<メッセージ>
5月から中野桃園教会の代務者を引き受けて丸4ヶ月。ようやく後任牧者招聘のための臨時総会を9月初めに招集することができほっとしています。最後の説教として「赦しと和解」というテーマで語りたいと思います。
前任者の突然の辞任ということで、代務を引き受けた当初はこの教会の空気もピリピリとしていたことを思い起こします。だんだんと訪れるたびにその空気がほぐれていきました。その陰にある役員の皆さんの支えととりなしというのは本当に立派であったと思います。ある時ポロッと役員Oさんが「教会に笑顔が戻ってきた」と言われたのが私にとってとても印象的で、それこそ代務者冥利に尽きる、今までの苦労が報われた様な思いをすることのできた勲章のような言葉だったと思います。最初はカサカサとささくれ立った割れきれない思いの教会員の皆さんの思いは痛いほど伝わってきました。その思いを断ち切って新たな思いで出発をする、前進していこうとする姿に成熟した信仰を感じました。
そこに「赦し」があります。「赦し」はこちら側、私たちの側の決意です。しかしその先があります。「和解」です。「和解」はこちら側と向こう側の双方向の問題です。
「赦し」から出発するのだけれど双方向の「和解」で完成するのです。私の愛読する20世紀最大のプロテスタント神学者K・バルトは主著「教会教義学」のイエス・キリストの救いを語る部分を「和解論」と題しました。伝統的には「救済論」とか「贖罪論」と名付けられる部分を「和解論」としたのは、この出来事は神様の側からの一方的な赦し、救いに留まらないで、神様の側でも人間の救いの必要性があった、一方向の出来事でなくて双方向の「和解」という関係が回復されていく必要があったというわけです。ですから「和解論」には十字架と復活の救いが語られることに留まらないで、応答の側の問題である教会論、倫理、サクラメントの問題まで含むことになります。「和解論」は膨れ上がり、バルトの生きている間には完成せず未完に終わりましたが、21世紀に生きる私たちにも決して無縁でない、「報復の連鎖」を断ち切って双方の「和解」がどのように成立していくのかということにおいてとても示唆的だと思います。まず「赦し」があって、そして「和解」の関係へと進むのです。そしてイエス・キリストという出来事において究極の「赦し」と「和解」が起きていることを私たちキリスト者は知っているのですから、もはやこの世では、この地上では、「赦し」と「和解」の成立しない領域はあり得ないのです。
ダビデと三男アブサムの「赦し」と「和解」をとりもったのは将軍ヨアブでした。私たち人間はたとえダビデ王であろうと罪人ですから、自分ではなかなか「赦し」へとすすめません。「放蕩息子」のお父さんみたいに、まだ息子がはるかかなたにぼろぼろの姿で歩いて来るのを見てなりふり構わず駆け寄るくらいのことを実はしたいにもかかわらず、プライドが、自我が、罪が阻んでいます。でも「執成し手」にはなれるのです。ヨアブのような少々問題を持った人間でさえなれるのです。教会もそうです。弱さを抱えた罪人の群れではあるけれど「赦し」と「和解」を担う共同体なのです。
ダビデの側近ヨアブが実のところこの時何を考えていたかについては諸説あるようです。父子の間を取り持つことで自分は王朝の黒幕として影響力を高めるチャンスにしたのだという「野心説」を採る学者の方か多いくらいです。なるほどのちにダビデは遺言で後継者ソロモンにヨアブ暗殺を示唆します(列上2章)。でも私は反対です。この時のヨアブの動機はもっと単純で、自分の過去の弱さを知っていたからだと思うのです。ヨアブもまた弟アサヘルの敵討ち思いに駆り立てられてイスラエルの英雄アブネルを殺してしまったという過去を抱えていたからです。「血の報復」が残された磯背区の責務だとする当時の因習の空しさ、ばかばかしさを骨身にしみて感じていたに違いありません。ここでヨアブは知恵のある女性を用いて大芝居をうたせるのですけれど台詞は全部ヨアブが作ったものです。「血の報復の連鎖」は一族廃絶へと追い込み嗣業を取り上げてしまおうという他の親族の「野心」が裏にはあるのだと示唆する、この台詞はたいしたものです。ダビデ王自身も自分の数代前先祖のルツの時に遠い親族ボアズとの「レビラト婚」によって嗣業を失わないで済んだという経験がありましたので、この芝居はとても効きました。そして背後で仕掛けているのがヨアブだということも分かったわけです。
ダビデは「赦し」を宣言します。「よかろう。そうしよう。…連れ戻すがよい」(22節)。
しかし父から子への一方的な「赦し」の宣言だけでは「和解」という双方の関係はまだ修復しません。息子の悔い改めもありません。「赦し」は「和解」へと進まなければ関係が回復しないのです。この状態で2年間放っておかれたアブサロムは暴走を始めます。これ見よがしに自分の娘を妹と同じ名「タマル」と名付け、あろうことか父子関係を執成したヨアブの麦畑に火を放つのです。一方的「赦し」に留りつづけ、双方の関係である「和解」に至らなかったために振出しに戻ってしまうどころか、もっとひどい悲劇へと進んでしまうのです。最期はアブサロムは自分の人気と美の象徴であるふさふさとした髪の毛のゆえに死んでいくという結末を迎えることになります。畑に火をつけられたヨアブの再度の執成しでダビデとアブサロムは口づけし合うのですが、こんな表面的なポーズが「和解」という関係とはとても言えないでしょう。
私たちと神様との関係を考えさせられます。私たちに起こっている出来事は、ただ神様からの一方的な「赦し」に留まっているのか。ヨアブと同じように主イエスの救いはそこに留まる程度のことなのか。それともゆるされた私たちを突き動かし駆り立てて「和解」へと進まざるを得ないものなのか。聖書がどれほど大きな救いを語っているのか、よく考えてみなければならないでしょう。私たちはもはやアブサロムのようではあり得ないのです。アブサロムのような半端な関係に留まり続けられないのです。そうなら私たちの地上的な美徳、長所さえも、アブサロムの髪の毛ではないですけれど致命的な欠点にさえ変わることでしょう。私たちにもたらされた「和解」に生きる共同体へと私たちは招かれているのです。
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