信徒講座Ⅰ「標語に学ぶ」 2016年4月24日 小海 基

信徒講座Ⅰ「標語に学ぶ」              2016年4月24日 小海 基

2016年度標語
「母がその子を慰めるように私もあなたたちを慰める(イザヤ66:13)」

「ローズンゲン」が選んだ今年度標語について

2016年度の「ローズンゲン」の年度聖句はこのイザヤ書の言葉です。
この聖句はイザヤ書の一番終わりの所で出てくるというだけでなく、父性的に語られることの多い旧約聖書の神の愛が珍しく母性的に表現されている箇所でもあります。日本では恐ろしいものを「地震、雷、火事、親父…」と言いますが、聖書の「父なる神」という表現はどうしても「峻厳な神」、「恐い神」のイメージが先立ってしまいます。「無償の愛」というイメージで神の愛を表現するのにはどうしても母性的なイメージは必要で、キリスト教絵画のシンボルでも、飢えたひな鳥に自分の身体をつついて血を飲ませる「ペリカン」を使ったりします。このイザヤ書の表現もそれと通じるものがあります。
私たち人間を神の「子」として位置づけ、私たちのすべての関係性に先立ち、それを基礎づけているものとしての「神の慰め」が語られています。その出来事がイエス・キリストの出来事として受肉し、成就するのだとする第2、3イザヤの「メシア預言」(その始まり40章も「慰め」から始まっていましたが)の最後に語られる終末的「慰め」です。それがイエス・キリストの出来事によって既に始まっていることを知る私たちキリスト者こそ、世界の和解の先頭に立たなければならないという使命を示す聖句です。
さて、皆さんは古代ギリシァの哲学者プラトンの傑作対話篇の1つである「ゴルギアス」編を読んだことがありますか?
プラトンの先生であるソクラテスが雄弁家ゴルギアスを言い負かすという話です。ゴルギアスという人は当時の地中海世界一の雄弁家です。なにしろ黒を白として通してしまうほどの雄弁家です。論争させて敗けたことが無い。その道のプロさえゴルギアスに言い負かされてしまいます。雄弁術こそがこの世のあらゆる技術の中の頂点だと誇っています
しかしそれに対してソクラテスはそんなものは立派な物の部類にさえ入らないというのです。不正を行いながら巧みな弁論術で言い逃れ、裁きや罰を受けない事よりも、不正の被害を受ける方がましだというのです。この対話篇は最初の内私たちも聴衆と一緒になって、ソクラテスの方が説得力が乏しく詭弁、屁理屈をこねているように感じているのですけれど、そのうちにゴルギアスと一緒にソクラテスに追い詰められ、言い負かされてしまう所が醍醐味です。
ソクラテスは言います。弁論術や料理、化粧術…といったものは、それ自体に本質のある技術ではない。哲学や医術とはその点で異なる。病気を癒したり、健康にしたり、真理を指し示すものではない。弁論術や料理、化粧術といった物は、本質を離れ、使い方を誤り「快楽」だけを目的として走っていったら、不正を増し、命を損ね、醜さを増してしまう。「迎合」と呼ぶべきものなのだというのです。
日本基督教団や西東京教区の中で近年目につくのは、「伝道」ということが変に大上段に振りかざされるばかりで実態が伴っていないことです。言葉巧みであるとか、人を集める方法手段とか、明るい暗いといった雰囲気だとか、そんなものにとらわれ走っていると、いつの間にかゴルギアスの雄弁術の罠に落ちてしまいます。「迎合」化し出すわけです。
問題は教会の「伝道」の伝えようとしている本質です。私たちが主の「慰め」に生かされているかということです。
今年の標語「母がその子を慰めるように私もあなたたちを慰める(イザヤ66:13)」もそのことを語っています。私たち自身がイエス・キリストの救いの出来事に現れた神の愛という本質から出発しなければ、どんな伝える技術が巧みでもダメです。母の愛→無償の愛→絶対の愛→イエス・キリストに現れた神の愛という風に、されは聖書の世界を知らない人にも伝えられるはずだというのです。そしてその愛に現実に「慰められた」者たちが、「慰め手」として遣わされているからこそ、伝わっていくのです。