での2人の弟子への顕現」の場面(ルカ24:13~35)、「イエスとトマス」の場面(ヨハネ20:24~29)、また4福音書すべてに記されている主イエスの弟子たちへの顕現の場面などがあります。主イエスが「焼いた魚を1匹」食べられた個所(ルカ24:36以下)などはその情景が目に浮かぶようです。
 ただこれらの場面には残念ながら女性たちは登場しません。しかし別の角度から見ると、福音書の復活の場面には女性が出てきます。
 例えば、「空っぽの墓」を最初に発見したのは「マグダラのマリアともう一人のマリア」(マタイ28:1)でした。ヨハネだと女性は1名ですが、マルコだと「サロメ」を入れて3名、ルカは「ヨハナ」や「ガリラヤから従ってきた女性たち」もいたと記していますので、ここから多くの女性たちが主の復活の証言者であったことが窺えます。しかもどの男性の弟子たちよりも先に、主イエスはマグダラのマリアに近寄り、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」(ヨハネ20:15)と声をかけられるのでした。
 このように主の復活はまず女性たちに告知され、この女性たちこそが復活された主イエスの最初の目撃者であった、と4福音書が一致して触れているのは重要な点だと思います。
 彼女たちは主の十字架の死を最後まで見届け、3日後に「空っぽの墓」を見て「途方に暮れ」ました。しかしその驚きと恐れから立ち直った時、「3日目に復活することになっている」という「イエスの言葉を思い出」すのでした。そしてそのことをペトロたち男性の使徒たちに急ぎ知らせました。
 しかし彼らはそれを「たわ言」というのでした。自分たちの信仰を自分の言葉で語った女性たちの証言は、ペトロたちからすれば、いわゆる「#わきまえない女」の発言であったのかもしれません。この女性たちの言動は、やがて成立してゆく初代教会形成においても決して揺らぐことはなかったとルカは記しています。
 私たちの群れも、いつも先立つキリストに従い、語るべきことを語る復活の証人でありたいと思います。