10月16日

<2011年秋の伝道礼拝>第2回
知恵ある者に恥をかかせ

荻窪教会副牧師
龍口 奈里子先生
                  

              エレミヤ書9:22〜23

              コリントの信徒への手紙T 1:26〜31

<メッセージ>

 聖書の中の信仰者たちは危機に瀕した時、立ち止って聖書の中の知恵に耳を傾けてきました。しかし同時に、危機に陥るときの原因となるのもまた「知恵」なのです。パウロは、それは「神の知恵」ではなく「人間の知恵」によるのだと言います。
 パウロがコリントの教会を去った後、教会の中に幾つかのグループができ、それが原因でごたごたした問題が起こりました。それを指導するために送ったこの手紙の中でパウロは、私たち人間の知恵が教会の中に党派を作り、福音を空しくさせる原因だと述べます。続けて、私たちは何か人より聖書について優秀な知識があったから神様に救われたわけではないし、神の真理について多くの知識を得たから教会の指導者になれたわけでもない。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」と述べるのです。救いの主導権は神の側にあったのに、私たちの知恵が神に近づく道具として使われ、神が私たちの奴隷となってしまっているとパウロは批判します。神を私たちの奴隷としてしまう、これこそ私たちの知恵の最大の罪なのです。
 「信徒の友」10月号に大船渡市の開業医山浦玄嗣(はるつぐ)先生の講演会のことが載っています。先生はカトリック信者で「ケセン語」に聖書を翻訳されたことでも有名ですが、今回のことで一番憤っているのは、「なぜ神様はこのようなひどい目にあわせるのか」というメディアのインタビューだと言われるのです。「こんな意地の悪い質問をするのは『お前たちは神さま、仏さまに見捨てられたのだ』というのと同じで、人の心を絶望で腐らせる猛毒です。…津波でなくても人が死ぬのは本当に悲しいです。そして、それとは別に災害が起こるのも当たり前のことなんです。この世界はそういうようにできています。『なぜ』と問うこと自体意味がありません。」「神様はわたしたちの奴隷ではありません。われわれが神様の道具なのであって、神様はわれわれの主なのです。そこを履き違えてはいけません。」先生は、大きな神の知恵の前ではどんなに立派な人間の言葉も知恵も一遍に吹き飛ばされてしまい、ただ神の赦しの中に生きることだというのです。
 人間がいくら自分の知恵を積み上げて立派になったとしても、神様の前では一人の欠けのある罪人にすぎない、とパウロは言います。人の目から見ればただ愚かにしか見えないキリストの十字架にこそ、本当の救いがあるのです。その「神の愚かさ」は私たちが努力して知恵をつけることで得られるのではなくて、ただ神様の恵みとして一方的に与えられるものなのです。
 三浦綾子さんの小説「母」に登場する、プロレタリア文学者小林多喜二の母セキさんは、多喜二がなぜ警察によって裁判にもかけられないで殺されてしまったのか、と長い間苦しんできました。ある時教会でイエスの十字架の話を聞きます。その時セキさんは、イエス様の十字架の苦しみは、ああ、それは私の苦しみのためだったと理解したのでした。そして生涯の最後に、神の愚かさである十字架に、自分の喜びも悲しみも苦しみもすべてをゆだねようと決意するのでした。字も読めず年老いて何もできないセキさんは、まさしく「世の無力な者」でした。でも神様はそのような者を選ばれ、確かに救いが届くようにしてくださるのです。
知恵ある者に恥をかかせ、本当の救いを与えてくださる神様に感謝して、主イエスにしっかりと結ばれた一日一日を送っていきたいと思います。