10月23日

<2011年秋の伝道礼拝>第3回
賢さと素直さ

ひばりが丘教会牧師
深澤 馨 先生
                  

              詩編51:12〜19

              マタイによる福音書10:16〜20

<メッセージ>

「賢さ」と「素直さ」の使い分けの難しさ
 今日の聖句に「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」という、聖書の中でよく知られた御言葉があります。これは、イエス様が、「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と、お弟子さんたちを、この厳しい世の中に遣わされる時に言われた言葉です。
狼に比べたら羊は本当に弱い。だから羊としては、狼を避けて羊だけで群れをなして過ごしたいという誘惑があります。しかし、誰でもそのような過ごし方、生き方が出来るものではありません。特にキリスト者、キリストに遣わされた者として生きるためには、しっかりしなければならない、無防備、無考えであってはならないわけです。そのためには、「蛇のように賢く、鳩のように素直である」ことが求められるのです。

 このイエス様の御言葉を聞く時、皆さんは賢さと素直さ、賢明さと純粋さをどう使い分けて生きていくかと考えるでしょう。この相異なる二つのことを、自分の中でどう使い分けていくかと考える。しかし、これはとても難しいことを知らされます。その難しさとは、状況判断の難しさにあります。自分がその状況を判断して、蛇か鳩かを選び取っていかなければならない。ところが、自分は、蛇のように賢く行動して、それでうまくいったと思っていても、本当は鳩のように素直にありのままに行動に表した方が良かったのではないか、と反省を強いられることがあるからです。
 そして、人があまりに知恵を働かせ、賢く生きるというやり方を一旦選び取ってしまうと、そうすべきでない時にもそうしてしまう、いつの間にかそれが身についてしまう。自分は賢く行動したと思っても、周囲は小利口で、ずる賢いだけとしか評さない。
 では、自分はどんな場合でも、ひたすら鳩に徹して素直に純真に生きようとします。相手や周囲やその置かれた状況を深く考えないで、自分が良いつもりで、思っていることをそのまま言いたいだけ言い、したいことをし、非常に純粋に行動する。けれども周りには大変迷惑が及ぶわけです。
 ですから、蛇と鳩、このどちらか一方だけで生きようとすることは、自分本位、エゴイストの生き方に転がっていくことになる。と言って、「使い分け」これも状況判断の難しさ故に、言うは易く行うに難しということになります。しかし、イエス様がそのような出来ないことを世に遣わす弟子達に、また私たちに言われるわけがなく、どこかで、私たちの思考に誤りがあるに違いないのです。

よく「見る」ことで分かること
 イエス様は「空の鳥を見よ。野の花を見よ」と言われた。「蛇」でもよく見なければならないと思う。一体、賢さをいうのに、なぜイエス様は蛇を持ち出されたのか。創世記にも蛇は「主なる神が造られた生き物のうち、最も狡猾であった」と書かれ、厭い避けるべき狡猾さの代表です。なのにイエス様はその蛇に賢さを見出し、その賢さを見倣えと言われるのです。
 蛇のあの極めてほっそりとした体型、それは飢えに耐える姿ではないか、そして冷静さを失うことなく、相手や状況を見つめ考える姿、また獲物に対して根気よく待つ姿、そして、うねり、よじり、すり抜け、全力で戦う姿、イエス様はこれを蛇の賢さと見られたのではないでしょうか。
 私たちがクリスチャンとして、キリストを証していくためには、このような賢さが必要なのではないでしょうか。使徒パウロも、いかに多くの抜け道や間道を通って、福音を人々に伝えてきたか。蛇のような賢さ、柔軟さ、粘り強さで地中海を行き巡り、その何度にも及ぶ旅の行程は文字通り蛇行していました。
 では「鳩のような素直さ」とはなんでしょうか。鳩に「素直さ」を見たのは、ほかならぬイエス様なのです。旧約聖書には、イエス様のように、鳩に「素直さ」を見た記述はありません。「素直」と訳されているギリシャ語の「アケライオス」は悪意のない、無邪気な、無垢な、純真なという意味です。悪というものを信ぜず、人が悪意を持って仕掛けてきても、それを好意だと思うほどに、無邪気で善良な心を示す、その時、敵意を持って仕掛ける者も無力になってしまう。それ程の無邪気な、善良な心を持つ、これがイエス様の言われる「素直さ」ということではないかと思うのです。

 そう考えると、イエス様は本当に素直な方だと思わされます。イエス様は十字架の上で、「渇く」と叫ばれました。イエス様は、激しい渇きの時、私たちがきっと上げるに違いない声を上げられました。また、兵士の差し出す海綿に浸した葡萄酒を口に含まれ、憐れみ、同情、愛を受けることに対してイエス様は素直でした。また、十字架を背負って歩まれたその途上でも、よろめき倒れるイエス様に代わって十字架を担いだキレネのシモンの助けを拒まれませんでした。自分はどんな人間の憐れみも好意も受けず、自分に与えられた苦しみを一人で負っていくだとか、自分は誰の助けも受けずに、自分に与えられた使命は一人で貫徹するのだという意固地な英雄的な態度をお持ちにならなかった。イエス様は人の好意や助けを素直に受けることによって、相手を受け入れ、相手に光栄を与え、人間としての場を与えられたのでした。この素直さを私たちは倣わなければならないと思います。

「賢さと素直さ」をしっかりと持って生きる
 ローマ時代、キリスト教が迫害されながら、ついに勝利したのはなぜでしょうか。信仰の敵である狼に対して羊が狼に優る爪や牙をつけ、その強さを持って打ち勝ったからでしょうか。自分を守るために巧妙に振舞ったからでしょうか。そうではなく、羊は羊のままでした。迫害されれば反撃することもなく、迫害する者たちの救いのために祈る、敵のために祈る愛を失うことがありませんでした。愛は敵の心の中にくい込み、相手を変えました。「鳩のような素直さ」、無邪気さ、純真さがあれば良い、また、苦しみに耐え、冷静さを失うことなく、落ち着いて考え、希望を失わず待つ、この「蛇のような賢さ」を持てば良いのです。

 最後に、今日の聖句のマタイ10章19節に「人々があなたたちを引き渡す時、どのように、何を語ろうかと思い煩うな。語るべきことは、その時にあなたたちに与えられるであろうから」とあります。こざかしく立ち回ることもいらない、うまく使い分けることもいらない。「賢さと素直さ」この二つをしっかり持っていれば良い。そうすれば、神様がキリストの霊、聖霊を持って導いてくださる、キリストが守り導いてくださるというのです。このことを信じて、生きていきたいものです。