<メッセージ>
今回東日本で起きた大地震のような規模のものはめったにありませんが、日本は大変地震が多い国です。しかし聖書に地震の記録はそれほど多くありません。出エジプト記や民数記、マタイによる福音書の主イエス復活の際の地震、使徒言行録でパウロたちがいたフィリピの獄の扉が地震によって開いたという記事、この世の終わりの前兆として出てくるヨハネの黙示録などです。そんな中でこのアモス書という短い書物には五箇所に地震の記載があります。
旧約聖書の預言者というのは、第二イザヤやエリシャのように預言者の弟子になり教育を受けて預言者になる人もいますが、多くはある日突然神様から命じられて、それまでの職をすべて投げ捨てて預言者にされてしまう方がはるかに多いのです。アモスもそういう預言者です。小さな村に生まれ、昨日までいちじく桑を栽培し羊を飼っていたという兼業農民だった人です。アモスはなかなか知的な人であったようですが、兼業農民であった人が突然神様から命じられて悪い王様の支配する北イスラエルのサマリヤに行って、あるいはベテルやギルガルの神殿に行って、「この国は滅びる」という神様の預言を伝えるのは命がけのことであったでしょう。
アモスの預言した地震と日蝕は紀元前763年に起こったことが確定しています。おそらくアモスはこの前後5年間という短い間預言者として活躍し、また羊の群といちじく桑の栽培に帰っていったといわれています。
私たちにとって考えさせられるのは、アモスは地震や日蝕、飢饉が起こることを預言しましたが、そのような天災が悲劇の中心ではない、もっと恐ろしいものがあると預言したことです。「わたしは大地に飢えを送る/それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(8:11)神様の言葉に誰も耳を傾けない、神様の言葉に誰も飢えてもいなければ渇いてもいない。イスラエルの人々は神の言葉があふれていたときには聞こうとしないのに、大地震日蝕飢饉が起こると途端に「神さまはおられるのだろうか」という思いを抱くようになるのです。
5月の連休にボランティアとして仙台に行った時に、会った後輩の牧師がこのように話していました。創世記第1章のはじめ「地は混沌であって」の「混沌」はあらゆる境界線がないことで砂漠の民らしい感じ方だと思っていた。しかし今回津波を見て、境界線がはっきりしないことが混沌の意味だと本当に思った。創造の2日目には「よかった」という言葉はない。水が天と地に分かれただけで境界をもっていないからで、まだそれでは「混沌」なのだ。神様は3日目に天の下の水が一箇所に集まり、海と陸の境界が定まって初めて「良し」とされる。今の状態は混沌、しかし神様の創造はここで終わらない。1日半かけて境界を定め、神様は良しと言うところまで働いてくださる。そう後輩は語るのです。
かつての青々と広がる田んぼや美しい松林はぐちゃぐちゃになり無秩序が広がっていました。しかし神様はこの「混沌」から回復され「良し」とされる日を設けてくださる。そういう時に、ああ、本当に神の言葉に渇いていたのだ、と思いました。一見神の言葉にあふれているときには、それが失われたらどれほど飢えることなのか、と思いはしません。普段私たちはその渇きに気づいていない。それが大きな問題なのです。しかし私たちを養うのは神様の言葉です。私たちはその問題に気づき、神の言葉を求めて行かなくてはいけないのです。
|