<メッセージ>
何百万人もの人々が「寂しさ病」とも言われる依存症に
西片町教会では以前、アルコール依存症の人々が回復を求めて支え合う会の集会の場として会堂をお貸ししていた時期があります。また『信徒の友』の取材で薬物依存リハビリセンターを訪問したこともあり、これらによって私は「依存症」が極めて身近な問題であると教えられました。
国内でアルコール依存者は約240万人と報告されており、さらにそれ以上の覚醒剤、麻薬乱用者がいると言われており、何百万人もの人々が「依存症」にかかっています。
しかしながら、私はそのことだけでこの問題が身近な問題だと言っているのではありません。依存とは、魂に渇きと寂しさを感じている人間がその空虚を何かで埋めようとする行為だと教えられました。となれば、この問題は誰にでも思い当たるところがあるのではないでしょうか。
依存とは「寂しさ病」とも言われます。魂の空虚さを埋めるものはアルコールやクスリだけでなく、パチンコなどのギャンブル、過食、ニコチン、ショッピング、リストカットなどの自傷行為、人や性への依存、そしてカルト宗教への入信など、「依存者」は無数と言えるのではないでしょうか。
依存症である「しるし」はあるお菓子のキャッチコピーのように、「やめられない、止まらない」点にあります。覚醒剤は魂の渇きを、一瞬は劇的に癒すかに見えますが、その快感は急速に失われ、すぐに次が欲しくなり、無限地獄に陥るのです。
人間を三つの部分として捉える聖書の人間理解
本日選んだヨハネ福音書の物語で主イエスが井戸端で出会って下さったサマリアの女性は、おそらく男性依存症の女性と思われます。そのサマリアの女性に主イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。」(ヨハネ福音書4章13節)と言われました。
ではどうしたら、このまた渇く水、覚醒剤に代表される依存状態から救われるのでしょうか。多くの依存症経験者は人間の意志力だけでは救われるのが難しいと言います。その理由をある人は、依存を「霊的病気」だから、と表現しています。
そこで私が思い出すのは聖書における人間理解は「三つの部分がある」ということです。使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙1の5章23節で、「霊も魂(心)も体も」、ギリシャ語では〈プニューマ、プシュケー、ソーマ〉があると言うのです。人間は「心と体」の二つの部分で出来ていると思いがちですが、パウロは「それだけじゃない、もう一つある」。それが「霊」だと書いているのです。
この「霊」の部分は「宗教性」と言ってよいかもしれません。神を感じることが出来る部分、神と人間が触れ合う部分です。人間には心と体とは別に、神の霊、聖霊〈プニューマ〉を迎え入れることができる霊的器が存在するという考え方です。しかも私たちがその存在を一番忘れがちな「霊」こそテサロニケの信徒への手紙ではトップに出てきて、実は人生の決め手を握るものが「霊」であるとパウロは主張しているのです。
心に知識を蓄え、身体を運動で鍛えることも大切ですが、それだけでは決定的なことが欠けていて、人間には「霊」が入らなければならないとパウロは言うのです。
教会暦で間もなくペンテコステ(編集委員会注。2011年は6月12日)を迎えますが、その時に多くの教会で創世記2章7節が読まれます。神様がアダムの鼻に吹き入れて下さった「命の息」とはまさに私たち人間に下ってきて、霊の器を充たして下さったのではないでしょうか。
創世記によれば、神の霊(息)を納める霊的器が人間には最初から創造されていると言うのです。霊の部分に聖霊が充たされる時、私たちの霊的渇きは癒されるように創られており、霊の器に聖霊が入らなければ、生きているようで生きていない「泥人形」に過ぎないと言っています。
そうなると人間は寂しくて寂しくて仕方なくなり、そこを埋めるものを死に物狂いで探し始め、その空虚な部分に隙があれば「はまり込もう」とする「悪霊」がこの世にはあまりにも多く跋扈しているのです。
主イエスによる聖霊こそが空虚な魂を充たして下さる
異性依存症のサマリアの女性は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ福音書4章15節)と願いました。これは切実な祈りであったに違いありません。飲んでも飲んでもすぐに渇くことに悩み抜いてきたからです。この渇きと寂しさを癒すのは主イエスが与えてくださる霊なる水以外にはありません。
アルコール依存や薬物依存からの回復を支える民間支援センターは、いずれの宗教とも関係ありませんが、彼らは不思議なくらい宗教的です。自分たちを回復させる力は自分の内にはなく、彼らの表現で言う「ハイヤー・パワー」に自分の一切を委ねるしかないと主張しています。
薬物依存症だったAさんは回復プログラムの中で、不意に胸の奥から切ないものが込み上げてくる経験をし、「ああ、もう何もいらない。失うものは何もないんだ。それでも自分は充たされているから」と万感を込めた吐息がその時に吐き出されたと証しています。そして全てが吐き出され胸が空っぽになった瞬間、待ち構えていたように何かが入り込んでくるのを実感したそうです。彼はこの経験を、悪霊がハイヤー・パワーに入れ替わった瞬間の出来事だと書いています。
主イエス・キリストの霊・聖霊によってこそ、私たちの空虚な霊の部分が充たされ、自分の心を充たす別のものを求めて探し回らなくとも済むのです。聖霊でいっぱいの霊には他のものが入り込む余地はもはやありません。私たちの根深い「寂しさ病」から私たちを解放してくださるのが聖霊様なのです。
来る6月12日はその喜びのペンテコステの祝いの素晴らしい日です。その喜びの日を荻窪教会で迎えましょう。
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