<メッセージ>
今日は自分史を中心に証しのお話をいたします。
生まれ故郷は愛媛県の宇和島です。「世界の中心で愛を叫ぶ」のモチーフになった所で、作者の片山恭一氏は中高の1年先輩でもあります。段々畑にはみかん、水道からはポンジュースというのは嘘ですが、自然豊かな、のんびりした地域です。
そのような片田舎で教団の教会付属幼稚園、教会学校に通っていました。ある日、ネパールで医療活動をされている岩村昇博士が来られてお話を聞く機会がありました。
岩村先生はJOCSの大先輩で、ネパールに派遣され、結核対策の医療活動に関わっておられました。
その時のお話は、ある山奥に住む患者を麓の病院で治療するため、先生に頼まれた青年が何日もかけてその患者を負ぶって連れてきて病院に到着してお礼を渡そうとすると、その青年は「ドクター、お金なんていりません。私は若いので若いエネルギーを少し分けてあげただけです」と答えたのです。
それを聞いた先生は、青年の言う「みんなで生きる」という姿勢を全うできていただろうかと思われたそうです。この「みんなで生きる」という姿勢は、今も私たちJOCSのモットーとして引き継がれ、お金を送るのではなく、人を送り、「草の根」の人々と共に苦労を分かち合い、共に考え、共に働くという姿勢を貫いています。
小学生の頃に聞いた岩村先生のこのお話はずっと私の心に残り、その後、進路を考える頃には岩村先生のような生き方をしたいと思い、医学部を受験しました。しかし三浪し、そのあと神学部に入学して進路を再考しました。
入学した関西(かんせい)学院大学神学部でのさまざまな先輩たちとの出会いは人生の宝物かもしれないと思っています。この教会の龍口奈里子先生もそのお一人です。
夜通し「自治」について、あるいは「社会」について語り合った彼は今、長野で牧会をしています。また、別の先輩から「釜」(大阪の釜ケ崎、あいりん地区)に行こうと否応なく誘われて通ったこともありました。そこでソーシャルワーカーをされている看護師の入佐さんとの出会いもその頃でした。彼女はJOCSのワーカーを志し、そのことを岩村先生に話したところ、岩村先生から「日本にもネパールがあるよ」と言われて釜ケ崎に入り、すでに30年以上になります。
神学部在学中の夏休みにバングラデシュに1カ月半滞在する機会を与えられました。バングラデシュを選んだのは、最貧国といわれる国の現状を見たいと考えたからでした。現地では、「夢見る」青年の絵空事は毎晩、徹底的に破壊されました。目の前で人が死に、手遅れで手の施しようがないという、すさまじい現実の前に、技術や経験を持たない者の無力感。35年前、私にとってこれが最初のバングラデシュとの出会いでした。
神学部卒業後に医学部への挑戦を再開しましたが、2年3年と過ぎ、周りの者も私に再考を迫り始めました。昼間は受験勉強、夜は家庭教師や塾・予備校で教えるという孤独な生活の中で、物心両面で支えて下さったのは教団の甲子園教会の方々や同じ下宿の仲間たちでした。
通っていた甲子園教会の当時の祈祷会は、1人がひと言祈ったあと、各人が一週間の自分の出来事を「生活立証」として語る形式でした。自分の生活を語り、それを覚えていてくれる人たちがいてくださるというのが何よりの大きな支えでした。
30歳近くの4、5年目ともなると皆、就職や結婚などで落ち着きはじめる頃ですが、私は孤独な闘いにありました。「なぜ道を開いてくれないのですか?」と何度も何度も問いかけましたが、答は出ません。5年目……、さすがに今度ダメなら考え直そうと思った時に道が開かれました。
振り返ると、その場その場に応じて「私の側」に立っていてくれた人々がいてくださったように思えます。
入学した徳島大学医学部は再受験者が多く、私は四番目の年長者でした。30歳をすぎての医学の勉強は大変でしたが、卒業後、研修医として福岡の救急病院に赴任しました。3日に1回の当直はきつかったのですが、その経験が今役立っています。この病院を選んだ理由は専門を心療内科にしたかったからです。心療内科は心と体を分けず、総合内科をベースにその人が置かれている環境、個人史、倫理観、経済状況まで考慮しつつ全人的に見て行くのです。このアプローチの仕方は途上国に働く医療者には必要な要素と思われます。
この病院に赴任してこられた松林医師との出会いによって多忙な中でも一人一人を大切にする大事さを学びました。クリスチャンではありませんが、この上司は自分には「よきサマリア人」として映り、医師として目標とする人でもあります。
その後、ワーカーとしてバングラデシュに赴任後は、酸素、薬、点滴などのストック切れを始め予期しえない様々なトラブルを経験しました。
詳しいことは午後の報告会でお話したいと思います。
望んで働いているとはいえ、文化背景や思考の違いはさらに重圧を加えていきます。それでも続けていられるのは、家族の存在ももちろん大きいのですが、現地で私の側に立っていてくれるスタッフがいたり、日本で支え、覚えてくれる人たちがいるからにほかなりません。
今日お読みしました聖書は、「よいサマリア人のたとえ」として有名な個所です。私たちにとって「道の反対側」でなく、「同じ側」を歩むとはどういう意味を持つのでしょうか。私たちは、今、しなくてはいけない自分にとって大きなこと、得になる事がある時、目の前にあっても、それが小さなもので他人から評価されないものであるなら、「それは大切なことだな」、「やってあげたいな」と思っても、ついつい目をそむけてしまいがちです。しかし、そのような小さなことでも目をそむけず後回しにせず、実際にその事柄に関わっていくことこそ、「道の同じ側」を共に歩む、共に生きるということではないでしょうか。
今、私たちが日本で出来ることは3つあります。
1つ目は知ることです。2つ目は知ったことを自分がどのように関わっていけるか、考え祈ることです。そして3つ目は実際に行動することだと思います。
実行に移すことは確かに大変なことです。しかし同じ側の道を共に歩み、生きることを真剣に望み、行動に移す時、神様は私たちに同じ側を歩いて行こうとする隣人を与え、神様自からも私たちの傍に立ち、その場から押し出してくれるのだと信じます。
だからこそ、出口の見えない闇の中でも、私たちは、「何処へ」向かうべきかを示すわずかな光を見つけ出し、それに向かって歩んでゆけるのだと思います。それは、ひとりではないからです。
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