<メッセージ>
春の伝道月間はバッハの音楽を中心テーマに組み立てました。3回のうち今日は祈りについて考えます。
バッハの音楽の音符には必ず言葉が添えられていますので、メロディーを楽しむだけでは魅力の半分しか理解していないことになります。そのため言葉まで理解してこそ深く聴くことができ、バッハの全部の作品は祈りであると言ってもよいのです。
私たちの人生は平穏無事ばかりではなく、波風が立ち、嵐に見舞われるものです。それに対して本日の旧約でモーセが後継者ヨシュアに言い残した言葉も、新約のヘブライ人への手紙の著者が書き残している言葉も共通点があります。「主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない」「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」。そしてイエス・キリストは昨日も今日もまた永遠に変ることがない方なのです。
私たち信仰を持つ者の世界では「祈り」があります。仏教ならお経を唱えます。これは悟りの原点に戻りなさいということでしょう。一方キリスト教での祈りには二つの大きな特徴があります。一つはイエスの祈りに見られるように、自分の親に対するような親近感をもって神様に呼びかけることです。なかでも「アバ」とイエスが呼びかける言葉はアラム語の訛りで「お父ちゃん」とでもいったニュアンスです。二番目は「み心がなりますように」と祈ることです。イエスが十字架に架かられる前のゲッセマネの園で、「できればこの苦い杯を去らせてください」と苦しみを率直に訴えつつも、最後には「み心がなりますように」と神様に委ねるのです。
バッハだけでなく古い時代の教会音楽家の伝統であったようですが、バッハも伝統にならって楽譜の冒頭に「J.J.Jesu Juvaイエスよ助けたまえ」と書き、最後には「Soli Deo Gloria S.D.Gl神にのみ栄光があるように」と書き記しています。これはまさにバッハの祈りです。自分の才能や天才ぶりを誇るのではなく神の栄光を称えています。
バッハの教会カンタータは毎週作曲して毎週歌われていました。二度と演奏することすらないかも知れないにもかかわらず一つ一つの作品を生み出すのにどれだけ大変な苦労があったことかと思います。教会カンタータは約500曲作られ、約200曲が残されています。
故・高見澤潤子さんが召天されて、都市計画の学者でいらっしゃるご子息と火葬場でお話した時、なぜ理科系のお仕事を選ばれたのかとお伺いしたところ叔父さんの評論家・小林秀雄の物書きの仕事の大変さを何かにつけて耳にしていたからだと言われていたことを思います。
創造的な仕事とは小さな手漕ぎボートで荒海に乗り出していくようなものです。バッハも自信満々で作品を生み出していたのではありません。作品は決して自分の才能や力量によるものではなく、神様の助けによるものであると考えていました。そこがバッハの祈りの強いところです。バッハが生きていた時代に高く評価されていたのはテレマンやヘンデルでした。しかし今では民族や言葉を超えて深い感動を呼んで高く評価されているのは断然バッハです。
私たちも、何か新しい歩みを始める時、締めくくりの時に、バッハのように祈る繰り返しの中で人生を築いていきたいと思うのです。
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