<2016年秋の伝道礼拝>第2回(11月20日) 説教要旨

「黙していられない神」
エレミヤ書第4章19節
マタイによる福音書第18章21〜35節

荻窪教会副牧師  龍口 奈里子

<メッセージ>
エレミヤの時代(紀元前6・7世紀頃)、イスラエルは政治的不正や異教の神々への祭儀が蔓延し、荒廃していました。エレミヤ書全52章は厳しい滅びの預言と希望の預言の両面が交互に語られているのが特色です。1-30章には神の怒りと裁きの言葉が、31-52章には神の痛みと悲しみの言葉が綴られています。
4章19節では滅びと希望という、相対する神の思いがとてもよく描かれています。「はらわたよ、はらわたよ」と2回続けています。「はらわた」というと、腹がたって怒りを堪えることが出来ない状態を「はらわたが煮えくり返る」と表現しますが、「はらわた」という言葉には別の意味もあります。ギリシャ語の「スプランクノン」は「内臓・はらわた」という言葉ですが、動詞にすると「スプランクニゾマイ」となります。31章20節「わたしは彼を憐れまずにはいられない」の「憐れむ」に「スプランクニゾマイ」が用いられています。腹の底から痛む・苦しむという意味です。
日本語にも、はらわたがちぎれるほど辛く悲しい思いを表す「断腸の思い」という言葉があります。4章27節で「わたしは滅ぼし尽くしはしない」と神は言われました。つまり神の怒りは「はらわたが煮えくり返る」というよりも「断腸の思い」という意味に近いのではないでしょうか。痛みを伴う赦し、「断腸の思い」で神は愛する民の罪を赦そうとされるのです。「はらわたよ、はらわたよ」と呼びかけて、もだえ苦しんでいる神の姿は、怒りではなく民を憐れみ苦しんでいる姿なのです。怒りながらも苦しむ神、裏切られようとも愛する神、悔い改めの心を待ち望みながらも一方的に赦す神、黙っていられない神、それが「スプランクニゾマイ・神の憐れみ」なのです。
 
新約聖書のたとえの中にも動詞「スプランクニゾマイ」が出てきますが、そこでは他人の苦しみを自分の苦しみのように苦しむ事、共に痛む事、共に悲しむ事という意味合いがあります。ギリシャ語「スプランクノン」(はらわた・内臓)は日本語で「同情・共感」と訳します。ドイツ語のミットライデンはミット=共に、ライデン=苦しむ。英語のシンパシーはシン=共に、パシー=苦しみ・感情という言葉からなります。主イエスのたとえでは「共に」ということが強調されていると思います。
 今日の「仲間を赦さない家来」のたとえで、王が最後に言った「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の「憐れむ」が動詞「スプランクニゾマイ」です。ペトロの「兄弟の罪を何回赦すべきですか、7回までですか」という問いに、主イエスは「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と言われました。何回その人を赦せるかではなく、主イエスが私たちの苦しみや悲しみに寄り添って赦してくださったように、私たちも自分から赦しなさいという事です。
このことがどれほど難しいかを私たちはよく知っています。だからこそ「自分の仲間を憐れむ心」が大切なのです。神さまからただ一方的に赦され、その赦しの道を私たちもまた歩む時、それが「共に生きる」道なのだと思います。
 「黙していられない」と厳しく語る神は、厳しく裁く神であると同時に憐れみの、赦しの神でもありました。そして主イエスは私たちと共にいて、同じ心をもって私たちを憐れみ「互いに愛し合い・赦し合い・共に生きる」道へと導いてくださっています。