10月17日
<2010年秋の伝道礼拝>第2回
「私は孤独ではない」
生田教会牧師
禿(かむろ) 準一先生
                  

              詩編4:17〜18

              ルカによる福音書12:22〜34

<メッセージ>

「思い悩むな」はイエス様が弟子たちに語った断言

 今日の聖書の新約聖書ルカによる福音書12章の箇所には、「思い悩むな」という小見出しがついています。
これはイエス様が弟子たちに語った断言です。単なる示唆とか提案、あるいは試してごらんというようなことではありません。イエス様の言葉は常にある面で私たちに決断を促すものですが、ここでは「思い悩むな」という促し・断言がイエス様からなされているのです。
「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とおっしゃった後に、私たちがよく知っているように、「烏(からす)のことを考えてみなさい」「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい」とおっしゃいました。

烏が嫌われものだということは当時も事実だと思いますが、イエス様があえてこの烏を取り上げたというのは別の意味があると思います。
旧約聖書のレビ記では、烏を穢れた鳥と見ています。宗教的に穢れている、あるいは存在そのものが穢れているというのですから、非常に大きな否定です。ごみをあさってしょうがないというだけではなくて、イエス様が歩まれた当時の社会では、穢れている鳥とみなされていました。しかし、そういう烏ですら神様は養ってくださるのです。
 新共同訳聖書で「思い悩むな」の部分は、口語訳では「思い煩うな」となっていますが、「煩う」という漢字は頭に火が乗っていて、いてもたってもいられないことを表す文字だそうです。
また「思い悩む」のギリシャ語の元々の意味は、「宙ぶらりんになってしまう、足元がきちっと立っていられない状態」を意味しています。神様は穢れていると嫌われている烏でさえ養ってくださる。大事に神様の御手の中にある。そしてこの烏よりも私たちの方が価値があるのだ。悩んだり苦しんだりしている私たちの方が価値があるのだ。だから宙ぶらりんのような気持ちになるな、頭に火が乗っかって落ち着かないような生き方をしなくていい、神様がしっかりと支えてくださっているのだから、とイエス様はおっしゃるのです。

私が大きな励ましを受けた詩編139編の御言葉

このイエス様の教えの根底を聖書の他の箇所で見ますと、私自身が大きな励ましを受けた詩編139編で次のように言われています。

「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。/座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる/歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。」

天地の創り主である神様は、私を究め知っていてくださる。悟っていてくださる。信仰を持って生きるということは、もう絶対に揺れないとか、困難とか苦しみがすっかりなくなるということではないと思います。それを背負って歩いているときに、そこにいつでもこのように究めてくださる神様がいてくださる。 あの烏でさえも養い、それよりも、もっと価値のあるものとして私たちを見つめてくださっているのです。
 イエス様はもう一つ、「野の花を見なさい」とおっしゃいました。この野の花とは、百合であるとかアネモネであるとか言われた時代もありました。またアザミであるという最近の研究者もいます。アザミはたんぽぽと同じように、根が深く土に入って他の花を咲かせないほどになり、畑に広がると被害を与える。これも嫌われている花です。
 私よりも少し若い滝沢武人という聖書学者は、烏とは日雇いや奴隷として真っ黒い顔をして働かなくてはならなかった当時のパレスチナの貧しい人々、一般の人たちから差別されている人たちではないか、と述べています。私はそれを読みましたときに感泣いたしました。

思い悩みながら過ごした、私の神学校時代

私の家庭はいわゆるクリスチャンホームではありませんでした。父は足に障がいがあり、お店を経営していたのですがうまくいかなくなり、障がいを持ちながら日雇いの重労働をしなければなりませんでした。春になると足が膿んで痛んで体調が悪くなり、寝込んでしまうことも多く、家庭はいつも貧乏でした。私は7人兄弟の長男ですが、この父がもし死んでしまったらどうしようかと思っていました。
神学校に入って寮生活をしていた当時、普通なら手紙が来るというのは嬉しいことですが、私は家から手紙が来ないように来ないようにと願いました。父がもうだめになった、あるいはお金がないから帰って来いという手紙が来るのではないか、そんな気持ちで郵便屋さんの姿を見ていたのです。
 野の花は何かというと、滝沢さんは百合や薔薇のように愛される花ではなく、明日は炉に投げ込まれる雑草なのではないかと言います。ソロモンの栄華よりもすばらしい美しさを持っている雑草であると、滝沢さんは『イエスの現場』という本に書いていらっしゃいます。この滝沢さんの説は学問的に問題があるかもしれませんが、私は大いに励まされました。

深いところで根源に触れてくださる神様

イエス様は苦しみや悩みを持って生きている人たちに関わって下さる。あなた方の必要なものを、すべてご存知の方がおられる。今背負っている事柄を思い悩むなと言われても、すぐ安心だという風にはならないでしょう。
私も悩みながら過ごしてまいりました。しかし神学校在学時代から50年たって、このイエス様の御言葉は私にとって本当に大きな励ましと支えになってきたと思いますし、確かにその時思い悩んだとしても、そのことは解決していくと思っています。
永遠なる神様はずっと先まで見通しておられ、この私の存在をちゃんと支えていてくださっているんだという思いを持つのです。そのときに、「野の花を見よ、烏を見よ」という御言葉が大きな安心になります。命の根源に触れている、揺れているけれども、深いところでは根源に触れてくださっているという思いなのです。
 ハンセン病で岡山の長島愛生園に入所している谷川辰夫さんという方が「信徒の友」に次のような短歌を載せていらっしゃいました。

「草原に伏して仰げばわれもまた小さき花なり大地に咲くなり」

 社会的に差別を受けたり、色々な困難があった方だと思います。しかし谷川さんは、「われもまた小さき花なり大地に咲くなり」と言うのです。
 イエス様の御言葉を読むときに、また谷川さんの短歌を読むときに、私たちは決して一人ではないのだ、と大きな安心と励ましを覚えます。
私たちは天地を創造し今も創造されているお方と一緒に生きているのです。
さらに私たちはこのことを主イエスにおいて見ます。この神が私たちに仕えて下さっているのです。このことを思うときに、私たちはある面で人生の大きな達人として生きていけるのではないかという思いを持つのです。