<メッセージ>
今朝はペトロの歩みを通して「聖書が語る私たちの行先」について考えます。
ヨハネ13章36節以下は四福音書のどれにも記されている聖書の中でも重要な箇所と言えます。
主イエスはこれから十字架につけられることを何度も弟子たちに予告されますが、弟子たちはそのことに気づかず、ペトロは「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねます。このペトロに対して主イエスは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と答えます。
ペトロは主イエスから、自分の力、勇気、意志を試されていると思い、「主よ、なぜ(中略)あなたのためなら命を捨てます」と強く答えましたが、主は「わたしのために命を捨てると言うのか。(中略)鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と述べられるのでした。
実際、そんな人間的な意志や勇気などは死の恐怖のもとでは一遍に吹き飛んでしまう、自分の力を信じて、それに頼るならば、行先は見えなくなるとペトロに言われたのでした。
では、ペトロはどうやって自分の歩むべき道(行先)を見出したのか。主の復活後、彼はエルサレムを中心に主イエスの教えを宣べ伝えていくのですが、聖書がペトロについて記しているのはここまでです。
その後のペトロについては、伝説や逸話の中でもポーランドのノーベル賞受賞作家シェンキェーヴィッチが1896年に書いた「クオヴァディス」(岩波文庫)が有名です。ペトロが皇帝ネロの迫害を逃れてローマを去る途上、キリストに出会い、「クオヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこへ行かれるのですか)と問うのです。この時、主は「お前が私の民を見捨てるなら、私がローマに行って、再び十字架に架かろう」と言われたのを聞き、ペトロは悔恨の念にかられつつ、ローマに引き返し、殉教したという話です。
ペトロにとって、「クオヴァディス・ドミネ」という問いが、自分の行先が見えなくなった時、自分の歩むべき道が閉ざされてしまった時など、いつもこの問いに立ち返ったと思うのです。それが彼の信仰の原点、悔い改めの原点となって、最終的には「ローマへ」引き返す道(行先)となりました。
自分の力や勇気や意志によって、主に従えるかが決まるのではなく、どれだけ主の前に自分の心が砕かれて、主に立ち返ることができるか、ペトロにとってそのことが主イエスについて行く大切な信仰の原点でした。
旧約聖書に出てくるエレミアにとってバビロン捕囚は悲劇でしたが、イスラエルの民がいつもそこに立ち返って、心砕かれるならば、神様は決して見捨てられないという預言を語り続けました。
私たちも、イスラエルの民が神様のもとから離れたように、またペトロのように自分の力や能力で自分の行先を勝手に決めておきながら、主が共におられないと感じたら、不安になって「主よ、どこへ行かれるのですか」と不満を述べてしまうのです。主から離れようとしているのは、この私自身なのに「主よ、どこへ」と問い続けるのです。しかし、主イエスは、そんな私たちの弱さを知りつつも、赦して下さって、主と共にある道を示し、いつでも立ち返るよう導いて下さいます。いつも主の前に心砕いて、主に従って、主の後について行けるよう、歩んで参りましょう。
|