5月23日
2010年春の伝道礼拝>第3回
逃亡者の旅

龍口 奈里子
                  

                レビ記25:39〜46

                フィレモンへの手紙8〜16

<メッセージ>

 今月の伝道月間では「旅」をテーマにして説教が語られてきましたが、聖書に出てくる「旅」はその人の人生を物語っています。行き先もわからず、不安な旅路だったとしても、彼らは最後には信頼する所、拠り所とする所を見出し、強いられた旅路の中にこそ神様の恵みがあったということを発見するのでした。

 今日は「フィレモンへの手紙」に出てくるオネシモという一人の逃亡奴隷の旅です。フィレモンはコロサイに住む有力な信徒であり、奴隷を持っていましたが、パウロはその中の一人であるオネシモのためにフィレモンに手紙をしたためました。この手紙でパウロは人間としての価値も権利も全く認められないような一人の逃亡奴隷そのものに目を向けています。
 一説にオネシモはフィレモンの所で盗みを働き、逃げ出したと言われています。オネシモはおよそ170キロの道を歩いてパウロのところに身を寄せ、パウロとの出会いを通して信仰に導かれました。パウロはオネシモを自分の元に置いておきたいと思い、そのためにオネシモをもう一度フィレモンのところに送り返します。それがこのフィレモンへの手紙ですが、手紙の中でパウロは、「監禁中にもうけた私の子オネシモ」(10節)「私の心であるオネシモ」(12節)と、オネシモが自分にとって大事な存在であることを強調します。そしてフィレモンの元に戻るオネシモは「奴隷以上のもの、一人の人間としても、主を信じる者としても愛する兄弟であるはずです」とパウロは言います。

 当時の逃亡奴隷に対する罰則は大変厳しく、いくらパウロの手紙があっても、決して安心な旅ではなかったと思います。しかしオネシモは元の場所に帰っていきました。なぜならオネシモにとって旅の最終目的は「最後は帰るべき所に帰る」ことだったからでした。
 旅に出かけた場合、見たり食べたり出会ったりすることも旅の目的でしょう。でもその旅の最終目的はやはりさまざまな経験を手にして自分の家に帰ることではないでしょうか。オネシモにとって、それはキリストによって結ばれた一人の信仰者として、フィレモンの元に帰ることでした。

 オネシモという一人の数奇な人生を読むとき、人生という旅に必要な「備え」があるとすれば、それは自分を支えて下さる方を信じる「信仰」ではないかと思います。たとえ人生から逃げ出したくなるような状況にあっても、いつも自分の傍らにいて下さる主イエス・キリストに出会い、信頼するその時、自分の人生の旅路の帰るべき所ができ、私たちの人生は新しい意味をもってまた旅を続けることができるのです。
 そして、たとえ私たちの旅の途中が不完全であっても、弱さがあっても、オネシモのように逃げ道を歩んでいたとしても、主イエスは私たちの罪を神様に執り成して下さる方なのです。だからこそ、私たちは安心して帰るべきところが整えられているのです。
 私たちの旅はいいことばかりではありません。いつどこで試練があるかもしれません。でも、旅路の目的はいつも神様の元に帰ることです。そこに信頼を置いて主イエスに自分の人生をゆだね、私たちのそれぞれの旅を進めて参りましょう。