5月9日
2010年春の伝道礼拝>第1回
旅としての人生
 
小海 基
                  

                列王記下5:1〜14

                ルカによる福音書4:20〜30

<メッセージ>

 今回の伝道礼拝は「旅」がテーマです。「奥の細道」冒頭でも芭蕉が言うように、私たちは皆人生の旅人です。主イエス・キリストがガリラヤからエルサレムへ向かう公生涯も旅でした。旅には二つあります。一つは計画され、決められた中でする普通の旅です。もう一つは強いられた旅です。こちらの旅こそ人生をよく表し、自分の計画や想定したことをはるかに超えて、神様に出会う旅なのです。

 今日は旧約聖書のナアマン将軍の物語を取り上げました。イスラエルに大敗北をもたらした敵国アラムの将軍で、主君に重んじられていました。しかしナアマンは重い皮膚病に苦しむことになります。そこに登場するのが、これも強いられた旅の人生を歩む奴隷の少女でした。イスラエルから捕虜としてさらわれ、ナアマンの妻の召使となっていた名もないこの少女こそ、「旅としての人生」を生きた人だと思います。

 自分の故郷に大敗北をもたらしたナアマンの皮膚病を天罰だと思うことも可能だったでしょう。「これでイスラエルに平和が戻ってくる」と思うこともできたでしょう。しかしこの優しい少女は目の前の苦しむ人の姿を見るに忍びなく、サマリアの預言者、エリシャならば重い皮膚病を治してもらえるでしょう、と話したのでした。
 ナアマンからそのことを告げられた主君は、国家予算級の贈り物と手紙をナアマンに持たせてイスラエルに送り出しました。しかしこの手紙をもらったイスラエル王は、これはアラム王の言いがかりで、皮膚病を治せないことを口実に戦争を仕掛けるのでは、と曲解してしまいます。

 エリシャはナアマンに使いを送り、ヨルダン川で七度身を洗いなさいと告げます。しかし本来は横柄で傲慢な人であったナアマンは、ヨルダン川など決してきれいな川ではない、結局イスラエルの預言者は自分をばかにして、適当にあしらっているんだ、と怒り出してしまうのです。それを今度はナアマンの家来たちが諌めます。戦争の旅路を一緒に戦ってきた家来たちの諌めの言葉はナアマンに届き、素直にエリシャの言葉どおりにしたところ、重い皮膚病はいやされたのでした。
 預言者エリシャは悩んでいる者があれば敵国の人間でもいやした。神様は人間を分け隔てなさらず、本当に苦しむところで奇跡をおこされるのです。ナアマンはエリシャの言葉を疑いましたが、その思いをとがめられて、もう一度素直に神様の前に立ったときに奇跡が起こったのでした。
 私たちが自分の想定内で歩んでいくならば、ナアマンのように傲慢になり、いつの間にか神様の存在を忘れていきます。しかし思いもしない寄り道を旅しなければならなくなったときに、ナアマンにとってそれは病気だったのですが、思いがけない出会いがあり、そして神様の守りに出会っていくのです。

 教会はそういう人生の旅路の中で出会う場所です。この2年ほど隔週で教会を訪ねてくる方がいます。小学校時代のいじめが元で対人恐怖症になり、ひきこもりになってしまった人です。教会を訪ね、もう一度家族以外の人と話すようになりました。自分の殻の中にずっと閉じこもっていた人が、今旅を始めています。行く先は見えないけれど、旅路の中で出会いがあり、実は神様は旅路を守っていて下さるのだ。そういう旅を、今その人は始めているのです。想定外の旅だからこそ、自分の人生を新たに切り開いていく力を与えてくださる神様と出会うことができます。そして私たちはそこで信仰という世界と出会っていくのです。