<メッセージ>
福島原発の事故の影響で、3月23日に東京都の浄水場で乳児の基準を超える放射性ヨウ素が検出されたとの発表がありました。これによって水の買い占めがおこり、「命の水」を本当に必要としている赤ちゃんのいる家庭に水が行きわたらないという状況が浮き彫りにされました。これはまさにこの現代社会のなかにある私たち一人一人の心の「渇き」を象徴していると思わずにはいられません。
本日読んだ旧約聖書で、私たちが経験したこの「水騒動」が紀元前13世紀に起きていたことがわかります。「出エジプト」はおよそ40年にもわたる大きな出来事となりますが、彼らははや2か月で先の見えない旅の生活に堪え切れずに、指導者モーセに「水が欲しい」と訴えます。何も全く水がないというわけではなかったでしょう。イスラエルの民が求めたものは「欲しいときに欲しいだけの水」であり、それがないとなると焦りや恐怖で自分たちの心が途端に渇いてしまうのです。
そんな民の声を聴いたモーセが「一体私はどうしたらよいのか」と神様に問うたところ、モーセの祈りに神は応えられます。モーセがホレブの岩の前に立ち、神様が一緒にいてくださるのだと信じて岩を杖で打つと、岩から「ほとばしる水」が溢れ出たのでした。
私たちのもつ心の渇きもこのイスラエルの民と全く変わらないのではないかと思います。「こんなもので満足できるわけはない」という不満がいつもある状態が「心が渇いている状態」なのだと思います。また物を欲することだけでなく、例えば今の生活に対し「もっとこうでなければ」「こんなはずではなかった」という不安を持ったりすることも、現代に生きる私たちの多くが持っている心の渇きではないでしょうか。
今日もう一か所お読みしました新約聖書にでてくるサマリアの女性もこのような心の渇きをもって日々歩んできた人のように思えます。これまでの彼女の人生は、魂の渇きを満たしたいために、次々に何かを求めている人生でありましたが、それを行えば行うほど心のむなしさ、渇きを覚える毎日でした。しかし何気なく出会った主イエスが差し出してくださる決して渇かない水を飲むことによって、自分の渇いた心に命が吹き込まれるのだと気づきます。実はこの彼女の発見こそが信仰の第一歩であります。キリスト教の信仰とはキリストとともに道を歩むことなのであります。自分が努力して求めて得る道ではなく、主の招きに答えて、主の差し出してくださる水を受け取るということなのであります。その道は楽な道ばかりではないでしょう。しかしその時々に気づかされることがある道であり、その道を歩むことによって自分の中から泉となる水が溢れ出て、他の人をもその水で潤すことができるような生き方へと変えることができる、そのような人生を歩む道なのです。自分の内に不平や不満やむなしさを私たちが覚えるとき、私たちは命の水の源である主イエスのもとへ帰りさえすればいいのです。
モーセが主と出会ってほとばしる水を受けたように、サマリアで一人の女性が決して渇かない水を約束されたように、私たちも心が渇くとき、疲れを覚えるとき、主から命の水を与えられています。そして今日も神様は私たちに聖書を通してそのことを語りかけておられるのです。どうか聖書の中の主イエスと出会ってください。そして主の言葉の一つでも二つでもいいですから、そこから命を得て、そして誰かの命を支える一人となられますようにと心から祈ります。
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