<メッセージ>
バッハといえば、楽譜の最後に必ず、『ただ神にのみ栄光(ソリ デオ グロリア)』という言葉の頭文字SDGを書き記していた、というエピソードでも有名です。この言葉はバッハの信仰の告白であり、祈りだと言うのです。
しかし、この言葉はバッハが使い始めたわけではなく、パウロがフィリピの信徒への手紙の中で、最後に、「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と記していますが、これも「ソリ デオ グロリア」なのです。
「ただ神にのみ栄光」という言葉は、神が神として崇められますように、ということで、いわば私たちの祈りの言葉といってよいと思います。
この言葉は宗教改革で掲げられた標語の一つでもあるのです。宗教改革の標語と言えば、「信仰のみ」という言葉が有名ですが、カルヴァン達は、「ただ神にのみ栄光を」というこの言葉を強く意識していたと言われています。ひたすら神の栄光を仰いで生きたカルヴァン達の信仰がバッハにも受け継がれたのではないかと思います。
もしこの信仰がなければ、バッハのような才能を持っている人であれば、自分の才能や能力におごってしまって自分を神とする自己神格化が起こってゆくのです。バッハはいつでも傲慢に陥りやすい自分を戒め、この「ソリ デオ グロリア」の一言を楽譜の末尾に書き記したのでしょう。それは、パウロがフィリピの手紙の終わりに、またカルヴァンが自分の生涯の終わりに書き残したのも同じで、それらは皆、いわば信仰の遺言ではなかったかと思います。
だから、私達キリスト者がなすべきことは、信仰的に何か努力したり、より良い人間と思われるように頑張ったりすることではなくて、ただ神ご自身の働きによって神の御名が崇められるようにと、ただ「神にのみ栄光を」と信じ、祈ることなのです。
旧約聖書に出てくるヤコブが、父と兄のもとから逃げ出した旅の途中、また、息子達が大きな事件を引き起こして途方にくれていた時、共に神様は、「私はお前がどこに行こうともお前を必ず守り、一緒にいる、決して見捨てない」と言う言葉通りに、ヤコブと共におられ、守り、見捨てられなかった。そして、「神を神として崇めなさい」、「神にのみ栄光があるように祈りなさい」と言われたのでした。
新約聖書におけるパウロは、「弱く、恥ずかしい自分」、「どうしようもない自分」は『土の器』だと言うのです。神様は、神様ご自身の栄光を帰するため、その名を明らかにされるために、私達を「もろい」「弱い」素焼きの土の器にされたのだ、そしてその土の器の中に、神の宝、すなわちイエス・キリストを納められたと言います。キリストによって、私達は罪赦され、愛され、私達の生きる意味や価値がはっきりと示されたのです。だから、私達は、自分の至らなさや弱さを抱え込んで落胆する必要もなく自分を大きく見せる必要もない。ただ私達の内に与えられている主イエス・キリストに「助けてください」、「ただ神にのみ栄光を」と祈るだけなのです。
主は決して私達をお見捨てならないし、共に一緒にいて守って下さるお方です。私達は、この人生をこのお方に預けて『ただ神にのみ栄光があるように』と人生の終わりの時まで祈って行こうではありませんか。
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