5月10日
2009年春の伝道礼拝>
いと尊き神の御許に
 京葉中部教会牧師
村上 茂樹先生
                  

                列王記上17:1724

                ルカによる福音書71117

<メッセージ>

「意味のある偶然」
 現代作曲家の武満徹さんは、亡くなる2日前、病室で偶然つけたラジオで、大好きだったマタイ受難曲全曲を聴き、死の直前に最も好きなこの曲を聴けた喜びを家族に伝えて亡くなったそうです。ノンフィクション作家の柳田邦男さんはその著書「犠牲 わが息子・脳死の11日間」の中で、自死した息子さんの遺体が安置された自宅の居間のテレビに、偶然にも息子さんが大きな影響を受けたタルコフスキー監督の「サクリファイス(犠牲)」という映画のラストシーンが映し出され、大好きだったマタイ受難曲のアリアが部屋一杯に流れた、と書いています。

マタイ受難曲に関するお二人のエピソードは、深層心理学では「共時性」と呼ばれていますが、柳田さんはこれを「意味のある偶然」という言葉に置き換えて、ある出来事が単なる偶然のようにみえても、そこには人知を超えた大きな枠組みの中で起こる異次元的な意味があると述べています。そしてその後の心の持ち方が豊かなものとなったり、何か目に見えない大いなる物に守られているような心境になったりするとも述べています。このような出来事を今も産み続けている教会音楽の作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハについて今日はお話させていただきます。


今朝の御言葉はバッハのカンタータ8番から

今回選んだ聖書のテキストルカによる福音書71117節は、バッハのカンタータ八番「み神よ、わが死はいつ」がその当時演奏された三位一体後第16主日礼拝のテキストです。ここでのテーマは「死」です。バッハの時代の少し前のドイツ人ほど死と隣り合わせに生きていた人々は歴史上あまりありません。17世紀前半のドイツ国土が戦場となった三〇年戦争では、1800万人のドイツの総人口が700万人に激減したと言われています。このような中でキリスト教会も人の死ということに大変影響されていました。

 バッハ自身も死は身近なものでした。バッハは8人兄弟の一番末の子でした。両親は9歳の時に相次いで亡くなり、その時すでに7人兄姉のうち4人が亡くなっていました。また最初の妻と11人の子供にも先立たれています。両親が亡くなった後、バッハは教会オルガニストの一番年長の兄に引き取られましたが、早くから自立しなければならなかったことが、バッハの職業に対する意識に強く影響しています。


時代背景とバッハの音楽

バッハの音楽は後期の作品は別として、ほとんどの作品が礼拝、祝賀・祝典、結婚式や葬儀、また学校の教材など実用のために作られた音楽です。これらは自分に厳しい職人の業によって作られた、いわば工芸品、芸術作品です。バッハは度々職場を変えましたが、新しい任務のために自分が習得してきた全てを使い、意欲を持って取り組んでいます。そのような姿勢は、早くから自立を目指して叩き上げられ、常に技術を磨くことが要求される勤勉な職人としてバッハを見ることができます。

バッハの時代のルター派教会は教義に重きを置く主流の「正統主義派」と、魂の救いを教会に求め、聖書をじっくり読み、静かに祈る「敬虔派」が激しく対立していました。敬虔派の人達は、礼拝中の音楽は瞑想の妨げになると考えていました。バッハはじっくり聖書や神学書を読み、静かに祈る敬虔なキリスト者でしたが、音楽が魂の救いの邪魔になるという「敬虔派」の考えには断固として反対でした。

 またバッハの晩年になると、物事を知的に合理的に考え処理していく「啓蒙主義」という精神思想がフランスから入ってきます。知的教育に重点が置かれ、音楽など情操的なことは人間の成長の邪魔になるという考え方です。バッハは合理的な考えをする人でしたが、情操的なことを否定する考え方には反対でした。

 このような時代背景のためバッハの教会音楽自体が時代遅れになり、啓蒙主義に飲み込まれるように変わり行く礼拝の中で生命力を失って忘れ去られていきました。

 一方でバッハの信仰はどのようなものだったのでしょうか。バッハが62歳のとき神学生にプレゼントした数小節の楽譜の下に、「キリストは十字架を背負う人達に王冠をかぶせられるであろう」という言葉を書き添えました。人生は「十字架を背負ってイエスに従うことである」ということをこの言葉は示しています。「イエスに従う」とは、イエスが伝えた神の愛と神の正しさに生きると言うことです。イエスは神の愛と神の正しさに誠実に生きて、十字架に架けられ死んで葬られました。しかしそれで終わりではありません。今も私達と共に生き、私達のこの世に働いているのです。ですからバッハはいかなるときも前向きでした。

弱い者、悲しむ者に語られる復活の希望

 今日選んだ福音書の個所は、イエスがナインという街で若者を甦らせる場面です。一人息子を亡くして大きな悲しみにある哀れな母親に、イエスは「もう泣かなくても良い」と言って息子の亡骸が納められている棺に手をかけて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言いました。この言葉は愛する一人息子を失った母親に向けられている言葉です。なぜならルター派の信仰では、救い主は勝利者として強い者の傍らにいるのではなく、弱い者、悲しんでいる者、重荷を抱えている者の傍らに慰め主としているからです。聖書は私達に復活の希望はたとえ死に直面しても、悲しみが必ず喜びで満たされる時が来ることを伝えています。

 その死後完全に忘れ去られていたバッハの教会音楽は、1829年メンデルスゾーンのマタイ受難曲の再演によって蘇りました。そして今も私達に働いています。

今の時代を生きる私達にも同様にイエスは呼びかけています。「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と。「若者」とはこれから先に希望がある人のことです。年齢や地位に関係なく、またどのような状態であっても、私達全てには希望があるのです。