<メッセージ>
私たちキリスト者は、洗礼を受けたエリートでも、何か特権を与えられている者でも、私たちだけが救われ、そうでない人は滅びるということでもありません。
ヨハネによる福音書3章16〜17節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とあるように、2千年前のイエス・キリストの十字架の救いは全ての人に届いているのです。
それでは、信者とそうでない人とはどう違うのでしょうか。信者というのは自分も周りの人も主の十字架によって救われていることにすでに気付き知っている者ということです。それゆえキリスト者はそれを知って、未だ気付かない人に対してある種の代理的責任を負っている者なのです。
このことは第二次世界大戦時、ヒトラーに抵抗したため処刑された、ボンへッファーという牧師が獄中で次のように書いています。
「イエスは、神の子でありながら人間となって、我々に代わって生きたのであるから、あらゆる人間の生は本質的に彼が代わって生きた生であると言える。イエスは、全ての人間の〈私〉を受け入れ、担う方としてのみ生きたのである。イエスの生活、行為、努力全体は代理を負うことだった。真実の代理的行為においてこそ、イエスはまさに、責任を負う者、そのものなのである。彼は生命であり、それゆえ彼によって代理されているのは、全ての人の生命である」(村上伸(ひろし)訳)。
ボンヘッファーが好きな聖書に出エジプト記32章があります。モーセが神の信託を受けるためシナイ山に上っている間に、アロンやイスラエルの民が金の雄牛を作り崇めているのを見て、モーセは神にその罪の許しを乞い、この民の罪を自分の身に引き受け、自分を担保に差し出すのです。この罪深いイスラエルの民の中でも、モーセの子孫だけは約束の地を受け継ぐとの神様の保障があるにもかかわらず、全ての民のために彼は祈るのです。
これをボンヘッファーは自分の立場と重ね合わせ祈りました。自分は身の安全が保障される米国に亡命しているが、自分が責任を負うべき人達はまだ暗黒のヨーロッパで苦しんでいる。あの人達の責任を自分は担わなければならない。たとえ自分が処刑されるとしても、ドイツに帰り、ドイツの教会の再建、ドイツ国民の罪の許しを乞おうとしたのです。
ボンヘッファーは、ルターが「悔い改め」という説教の中で「本当に私たちが悔い改めなければならないのは、私たちが〈他に対して〉負うているものを持たず、また、〈他に対する〉負い目を果たしていないことを告白することであり、こうした告白は私たちが〈この地上に〉生きる限り、絶えず行うべきものである」と述べていることを指摘します。誰に対しても負い目を負うことを拒み、他者に対して負い目を返していないという二つのことを悔い改めなければ、それは表面だけの悔い改めに過ぎないと語っています。
私たちキリスト者は、キリストが私たちのために生命の代理人となってくださったことを知っている者です。だからこそ、私たちもイエスに倣って他者の生命の代理人、執り成し手として祈る者です。
今日はペンテコステです。聖霊が下って教会が生れ、その教会というキリスト者の群れは、生命の代理人として、イエスの身体が形づくられていく群れであることを覚えて歩んでまいりましょう。
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