3月28日
2010年棕櫚の主日礼拝>
十字架への道
 
龍口 奈里子
                  

                詩編11825-26

                マルコによる福音書11:1-11

<メッセージ>

「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」(7節)

 今日の聖書の箇所はいよいよ主イエスのエルサレム入城が始まるという場面です。
マルコによれば主イエスが入城の時に乗ったのは子ろばでした。過ぎ越しの祭りを前にして、エルサレムに集まってきた群衆が道に服や木の枝を敷き詰めて、歓呼の声をあげながら、主イエスの入城を迎える華やかな場面が繰り広げられたのでした。ヨハネによる福音書の並行記事を読みますと、彼らが手にしていた「葉のついた枝」とは、「なつめやしの枝」とありますが、これが棕櫚の枝のことです。ここから、受難週の最初の日曜日を棕櫚の聖日というようになりました。教会暦では今日から、最後の主イエスの1週間の道行きとなります。

 実は、民衆のこのような熱狂的な歓迎は、このときがちょうど過ぎ越しの祭りの直前という、イスラエルの民にとって最大の祭りのときであり、いたるところから人々が巡礼のためにエルサレムに終結していたからでもありました。エルサレムの人たちは、巡礼者を迎えるために、9節以下にあるような「ホサナ 主の名によって来られる方に、・・・・・・」と叫びながら、棕櫚の枝を持って迎えたのでした。
この歌は、旧約聖書の詩篇で歌われている詩です。今日いっしょに読んだ詩篇118篇25節、26節、この歌はもともと王が入城するときの歌です。
 「どうか主よ、私たちに救いを どうか主よ わたしたちに栄えを 祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」
そうやって、かつて、戦争に勝利した王様が軍馬や白馬に乗って入城するとき歌われた、その同じ歌を叫びながら、人々を迎え入れたのでした。そしてその中に、栄光の王である主イエスの姿もありました。しかし主イエスが乗っておられたのは、白馬・軍馬ではなくて、まだ誰も乗せたことのない小さな「子ろば」でした。
彼らは叫び続けます。「いと高きところにホサナ」と。
「ホサナ」・・・先ほどの詩編25節の「私たちに救いを」という意味です。人々は、上着を道に敷き、棕櫚の枝を高く上げて、そのように叫びました。上着を道に敷くという行為は、自分の大切なものを捧げることの証しでもあり、これも王を迎えるときの行為でもありました。人々は自分たちの全てを捧げるように、栄光の王である主を「ホサナ、ホサナ」「主よお救いください」と言って迎えました。しかしそれから1週間もしないうちに、舌の根もかわかないうちに、今度は「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫んでいたのでした。
今日の、この棕櫚の主日の華やかな光景は、一転して、主イエスの受難と十字架の場面へと移っていくのでした。

 そもそも王である主イエスがなぜ弟子たちに「子ろばを連れてくるように」と言われたのか、それが疑問です。軍馬とまではいかなくても、もっと大きな動物に乗った方が見た目にもよいのにと思います。
これは、ゼカリヤ書9章9節の預言からきています。つまり、この主イエスのエルサレム入城の姿こそが旧約聖書の預言の成就なのです。そこには「彼は神に従い、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。めろばの子であるろばに乗って」とあります。主イエスは、まさしく、この預言どおりに、決して高ぶらない、平和の道具であるろばに乗って、自らがもっともへりくだったエルサレムに入城されたのでした。しかし、ただ預言の成就としてだけではなく、「子ろば」を選ばれた理由があると思います。そしてそれが、すなわち、主の十字架への道そのものを示しているのだと思います。
それは1つには、勝利や力の象徴である馬のように、上へ、上へと権力の道を歩む道ではなく、下へ、下へと、へりくだってゆく道、それが主の十字架への道であるということです。だからこそ主はいつも私たちの人生の下り坂を一緒に歩んでくださる方なのです。

 わたしたちはそのことを、人生の上り坂にあるときはなかなか気づきません。でも私たちの人生はいつもいつも上り坂ばかりとは限りませんね。年を重ねてゆくと、いろいろなことが思うようにいかなくなるし、失敗や挫折もあります。下り坂にならざるをえないときがあるのです。そのようなときに、「ホサナ」「主よ、共にいてお救いください」と祈る私たちの祈りに主は応えてくださる、それが「子ろば」に乗った主イエスの姿なのです。
主イエスを迎える人々が叫んだ「ホサナ」という叫びも、そのような切実な叫びでした。主イエスの時代には、周りの国々の外圧もあり、彼らは、心の底からメシアの来ることを願い、熱狂的にそのことを願い、だからこそ、主イエスを、メシアとして、熱狂的に迎えたのでした。でも人々は、主イエスがエルサレムに入っていくその道が、上へ、上への道ではなくて、下へ、下へ、と下ってゆき、最後には十字架への道にあることをだれも予想しなかったのでした。

 だから、彼らは、あんなに大歓迎していながら、数日後には、主イエスを「十字架にかけよ」と叫んでいたのでした。

 私たち人間はなんと自分中心な存在なのでしょう。神様に対しての祈りが、その通りにならなければ、すぐに失望する。でも本当は、神様の方に意志があり、神様の方に計画があるのです。主イエスは、その神様の計画にすなおに従われたのでした。だから、颯爽とした白馬ではなくて、小さなろばに乗って、十字架への道を一歩一歩ゆっくりと進んで行かれるのでした。この「ゆっくりと」というのが、主がロバを用いて入城された2つめの意味です。

 主の計画、主のみ旨はゆっくりと進みます。レントという期間は、ろばに乗って入城される主の歩みがゆっくりであったことを深く味わって、自分たちの何でもかんでも自分の時間に合わせようとする信仰を、主の時間に合わせる時でもあるのです。
私たちの下り坂を共にいて、力づけてくださり、ゆっくりとご計画に従われる、それが、この棕櫚の主日に、小さなロバに乗って入城される主イエスの姿に他ならないのです。この方が、わたしたちが坂の下のどん底だと思い込んで、怖れている死を引き受けてくださるために、十字架への道を堂々と王として引き受けてくださり、そして、このどん底から復活されて、永遠の命、栄光への道を私たちに開いてくださったのです。
 このあと、私たちは来年度の教会の計画と予算をたてます。新しい年度への第一歩を踏み出す時、いつも共に歩んでくださる主がこの1年の歩みも支えてくださったことを感謝し、「主がご入り用なのです」という声にしっかりと耳を傾け、わたしたちの人生をささげてゆきたいと思います。