<2015年春の伝道礼拝>第1回(5月10日)説教要旨

「真理による自由」
エレミヤ書28:12-17
ヨハネによる福音書8:31-32
               
船越教会牧師 北村 慈郎先生

<メッセージ>

 ご存知のように、私は2010年9月15日付で日本基督教団から免職処分を受けて、教師の身分や資格を剥奪(はくだつ)されている者です。そのような私を、敢えて説教者として招いてくださる教会があることは、私には嬉しいことです。

私の信仰歴

 私の名前「慈郎」の「慈」は慈愛の慈であり、慈しみとも読みます。キリスト教信仰とつながりのある言葉といえますが、私の家族の中には誰もクリスチャンはいません。中学校からバプテストの関東学院という学校に入学していましたが、高校3年の10月頃までは、どちらかというとアンチキリスト教だったと思います。ただ高校1年の後半頃から母が筋萎縮症で寝たきりになり、またちょうどその頃父が責任を持っていた薬の仲卸の会社が倒産しました。この二つの出来事が重なったことによって私は悩みを抱えざるを得ませんでした。悩みを抱えてからの私は、ある意味で二つの人間不信に陥っていたと思います。一つは自分に対してです。母は寝たきりでしたから、その世話を家族がしなければなりません。しかし友人に誘われたりすると、私がしなければならない時も、兄や妹に押し付けて出かけていきました。母が自分を必要としている時に、私は自分のことを優先して、母の思いを裏切っているという罪の感覚、自分は間違ったことをしているという思いです。もう一つの人間不信は他人に対してです。父の会社の倒産後、その薬を横流しして自分の懐に入れていた人もいたりして、父親だけが苦しんでいるように思え、人間って信じられないものという人間不信の思いが増幅していました。
 そのような時友人に誘われて、高3の11月初めの日曜日に初めて紅葉坂教会の礼拝に出席しました。そして強引にお願いしてその年のクリスマスに洗礼を授けてもらいました。1959年12月20日です。その時に洗礼を受けようとしたのは、人間は人を裏切るが、イエスは人を裏切らない、だからイエスに従って生きていこうという思い、ただそれだけでした。イエスとの出会いによって、私はこのイエスに最後までついて行こうと思ったのです。

最初の任地での出会い

 もう一つ私の個人史の中で大きな出来事は、神学生時代から最初の任地である足立梅田教会時代の10年間に関わった廃品回収を生業(なりわい)としていた人たちとの出会いです。当時そのような人たちを「バタヤさん」と呼んでいました。
 仕切屋という「バタヤさん」が集めてきた廃品を買い取るところがあり、その仕切屋さんが長屋を持っており、そこに「バタヤさん」が住んでいました。その長屋は、3畳ほどの部屋が並んでいる隙間風が入る劣悪な建物でした。「バタヤさん」の中に数人、洗礼を受けて足立梅田教会のメンバーになっていました。その一人が真冬に心不全で亡くなりました。相当目の不自由だった人ですが、私はその知らせを受けて長屋に行き、亡くなっている状態を見ました。集めたくずの山の中でかろうじてつくられている寝床で冷たくなっていました。猫がいて、布団の周りには猫の糞が散乱していました。
 私は、このような経験を通して、イエスは誰のために死んでくださったのかということを考える時に、「バタヤさん」のようなこの社会の中で最も小さくされている方々のためではないかと思うようになりました。そのようなイエスの生涯と死が、私への問いであり、そういう形で私のためでもあるのではないかと思うようになっていきました。
 「人間は人を裏切るが、イエスは決して裏切らない」ということと、イエスの生涯と死と復活はこの世で最も小さくされている人のためであり、そのことによって、私たちすべてのためのものではないかということとが、私のイエス理解の根幹になりました。

聖書の語る「自由」とは

 先ほどの聖書の箇所に、イエスは「わたしの言葉にとどまっているならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と語られたと記されています。それを聞いたユダヤ人たちは「今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と、イエスに言いました。
 このユダヤ人が陥った自己理解に私たちも陥りやすいのではないでしようか。自分たちはキリスト者として「真理と自由」をすでに持っている。それを何とか人に伝える伝道が大事なことであって、すでに自由な者が何故自由にならなければならないのかと。
 しかし現実は、ユダヤ人はイエスを殺そうとする自己絶対化に陥っていますが、それに気づけません。信仰に誠実であると思えば思うほど、信仰から遠ざかってしまうという逆説に気づかなければなりません。「信じます。不信なわたしをお助けください」と言った人の信仰でなければならないと思います。私たちはイエスによって真理と自由に招かれながら、真理を所有する者でも、自由な者でもありません。偽りと囚われの中で生きています。イエスとイエスの言葉にとどまっているならば、偽りと囚われの中にある己に恐怖し、そこから解き放ってくださるイエスに従って生きる希望と喜びに己を投げ出さないわけにはいきません。
 イエスの宣べ伝えた神の国は丸い円盤の上に、みんなが手をつないで一緒にいるというイメージではないでしょうか。権力を持った一部の人が上層にいて、差別抑圧されている人達が底辺にいる、そして圧倒的に多くの人々がその中間層にいる。そのような縦菱形の今の社会が、みんなが対等同等で、それぞれが大切にされる円盤の社会に変わっていくことが、神の国の到来に近づくことではないかと思います。神のみ国がこの世に到来していることを信じ、イエスに招かれ、その招きに応えて生きようとする者は、今ここで、それにふさわしく生きていこうとするのではないでしょうか。「真理はあなたがたを自由にする」とは、そのようなことではないかと思います。偽りの覆いがとりのぞかれた「真理」に立ち、さまざまな囚われから解放された「自由」をもって、イエスの後に従って共に歩んで参りたいと願うものであります。
(終わり)