<メッセージ>
政治用語で「ポピュリズム」というのは、本来1890年代アメリカの第3政党「人民党ポピュリストパーティー」の掲げる「人民主義」の政策を表す言葉で、現在日本で使われている「民心に媚びる政策」というのとは全く異なるものであったようです。元来の意味から丁度百年後、自民党政権末期のごたごたの中で、安っぽいばら撒き政策、民心に媚びて政権の延命を図るといった悪い意味で定着してしまった感があります。
私たちの杉並区の前区長がまさに悪い意味での「ポピュリスト」の典型でした。政権末期になればなるほどメッキが剥げて右翼的傾向がはっきりしてきたのですが、「新自由主義」を掲げ、資産運用で十年後には区税を廃止するとか(実際は民間委託に強引に切り替えただけ、教育や福祉予算はどんどん削っていった)、「教育特区」にすると称して、右翼的「つくる会」教科書採択、「師範館」なる杉並独自の教員養成機関を作り、民間人校長を全国に先駆けて登用、「学校選択制」導入で生徒の集まらなくなった学校を次々と統廃合する等々の、華々しい、マスコミ受け狙いの政策を次々と打ち出していきました。区長をやめて1年もしないうちに、その全てが失敗と混乱であったことが明らかになりつつあります。区税廃止は実現せず、ちょうど先週の教育委員会で6年ぶりに「つくる会」教科書は採択をしないことになりました(不採択の理由の一つに「杉並区の中学生の社会の成績だけが他の教科に比べて突出して高くない」という大変ショッキングなものがありました)。師範館は経済的理由でこの3月末で閉館、そのおかげで「区職員」として教員採用になった出身者は将来の管理職の道も閉ざされたまま中途半端に梯子を外されることになりました。民間人校長の学校では次々と事件が起こりました。プール事故隠ぺい、ガス漏れ騒ぎ、校内で私塾に営利授業をさせる「夜スペ」もこの春で最初の塾が撤退、校長お気に入りの数学教員によるセクハラまで発覚しました。学校統廃合も見直しとなりました。「ポピュリズム」が破たんしていく様を、この数ヶ月にわたって区民はまざまざと見せられ続けたのです。
アブサロムの政策も派手ではありますが、実態は単なる「ポピュリズム」に過ぎません。朝早くにエルサレム城門の傍らに立って王の裁定を求める人たちの言い分を無責任に評価してやり王の裁定をくさす。王としての第一声を生まれ故郷でもある古都ヘブロンで行いエルサレム遷都を快く思わない人々の心をつかむ。要人200名を王即位に無理やり立ち会わせる。バトシェバ事件の決着に割り切れない思いでいるバトシェバの祖父アヒトフェルを招待する。…そうしたひとつひとつの策の上に、15章冒頭にあるようにアブサロムの母方の出身であったゲシュル風のいかにも異教的な派手な演出で即位を一方的に演出するのです。即ち髪の毛のふさふさしたイスラエルでも抜きん出てハンサムな王様が当時の最新兵器である戦車に乗り、それを50人の近衛兵団が戦車隊と騎兵隊となって取り囲み、角笛の合図と共に即位を宣言するという具合です。かつて預言者サムエルが王を求めるイスラエルの民に警告したそのままの有様でした。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の千社の前を走らせ…」(サムエル記上8:11以下)。こんな即位式はサウル王もダビデ王もしたことがありませんでした。イスラエルの民はこの異教的な神様抜きの即位式に大喜びで、まるでアロンの子牛の像に祭りをささげたような騒ぎになりました。しかしそれはメッキに過ぎないのです。
さて一緒に読みましたルカによる福音書第16章1〜13節は、不正が主人に発覚していかにも付け焼刃の「ポピュリズム」でしのごうとした管理人のたとえです。意外にもイエス様が「賢い」と評価したために、ルカによる福音書の編集者、伝承者この管理人の一体どこが評価できるのか三種類も矛盾した解釈を付け加えてしまったために余計わからなくなってしまったたとえ話です。私が一番すとんと胸に落ちたのはK・バルトが『教会教義学』で示したものです。後代に付加された解釈に振り回されずに、説教者の経験からこのたとえ話を読み解こうとします。土曜の夜にあまりに見事で面白いお笑い芸人のジョークに舌を巻いた。翌日の日曜礼拝にあまりに不手際な説教を聴かされた。本来なら前の晩のジョークより以上に私たちを楽しませ、満足させ、笑わせ、喜ばせる使信が語られているはずなのに、この世の子らのようにすらそれが成功していないというのはどうしたものだろうと、私たちに与えられている恵みの出来事に立ち返らせ、考えさせるたとえなのだというわけです。
アブサロムがポピュリズムの手法を駆使するのは、ダビデ王のように内実がないからです。ダビデ王の自覚している内実は、エルサレムの王座に固執しないほど大きなものでした。表面的なポピュリズムに目を奪われてしまうのでなく、私たちに与えられている恵みの内実はどれほど大きいのか、それに比べればヘブライ人への手紙ではないですけれど、この世では寄留者、旅人、仮住まいの者とされてもいとわないほどの内実に、私たちはいつも立ち返らなければならないのです。
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